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だが、夢の如し――だ (プリムラ7)

2009年01月17日 00:59

 徹は夢の中で天蓋と呼ばれていた。


 天蓋にこの屋敷に来る前の記憶は無い。
 気付いた時はここにいた。
 まだ歯も生え揃わぬうちから、葛原貞義の影として寄り添うことを運命とされた。
 
 自分の学ぶ技は何のためか、家長の貞義が自分を陰でどう呼ぶか。
 天蓋が知らないわけではない。
 
 それでも構わなかった。
 自分は道具だ。天蓋の数少ない信念である。
 自分は貞義の道具である――それで構わなかった。
 
 あの年下の少女と言葉を交わすまでは。

   * * *

 木蘭と金鳳花の咲く道を歩く。
 一面に広がる黄色の五弁が心を和ませる。
 天蓋にとって一年で一番幸せな季節だった。
 
 さっきから木蘭は、兄の貞義の仕打ちに腹を立てている。
 天蓋を無能扱いしたというのだ。
 だが当の天蓋は全く腹が立たなかった。
 あれほど怜悧な貞義が、道具の自分をそう思わない方がおかしいと納得しているからだ。
 
 無論、天蓋の頭の中に怜悧などという言葉はない。
 貞義殿は間抜けな己と違う――そう言っただけである。
 
 天蓋は知っている。
 その宿命故に鬼娘と避けられた木蘭が、心の内に誰よりも聖なるものを持つことを。
 立夏を過ぎ、爽やかな風が木蘭の髪をなびかせる。
 
 天蓋は目を細めた。
 ずっとこの季節が続けばよいのにと思う。
 ずっとこのままでいられればよいのに。

 ずっと木蘭の傍にいられればよいのに。

   * * *

 月を見に行こう。

 誘ったのは木蘭だった。
 天蓋も既にその理由を承知している。
 黙って頷き、木蘭の後ろを歩いた。
 空気の澄んだ夜だった。
 月影が木蘭の銀髪を一層輝かす。

 自分の一族は長じると髪が銀色に変わるらしい、そんな台詞を淡々と話すのを聞いた。
 今年の春、木蘭の髪は見事な銀髪に変じた。
 人々は鬼娘が本性を現したと噂しあった。

 だが、天蓋には本性とやらが何をさすのか全くわからない。
 木蘭の身体が、微かに女性らしい丸みを帯びるのを感じたのみである。
 醜悪な排斥感情が人間の本性ならば、他の者こそ正しく本性を現したといえるだろう。

 二人は黙って夜道を歩く。
 桜の若木の下、並んで空を見上げると満月が二人を照らしていた。
 春の夜の朧月夜にしくものぞなき。
 古の人はそういってこの季節の月を愛でたと、木蘭は教えてくれた。

 木蘭はものをよく知っている。
 いや、知識だけでない。
 もはや葛原で木蘭と互角に打ち合えるのは、天蓋のみでないだろうか。
 そして貴賤の隔てなく接する、清らかな心の在り様。
 全てが貞義殿より上――そう言い掛けて、何度その言葉を飲み込んだ事だろう。

「それにしても、何とまあ綺麗な月か」
 木蘭が感嘆の声を漏らす。
 よい夜だった。
 誓いを立てるのに、またとない夜だった。

「我ら、天の理を知り地の則に服し――」
 木蘭が低く謡うように言霊を風に乗せる。
 木蘭が宝玉に左手を置く。
 その上に、天蓋が自分の左手を重ねた。

「我らは宝玉の主にして僕。宝玉は常に我らと共にあり、我らは生涯を宝玉に捧ぐ」
 木蘭が言い終わると同時に、一陣の風が桜の花びらを舞い上げた。
 木蘭は莞爾として微笑むと、続けた。

「絢爛の中に虚無が潜む。見事な美しさだ」
 天蓋が付け加えた。
「木蘭のように難しくは言えぬ。だが、夢の如し――だ」
「夢でもよい。我らが夢から覚めても宝玉が覚えている」

 春の夜風が再び花びらを舞い上げた。

   * * *
 
 木蘭が自分を見た。
 こんな瞳で見つめられたことは無かった。

「その命、私に預けてくれ」
 どれ程の思いがその一言に込められているのか。
 どう答えたらよいのか。

 天蓋は脳味噌を絞って考え、笑い飛ばすことにした。
 口を開けて大声で笑った。
 腹を抱え身を捩った。
 睨みつける木蘭を気にせず言い放つ。
「己の命を木蘭殿が使うのに、何の遠慮がいるものか」

 木蘭はその言葉にまた憤慨する。
「木蘭殿などと、何を言う。我らにそのような主従の関係など――」

 ああ、木蘭は変わっていない。

 天蓋は金鳳花の道を思い出す。
 木蘭はあの頃と変わらない。
 己も、何とか変わらずにここまで来れた。

 天蓋は声を出して笑うのを止め、代わりに木蘭に語りかける。
 力を合わせ助け合うのが我らの誓い。
 そう言いたかっただけなのだと。

   * * *

 天蓋は左足首が折れていた。
 せっかくの月は雲に隠れてしまっている。
 風が、風下の天蓋に獣臭と血の匂いを運ぶ。

 傍らの木蘭だけは。
 その一念で身を呈して必死に守ってきた。

 だが、その木蘭も凶獣に傷をつけられること既に数度。
 木蘭の顔は土気色に変わっている。
 天蓋は我が身を顧みず、ただ傍らの銀髪の少女を案じる。
 
 せめて、少女が詠唱を終えるだけの時間が稼げれば。
 そう念じながら長鎖を頭上で旋回させた。
 長さ一丈を超える純銀の鎖である。
 天蓋の祖父はこの鎖で人狼を封じ込んだと伝えられている。

 左足首が地面に擦れる度に歯を食いしばる。
 裂帛の気合と共に振り出した銀の鎖が、美しい残像を描いて伸びた。
 二度、三度と凶獣の胴に巻きつく。

「木蘭」
 天蓋は思わず声が震えた。
 木蘭が頷くと詠唱を始めた。
 その歯茎から血が流れ始めていた。
 天蓋の両の目からも血の雫が垂れる。

 木蘭が詠唱を終えた瞬間だった。
 宝玉が爆発したかのように閃光を発した。

 凶獣が光に包まれる。
 聴覚では感知できぬ高音が草木を震わせた。


 徹は、無意識の内にこの夢が終わりに近づいていることを感じていた。
 何かを願うならば今しかない、そう確信する。
(宝玉よ、リタの弟を助けてくれ)
 夢の中の宝玉が発する光の奔流に包まれながら、全身全霊をかけて祈った。
 
 自分が光の中に溶けていく気がした。


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