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聞きたいですか、先生 (夢見の宝玉6)

2009年02月05日 00:04

 その日の午後十一時三十分。予報では未明には雨が降り出すはずであった。
 学園内の鬱蒼とした林の中で宇田川は、煙草を手にしたまま一人待っていた。
 
 煙草を吸うのは何年振りだろうか。吸いたいなどという気持ちが自分に欠片でも残っていたことに驚きだった。この一事をとっても、どれだけ自分が神経質になっているかが判る。
 だが、それも当然のことと言えた。彼女からの電話は自分が十年以上待ち望んでいた内容であった。例え捨て駒の役であったとしても、宇田川には何の悔いもない。彼女のためになれれば十分であった。

(ねえ隆介、私達は連の絆だけに拘り過ぎていたのかもね。でも今の彼らは周囲の仲間たちの全てを力に変えて運命に挑もうとしているわ)
 昨日のアナスタシアの電話を反芻する。

 アナスタシア=ハート。ドルイドの血を引く祭司一族の末裔であり、人には見えぬものが見える女。宇田川が高校時代をともに過ごしたかけがえの無い友人であり、そして当時の宝玉の管理者――
 宇田川は十五年前のことを思い出して一瞬激しく後悔し、直ぐに思い返した。過去があるから今がある、そう自分に言い聞かせた。

 再び刺すような北風が吹き、宇田川はコートの襟を立てる。ここでどれだけ待つことになるのか宇田川には見当もつかなかった。
「場合によっては雪になるか」
 そう宇田川が独りごちたところで―― 

「今晩は、宇田川先生」
 突然の声に、慌てて煙草の火を消した。
 足元に置いたキャンプ用のランタンを点けて振り返ると、数年前に参宮学園を卒業した教え子が、小柄な身体を灰色のダブルのコートに身を包んで立っていた。巫女を想像させる白い肌と後ろで束ねた長い黒髪は、体育祭で会った時と変わりなかった。

「先生、夜中にどうされたんですか」
 夢見るような口調だった。距離があるにもかかわらず、女の方角からは動物園の檻でしか嗅いだことのない獣臭が漂ってきた。

 宇田川はランタンを掲げて素早く辺りを見回したが他の者の気配は無かった。満月とはいえ夜空には雨雲が広がっており、暗い林の中にぼんやりと浮かび上がるのは、女の白い顔だけである。予想外の人物に宇田川は動揺しつつも、気取られないよう細心の注意を払いながら隠し持ったスタンガンを握り締めた。
 
 自分は高宮武をおびき出す撒き餌ではなかったのか。
 腋の下を冷たい汗が流れ落ちる。

「鳴神君か、久しぶりだね」
 宇田川は、買い物帰りにでも会ったように自然な素振りで挨拶してみた。鳴神菖蒲も挨拶を返してきたが、歩み寄るにつれ鼻腔を突き刺す獣臭は強まった。
「鳴神君はどうしてここに?」
 ランタンを置くと、そろり、宇田川は切り出してみた。菖蒲が小首を傾げてもう一度笑みを浮かべたが、口の中は深紅に染まっていた。
「聞きたいですか、先生」

 怖い。

 特段おかしなところのない台詞だったが、宇田川の全身に鳥肌がたった。
 逃げ出したい、それが偽らざる気持ちであった。コートの内側でスタンガンを持つ手が汗で滑る。
 高宮は、凶獣はどこにいるのか。

「ところで、高宮君には会わなかったかい」
 その途端、後ろの林から何かが飛び立つ羽音が響いた。
 宇田川が思わず振り返って目を凝らしたが、暗い闇の奥に潜むものは見えない。大きく息を吐いて再び前を向くと、蝋のように白い菖蒲の顔があった。

 その目が細まっていた。
「ああ、彼なら」

 ここにいます。
 
 そう言って菖蒲が唇を舐めた。
 その口が裂けていく。顎関節が外れ、腐りかけの肉が重みに耐えかねてずり落ちるように首の付け根からぶら下がる。
 赤ん坊でも丸飲みできそうに開いた口の中、ぬらぬらと唾液に濡れた――
 
 高宮の顔が覗いた。
 安らかな寝顔だった
 
 もう耐え切れなかった。宇田川は衝動的にコートの中からスタンガンを前方の女へと突き出した。同時に放電音が響き渡る。
 だが、口の中に高宮の顔を宿した菖蒲は、笑顔のまま宇田川の右手首を振り払った。
宇田川が弾き飛ばされたスタンガンを慌てて拾い上げようとしたが、菖蒲はブーツの足で踏みつけた。それほど力を入れたように見えなかったが、電気剃刀ほどの大きさの器具は音を立てて壊れた。

「先生、突然ひどいじゃないですか」
 強烈な獣臭に思わず宇田川が顔を背けた。
 菖蒲の目は黄色く濁っていた。宇田川の首に手を回すとゆっくり顔を近づける。
 
 喰われる。
 頭では判っていた。
 だが、宇田川は蛇に魅入られた蛙のように動くことが出来なくなっていた。危機的状況に直面しながらも、菖蒲の口の中に見える高宮の閉じた瞼はあまりに安らかで、倒錯した羨望すら抱かせた。

 宇田川は自らの運命を菖蒲に委ねかけ――
 
 視界の端に、誰かが駆けて来る気配を確認した。
 再び眼を凝らして見ると、そこには待ちに待った二人の姿があった。宇田川の胸の中にささやかな、だが暖かな明かりが点る。

(アナスタシア、確かに彼らは辿り着いたよ。当時の僕らより優秀だったようだ)
 宇田川は、続く徹の叫びを夢の中で聞いていた。


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