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第四章 プリムラ(前編)/ 今でも、夢を見るんだ (プリムラ1) 

2009年01月04日 23:49

「天蓋、よい」
 木蘭は凛とした表情で、傍らの男を制した。
「常人の技では幾ら数を頼んでも凶獣は切れぬ。宇田川殿もそう言っていたではないか」
 天蓋の奥歯がぎりりと音を立てた。
「しかし、一人の援軍も無しとは」

 木蘭は真直ぐ前を見据えている。
 四、五間先にわだかまる暗闇が異界の獣の形を取り始める。聞く者の心を狂わす咆哮が響き渡る。
 十代の後半にしか見えぬ銀髪の少女は、この世ならざらぬ光景にも怖じることなく天蓋に話しかけた。

「お前の命、預けてくれるか」
「無論」
 天蓋の間髪入れぬ返事に木蘭は頷いて続けた。
「我が力、天が授けしものなれば何時か天命を知る日が来よう。そして今、倒すべき凶獣が在り、傍らに宝玉が在る。今日がまごうことなきその日その時」
「――承知」

 天蓋は左肩にかけた長鎖を解くと、暗闇に光る紅い眼に対し低く構える。もはや貞義への怒りも自分達を呼び寄せた宇田川の男への恨みも無い。ただ守るべき少女のことだけを考える。
 木蘭は木箱から仄かに光る宝玉を取り出すと、東の夜空を見上げた。
「いずれにせよ、夜明けまでには全て終わっているだろう」

 凶獣の咆哮がもう一度大地を震わせたのが、戦いの合図となった。

   * * * * * * * *
  

 徹とリタが宇田川から呼び出されたのは、三月一日だった。
 二人とも理由は承知している。それぞれの思いを胸に職員室に足を踏み入れると、宇田川はいつも通りマグカップに入ったコーヒーを飲みながら授業の準備をしていた。

「いい表情だ。今年の管理者に相応しい」
 宇田川はコーヒーを飲み干すと立ち上がり、職員室の奥にある理事長室に二人を通した。
 名前こそ理事長室だが普段は無人であり、木製の大きな茶色の執務机とソファー、そして同じく木製のどっしりした書棚が右奥に置いてあるだけであった。正面の壁には壮年男性の大きな白黒写真が額に入れられて飾ってある。

 宇田川は二人を座らせると、書棚の中段に据え付けられた観音開きの扉に手を掛けた。サッカーボールでも入っていそうな古びた木箱を取り出し、外側に何重にも巻かれた細い鎖を丁寧に解き始める。ソファーからは、微かに埃の匂いがした。

「これが如月の宝玉だ」
 宇田川は箱の蓋を開けると、乳児の頭ほどの球体を二人の前に置いた。微かな傷が至るところにあるが文字や紋様の類は刻まれておらず、単に鉱石を球形に加工しただけに見える。
「新年度までの約一カ月間、君たちが宝玉の管理者だ。聞いているかもしれないが――」
 宇田川は一呼吸置いた。
「この宝玉は春分の夜に、夢見の宝玉に変わる」

 夢見の宝玉。杉山の論文にも出てきた言葉にリタが無表情に頷く。
 リタは年末イギリスに里帰りして新学期直前に戻ってきたが、それ以降、物思いに沈んだり、時に苛立った調子で早口になることがあった。念願のナンバーワンが現実となり春分が近付くにつれて、かなりの重圧を感じているように見受けられた。

「春分、即ち彼岸の中日の夜に、宝玉は君たちが自分の主に相応しいか試すだろう。そして宝玉に認められれば願いは叶う――これが言伝えだ」
 徹は、春分についての自分の僅かな知識を思い返す。
(昼と夜の長さが同じで祝日。今年は三月二十日だった。ならば、どうして如月の宝玉というのだろう)
 自分達を見つめる宇田川の胸に何が去来しているのか、表情からは読み取れない。

