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第二話 最高の相手を狙わなきゃ (月の裏で会いましょう2)

2009年02月27日 23:40

 四月六日、始業式の朝、午前七時三十分。
 
 桐嶋和人は独り暮らしのアパートで朝食を取っていた。
 痩せた小柄な身体を前屈みにして、黙々とパンを口に運ぶ。テレビのニュースは天気予報へと変わっていたが、桐嶋の頭の中は、あと一時間もしないうちに貼り出される新年度のクラス分けのことで一杯だった。
 
 連の仕組みはシビアである。異性受けする者であれば引く手も数多だろうが、全ての生徒がその条件を兼ね備えているわけではない。麗らかな春の一ヶ月は、一部の生徒に取っては悪夢の季節でもあるのだ。
 昨年、連を組めなかった桐嶋にとっては、クラスこそが自分の居場所を見出し友情を育むための場所になるはずであった。だが――

 一年のときのクラスを思い出して、桐嶋は憂いを帯びた表情を浮かべ睫を瞬かせた。

 桐嶋の両親は桐嶋が幼い頃に病で他界したという。
 桐嶋自身、二年ほど前に酷い交通事故に遭ったこともあり、それ以前の記憶が殆どない。身寄りの無い桐嶋にとっては、学費のかなりの部分が卒業生の寄付で賄われている参宮学園で無ければ、果たして高校に通えていたかどうかも疑問だった。

 自分のこうした生い立ちを同級生達が知っているのか、桐嶋には判らない。だが桐嶋自身がどこか影を感じさせるのか、親友と呼べる相手が出来ぬまま一年が過ぎてしまった。

 桐嶋は軽く溜息を付くと牛乳を飲み干し、立ち上がった。

   * * * * * * * *
 
 午前七時五十分――

「有為、先行くわよ!」
「ちょっと待ってよ。有理は髪の毛に気を使わなさ過ぎ」
「あたしはいいの。大体、武道やっててそんな髪型に出来るわけないでしょ」

 荻原有理は妹の有為の言葉を軽く受け流すと、茶色のローファーに足を通した。
 今日から、姉妹そろっての通学である。参宮学園までバスで二十分。今日はバスの窓から見える桜並木も見事に違いない。
 有為は自分よりも可愛いと思うのだが、すぐ感情の起伏が顔に出るのが玉に瑕だ。さっきから髪の毛が決まらないとぶつくさ言いながら、しつこくやり直している。

 今からそれじゃあ髪の毛痛むよ――
 有理はそんな台詞を飲み込む。多分、有為の機嫌が悪い本当の理由は別にある。今日の新入生挨拶を、他の同級生に取られたからだ。

 有為は、去年の春に有理が新入生挨拶をした時、絶対来年は自分がやると誓っていた。実際、中学三年生の間、有為は学校でトップを守ってこの日に備えていた。負けん気の強い有為が今回どれほど悔しく思ったことか、容易に想像できる。

 参宮学園の入学試験の問題は決して難しくない。受験に推薦状を必要とするため入口段階で絞られているからなのか、有理の時も基礎学力のチェック程度の内容だった。一方で面接はユニークで、在校生との集団面接、教師との一対一の面接、そして理事長代行との面接と、計三回もあった。父の哲臣などは、就職活動みたいだなどと妙な感想を漏らしていた。
 新入生挨拶の役は何を基準に選んでいるのか、有理自身には今一つ思い当たるものが無かったが、いずれにせよ有為を押さえてその座についた相手がいるということだ。

 今年の新入生は、結構手強いっていうことか。
 有理は、数日前に学園の道場で会った優しげな少年を思い浮かべた。
 あの子かな。いや、ちょっとインパクト弱いかな。
 そこまで考えて、有理は今日三度目の台詞を口にした。

「有為、先行くわよ!」

   * * * * * * * *

 午前八時二十分――

 杉山想平は、十数年間そうしてもらっていたように、母親の運転する車の後部座席から抱きかかえられると、脇に置いた車椅子へと腰を下ろした。見送る母親に軽く頷くと、眼鏡を指で押し上げ、参宮学園の校門へと車椅子の車輪を回す。

 杉山は、四つ離れた兄の恭平から学園の伝統を聞き、全国有数の進学校を蹴って参宮学園を選んだ。周囲はどう思ったか知らないが、兄弟にとっては当然の決断だった。
「想平、参宮学園は最高だぞ」
 恭平の言葉に、自分は何度目を輝かせたことだろう。

