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十一月十八日だ (プリムラ3)

2009年01月08日 23:17

 どこからか聞こえてくる
 部屋の外ではなくもっと近く
 リタのベッドではなくもっと近く
 どこからか聞こえてくる
 耳元ではなくもっと近く
 ふと気付くと目の前に黒い闇がある
 これがリタの言っていた「何か」なのか
 お前は何者だ――影に話しかける
 だが、獣の唸り声が言葉をかき消す
 そして不意に黒い闇が消える
  
 どこからか聞こえてくる
 部屋の外ではなくもっと近く
 耳元ではなくもっと近く
 凛とした少女の唱句
 抜き身の刀にも似たその姿
 お前は何者だ――影に話しかける
 銀髪の少女は確かに私が見えている
 そして答えることなく私の前から消える

   * * * * * * * *

 目を覚ますと、薄明かりの中でリタがベッドに身を起こしていた。枕元の時計は午前六時を指していた。
「何を見た?」
 リタが早口で問う。
「け……獣の唸り声と黒い影を見た」
 答える徹にリタは矢継ぎ早に質問を続ける。
「他には?」
「いや、影が形を取る前に夢から醒めた」

 リタは興奮を隠し切れないようだった。
「いいぞ徹。私は母の時と同様、木蘭と名乗る女の夢を見た。徹と私が異なる夢を見ているのであれば我々にはチャンスがあるぞ」
 リタは勢い込んで徹の両手を取ったが、その途端に手を引っ込めた。
 リタは目を凝らしベッドに身を起こす徹の姿を見ていた。その表情から興奮が消え去り、代わって青白い顔に暗い影が差していく。

「……徹、着替えたほうがいい」
 言われて初めて、身体がぐっしょりと冷たい汗に濡れていることに気付いた。
「心配しないでいいよ、夢を見ただけだから」
 だがそう言いながら徹は、夢で聞いた獣の声が耳から離れなかった。
 
 その夜以降、徹はうなされるようになった。

 起きている間も精気を取られているようで全身がだるい。鳴神流の稽古からリタの家に戻る頃には、疲労困憊して動けないほどであった。稽古を休むことも考えたが、非日常に半身を置くからこそ、起きている間は確かな手ごたえが欲しかった。
 
(あやちゃんも当時やつれていたけど、あれはもしかして――)

 夜を重ねるにつれ、夢の中の影は明確な輪郭を取り始めていた。影の方も徹のことを認識しているようで、唸り声に凶暴さが増し始めた。
 リタの家に泊まり込んで、二週間が過ぎようとしていた。

   * * * * * * * *
 
「徹、もっと朝食をしっかり取った方がいい」

 暦の上では三月も中旬に差し掛かっていたが、春の兆しは一向に感じられない。ぐずついた天気が幾日も続いていた。
 その日の朝、徹は明らかに消耗していた。全身が鉛のように重い。リタも体調が悪いようだが徹の方がその傾向が顕著だった。

「そんなにひどい顔をしているかい?」
 二人で食べるには広すぎるダイニング・テーブルに向かい合って座りながら徹は、努めてさり気なく訊いた。
「春分まであと一週間だな」
 リタは徹の質問に答えず紅茶を口にすると、外を眺めた。外は相変わらず雲が厚く覆っていたが、庭では寒さを撥ね退けるように黄色やピンクの小さな花々が咲いている。

「あれはプリムラ・ジュリアンだ。決して華やかではないが冬の寒さに凛と咲く」
 冬の寒さに凛と咲く――徹がリタの言葉を口の中で反芻しながら外を眺めていると、空から粉雪がちらつき始めた。
 二人は、傘を差して学校へと向かった。

 リタは入学してからしばらくセシルの運転する車で通っていたが、夏前には徒歩通学するようになっていた。今日もセシルの申し出に首を振ると、リタは白い息を吐きながら歩き出す。
 並ぶでもなく徹はリタの赤い傘の後をついて行った。

 リタが背を向けたまま、話しかけてきた。
「徹を初めて見たのも雪の日だった。あの時は積もっていた」
 徹には、一年前のことが酷く遠い出来事のように感じられる。
「そういえば、転入手続きの日に見たって言ってたね」

「あの時も徹は、緑色のマフラーをしていた」
 徹は、道場の裏手の老木の下で子猫を助けたことを思い出す。あれが全ての始まりだったのだろう。
「これ一本しかもっていないんだ」
 首に巻いた毛糸のマフラーを指で弄りながら答える。

「女の子からプレゼントされたりはしないのか?」
 リタらしくない台詞に、徹は少しだけ頬を緩めた。
「手編みをかい? 最近は流行らないらしいよ」
「そうかもしれないな」

 そこで会話が途切れた。横断歩道に差し掛かり二人並んで信号を待っていると、何の前触れも無くリタが徹の頬に白い手を置いた。
 少女の手は冷たかった。
「徹、後悔していないか」
 嘘を付けば判る――澄んだターコイズ・ブルーの瞳がそう告げている。徹は精一杯の笑顔を作った。

「リタには感謝してる」
 リタが微かに眉を上げる。徹は注意深く言葉を選んだ。
「きっと人には二つのタイプがあるんだ。他人を生かす人間と、他人に生かされて輝く人間と」
 頬に置かれたリタの手をそっと元に戻し、話題を変えた。
「リタは背が伸びたね」

「背?」
 リタが徹の台詞を聞き返すことなど珍しい。
「ああ、背も伸びたし大人っぽくなった。まあ、会った時から十分大人びてたけど」
 最後は苦笑めいてくる。
「十四歳になったしな」
 リタは淡々と答える。ふと徹は思いついたことを口にした。
「そういえばリタの誕生日は、いつなんだ?」
「十一月十八日だ」

 聞いてはみたものの、過ぎ去ってしまった日付を聞く愚かさを後悔し徹は黙り込む。
 信号が変わり、徹とリタは再び歩き始める。
 不意にリタが口を開いた。

「……ミッキーマウスと同じだ」
 リタが赤い傘を翻して徹に振り向く。傘と同じ色の髪が大きく揺れる。リタは少しだけ誇らしげに目を細めると、再び口を開いた。
「十一月十八日はミッキーマウスの誕生日だ」

 その顔は確かに十四歳の少女だった。


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