「春分の夜には何が起こるんだ?」
 質問する赤い髪の少女の声に戸惑いはなかった。
「何かの、夢を、見る」
 君ならば十分に理解していると思うがな――そう続きそうな宇田川の答だった。
「どんな夢かは君たち次第だ。リスクを取りたくないなら、ここに宝玉を置いておくことを薦める」
 口調こそ穏やかだったが中身は警告そのものだった。徹は胃が収縮する感覚に、視線を外して大きく深呼吸をする。頭上に掲げられた白黒写真にふと目を留め――

(宇田川先生?)
 写真は徹が生まれる前のものと思われたが、スーツに身を包んで髪を撫で付けた壮年男性は宇田川によく似ていた。
「参宮の初代理事長――私の祖父だ」
 視線に気付いた宇田川が徹の心中の疑問に答える。
「父も既に他界し、今は私が理事長代行の任についている」
 徹はその瞬間、思いもよらなかった可能性が頭に閃いた。そして、それが真実であった場合に意味するものに慄然とした。

「先生、この学園はまさか、宝玉の管理のために立てられ……」
 徹の言葉にも宇田川の表情は変わらなかった。
「説明は以上だ」
 宇田川は立ち上がった。これで終わりだという明確な意思表示だったが、徹は返事をどうしても聞きたかった。ソファーに腰を下ろしたままスーツ姿の男の顔を見上げる。
 宇田川は、数秒の沈黙の後で再び口を開いた。

「私もかつて宝玉の傍らで夢を見た。それ以来――」
その瞳に微かな後悔と郷愁とが浮かんでいた。
「今でも、夢を見るんだ」
 徹は、宇田川の内面の一端を覗いた気がした。
 二人はこれ以上の回答は得られないことを感じ取ると、軽く一礼をして理事長室を出た。

「夢見の宝玉か」
 廊下を歩くリタが呟く。顔色は普段にも増して青白いのに、瞳は熱に浮かされたように爛々と輝いていた。徹は傍らで、昨日の瓜谷との遣り取りを思い出していた。

 お前、ナンバーワンになって気が抜けたんじゃないか――これが昨日の放課後、武道場の裏手に呼び出してきた瓜谷の第一声だった。制服の濃紺色のブレザーを着てズボンのポケットに手を突っ込み、鼻には皮肉っぽい小皺を寄せている。どう返事をしていいものか悩む徹に対し、瓜谷は暫く周囲の木立を見回していた。

「懐かしいぜ。俺も杉山想平の兄貴に、ここに呼び出されたんだ」
 首をかしげた徹に、瓜谷は眉を非対称に崩して顔を顰める。
「おいおい、杉山の兄貴は二年続けてナンバーワンになった学園のスーパースターだったんだぜ。まあ、言ってみれば俺の師匠筋だ」
 瓜谷は芝居がかった調子で嘆息して見せた。
「その反応から察するに、鳴神先輩から何も聞いてないみたいだな」
 瓜谷が菖蒲と自分の関係を知っていることは徹にとって驚きだった。だが目の前の男にとっては、その気になれば情報を集めることなど造作もなかっただろう。

 虫も殺さぬ顔してあの人も人が悪いぜ、まあ俺から説明すれば済む話だけどな――そう瓜谷は肩を竦めると語り始めたのだった。
 瓜谷によれば、人は宝玉の傍らで特定の夢を見るらしかった。夢の種類は人によって異なるものの日々鮮明になり、春分の日を境にして今度は徐々に薄れていくという。

「宝玉の管理者だからといって必ず夢を見るわけじゃない。宝玉に感応した者だけだ。例えば、鳴神先輩とか俺とかな」
 瓜谷は徹の反応を楽しんでいた。緊張を漲らせる徹を前に口の端を吊り上げた。
「ここまで聞いたら、去年俺が何の夢を見たか聞きたくなるだろう?」
 女でも口説くような声だった。徹は瓜谷の話術に嵌まっていることを自覚していたが、好奇心に抗えなかった。餌を欲しがる仔犬さながらの徹に対し、瓜谷は獰猛な笑みを浮かべた。

 化け物の夢だったぜ「徹、今夜は私の家に来ないか」

 徹はそこまで思い出したところで現実に引き戻された。赤い髪の少女と二人、教室まで辿り着いていた。
 徹はリタの誘いに頷きながら、脳裏ではなお瓜谷の言葉が木霊していた。


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