 校舎へ続く並木道は、どこか初々しい紺色のブレザー姿の同級生達で溢れている。自分のことを棚にあげるのも何だが、結び慣れないストライプのネクタイが微笑ましい。まだ名も知らぬ友人達がその一瞬、堪らなくいとおしい存在に感じられ、杉山はそんな自分に苦笑した。

(これじゃあ入学前から年寄りだよ)

 杉山の中学から一緒に進学した者はいない。そもそも参宮学園の生徒たちは、県外からも多く集まって来ている。同級生には杉山が知っている者も、また杉山のことを知る者も僅かだろう。
 杉山はそこまで分析したところで、今度ははっきりと声に出した。
「うん。今のところライバルは見当たらないな」

 車椅子の同級生にまだ馴染めぬ者達が自分を盗み見るのを全く気にせず、杉山は胸を張って講堂へと向かった。

   * * * * * * * *

 午前九時――

 講堂で二年生の席に座った楠ノ瀬麻紀の耳に飛び込んできたのは、瓜谷悠が、ステージに並んだメンバーに合図を出す声だった。
「ワン・ツー・スリー、ゴー!」
 ドラムスティックを高らかに打ち鳴らす音と、続いて講堂中に鳴り渡るアニソン・ヒットメドレー。
 一列に入ってきた新入生達は、堪え切れないように一人、また一人と吹き出していく。

「――いくつも愛を持っているのねぇえ」
 ステージでは瓜谷が日焼けした整った顔を大袈裟に歪め、両腕で自分の肩を抱いている。
 楠ノ瀬は、相変わらずの瓜谷の姿に笑い声を上げた。

 よーし、決めた。やっぱり最高の相手を狙わなきゃ。
 綺麗なピンク色に塗られた唇が半月に開く。

 楠ノ瀬は、冊子に書いた自己紹介の文句を口に出してみた。
 身も心も捧げます――
 二度、三度、口の中で転がしながら頷く。

(頑張って、瓜谷先輩を掴まえなくっちゃ)

 気付くと、いつのまにか新入生も全て入場し終えている。
「それでは、只今から入学式を始めます。在校生起立」
 マイク越しの瓜谷の声に、楠ノ瀬は立ち上がった。
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第一話 君はこれをどう思ったかい (月の裏で会いましょう1)

2009年02月26日 00:37

 その日は朝から雪が降っていた。

 入学式まで一週間足らず。午前中に幾つもの打ち合わせを終えた宇田川隆介が職員室に戻ると間もなく、黒いダウンジャケットを脇に抱えた少年が辺りを見回しながら入ってきた。ぼさぼさの髪の毛の下、優しげな瞳が宇田川を探している。
 宇田川は冷めかけたコーヒーを一口啜ると、少年に向かって軽く手を上げて合図をした。

「藤原徹君だね。私が宇田川だよ」
 少年は、宜しくお願いします――そう言って頭を下げると宇田川の机の前の丸椅子に腰掛けた。細身の体つきだが、体幹を中心にしなやかな筋肉がついていることが身のこなしから見て取れた。

(鳴神菖蒲の後に送り込まれただけあるか)

 宇田川は一人納得すると、机の中から茶封筒に入った書類を取り出し、おもむろに説明を始めた。
 受け答えの端々から、藤原徹には聡明さも兼ね備わっていることが見て取れた。宇田川は説明の最後に、相手の反応を試すかのように質問を投げ掛けてみることにした。

「この学園は、入学や転入に当たって卒業生の推薦状が必要なことは知っていると思うが、君はこれをどう思ったかい」
 仮に批判的な見解を口にするならば、何故転入してきたのかと問い、もし肯定的に追従するなら、その安易さを指摘するつもりであった。

 ――高校生といえば、多様な価値観が存在する社会に出て行くための、いわば人格形成期だ。そんな時期に、知り合いしか入れないなどという同族集団に身を置く問題点を、君はどう考えるんだい?
 藤原徹の答え次第では、そう反論してやるつもりであった。

(まあ、目的無しに来る場所ではない、ということだな)
 内心皮肉っぽく考えながらも、宇田川は柔和な微笑を絶やさずに、少年の答えを待った。
 だが、返って来たのは予想外の答えであった。

「その前にですが、卒業や退学に当たっては卒業生の了解が必要ありますか」
 虚を突かれた宇田川が思わず聞き返すと、藤原徹は慌てたように言葉を重ねた。
「すみません。質問を質問で返すつもりはなかったんです。ただ……」

 藤原徹は、困った顔で、ぼさぼさの髪の毛を右手の指で軽くつまんでいたが、宇田川の促すような視線に口を開いた。
「先生方が、どのくらい責任を学園の卒業生に転嫁するつもりなのかと思って」

「責任を転嫁――」
 宇田川は、目の前の少年の言葉を繰り返した。藤原徹はなおも困った表情を浮かべていたが、それは難問に窮するというよりも、自分の考えをどの程度直截的に伝えるか悩んでいる様子であった。不意に宇田川は自分が発した質問の愚かしさに気付き、恥じた。

「失礼した。君は我々教師陣が、当学園に相応しいと認めた人材だ。誤解を生むような表現があったなら、訂正しよう」
 少年は耳を赤くしたが、宇田川はもはやその表情に騙されることは無かった。

(なるほど。自分について一言も語ることなくその価値を示して見せるとは、思った以上に聡明な少年だ)

 宇田川は、今度こそ腹の底から笑みを浮かべた。
 この少年が十五年前にいたら、彼女は果たして自分とどちらを選んだろうか。
(ねえ、隆介。私と貴方が組めば、出来ないことなど何も無いと思わない?)
 もう一度、青い瞳の少女の姿が目に浮かんだ。

「先生、宇田川先生?」
 藤原徹の呼びかけに宇田川は我に返ると、不思議そうな少年の表情に気付いて軽く顎を掻いた。

 職員室の窓から舞い散る雪はいつしか小降りになり、雲の切れ間からは薄日が差し込んでいた。

月の裏で会いましょう/ まえがき 

2009年02月26日 00:21

 「如月の宝玉」を最後まで読んで頂いた方、そして読後もこのブログに足を運んで頂いている僅少なる「熱烈な同志」(作者脳内変換)に感謝をこめて、簡単な読み物を作りました。

 全五話構成で、各話は独立していますが短編の形は取っていません。「如月の宝玉」の舞台において、本編の裏側で何が起こっていたかを五つのシーンに切り取ったものです。
 構成としては、第一話から四話までが小さな伏線の回収や視点を変えた描写です。また第五話はささやかにファン・ディスク的?な内容にしています。(本当にささやかですが……)

 欠片の寄せ集めではありますが、少しでも楽しんで頂けると嬉しいです!
(一話ごとに掲載していく予定です :各話は如月の宝玉本編目次の下部にリンクを貼っています)

参宮High School Musical (物語について9)

2009年02月23日 23:10

(今回は物語に出てくる音楽についての話題です。本編を未読の方はご注意下さい。)
[参宮High School Musical (物語について9)]の続きを読む

ビデオ・クリップ作りました (物語について8)

2009年02月17日 23:25

本編連載終了を機に、ヒロインのイラストとフリー素材を組み合わせてビデオクリップを作ってみました。
[ビデオ・クリップ作りました (物語について8)]の続きを読む

終章・エピローグを終えて (物語について7)

2009年02月14日 00:50

 終章「夢見の宝玉」、そしてエピローグ「運命の輪を超えて」は如何だったでしょうか。
[終章・エピローグを終えて (物語について7)]の続きを読む

何と見事な月じゃないか (エピローグ 運命の輪を超えて2) 

2009年02月13日 01:18

 新学期の始業式の前日、宝玉を学園に返しに来た徹は、自主練をしていた荻原有理と一緒に帰ることにした。

 有理の使っているバス停までの並木道は、既に桜が五分咲きだった。徹は先週からコートを着るのをやめ、制服の紺色のブレザーの上に赤いマフラーだけ巻いている。
 バス停で徹が有理と別れて駅に向かおうとすると、
「丁度一年前に、徹君と出会ったんだよね」
 有理が話しかけてきた。

 途端に徹は、有理やリタと出会ったときの記憶が蘇り、痛みを伴う懐かしさに胸が締め付けられた。
 徹の心中を知ってか知らずか、有理は話を続ける。
「あの時は一年生だとばっかり思ってた。あたしって早とちりだから」

「オギワラユリは結構競争率高いと思うよ、か。第一印象強烈だったな」
 徹の指摘に有理が崩れるように笑った。
「それでナンバーワン取られて、本当カッコつかないよね」
 リタの魅入られるような表情とは異なるが、その天真爛漫な笑顔はいつでも徹の目を釘付けにする。 

 有理は悪戯を思いついた顔で、徹に向きなおった。
「約束したよね。ナンバーワンになった方の言うことを一つきくって」
 手を腰の後ろに組んで、下から徹の顔を覗き込む。
「何して欲しい?」

 自分たちの前後にはバスを待つ中学生や大人たちの姿もある。いつも以上に近い有理との距離に徹は躊躇ったが、直ぐに意を決して有理の目を見た。
「実は、前から言って欲しい台詞があったんだ」
 その瞬間、有理は、言った徹が驚くほど動揺した。

「ホントに?」
 聞き返しながら激しく瞬きをする。徹を上目遣いに見ながら口を尖らせる。
「でも……そういうのって女の子から言わすかなあ、普通」
 有理らしくなく語尾が恨み節になる。その姿に、逆に徹のほうが首を傾げた。
「もういいよ。じらさなくていいから早く言ってよ」
 どこか妹を思わせる表情で拗ねている。腑に落ちないままで徹は口を開いた。
「よくやった――オギワラユリにそう言って欲しいんだ」

「……え?」
 有理が固まった。耳を疑うように徹をまじまじと見る。
 自分は場違いな台詞を口にしてしまったのだろうか。有理の反応が気になりながらも徹は続けた。

「いつもいつも、オギワラユリに情けない顔を見せてばっかりだった。でも自分なりに必死になって、全力を振り絞ってやってきた。相変わらず頼りないと思うかもしれないけど、次の勝負が始まる前に一度だけオギワラユリに――あれ? なあ、聞いてる?」

 有理は呆然とし、次に失望したような表情に変わり、やがて笑い出した。
 始めは手で口を押さえていたが、そのうちに爆笑へと変わる。バス停に並んでいた部活帰りの女子中学生達が、興味津々といった顔で肘を突付きあっている。

「何だ、そんなことか。ホント」
 笑いが止まらないでいる黒髪の少女の目から、ついには涙がこぼれ出した。
「徹君って鈍感っていうか、場を読まないっていうか――緊張して損しちゃった」
 笑い終わった後で今度は、有為の気持ちがわかるとぶつぶつ愚痴っている。

「何だよ、勝手に驚いたり笑ったり怒ったり」
「徹君、本当にそんなお願いでいいの?」
 少女の声には呆れた響きが混じっている。
「へ?」
「その口癖、やめた方がいいよ」
 今日はどこまでも妹そっくりだった。

「あーあ、また早とちりか」
 大袈裟に肩を竦めた有理の髪が、風になびいている。風からは春の匂いがした。
 もうマフラーの季節も終わりだな。
 徹が首に巻いていた赤いマフラーを外すと、有理は少しだけ悔しそうな表情を浮かべた。

「でも鈍感なようで、このタイミングでリタちゃんから貰ったマフラーを外す辺り、絶妙なんだよなあ」
 あたしの負けか――有理は溜息をついて足元にスポーツバッグを置くと顔を上げ、吹っ切れたように髪を掻き上げる。ふわりと風に金木犀の匂いが混じった気がした。

「徹君、目をつぶって」
「えっと……」
「いいから早く」

 有理に急かされて徹は慌てて目を閉じる。急に口の中が乾き、鼓動が早鐘のように打つ。
 少女の黒髪が近付いてくるのが判った。
 軽く徹の肩に手を添えて、有理が背伸びをするのを感じる。
 聞きなれた、そして一番聞きたかった声が耳元で囁いた。

「徹君、一年間最高にカッコよかったよ。これからも宜しくね」

 そして徹の唇が塞がれた。

   * * * * * * * *


 春分の夜から約一カ月後――

「桐島君?」
 宇田川隆介は、先程から自宅のベランダで月を眺めたまま動かない桐島和人に声を掛けた。

 桐嶋が貧血で授業中に倒れたのを機に、独り暮らしの少年のことを心配した保健師が宇田川に連絡したのが、そもそものきっかけであった。
 それを受けて話を聞こうとした宇田川に対し、明日の夜に月が昇ってから自分の家に来て欲しい――奇妙な依頼をして来たのは桐嶋の方だった。
 言葉にできぬ予感の萌芽に、宇田川の心は揺れた。 

「桐嶋君。一体どうしたんだ」
 咎める口調となったが、桐嶋は微動だにしない。宇田川は困惑と同時に微かな期待感を抱きながら、桐嶋の視線の先を追う。

 見事な満月が天空に浮かんでいた。

「何と見事な月じゃないか」
 宇田川が呟く。ベランダに出て桐嶋の横に腰を下ろした。下の道路を軋んだ音を立てて自転車が通り過ぎていく。
 桐嶋は月を見上げたまま、
「よい月夜だ。色々なことを思い出させる」
 感無量といった風情で独りごちた。余りに老成した台詞に、宇田川の期待感は高まった。一族の悲願が今叶うのではないかという思いに体が震える。

 月には薄っすらと霞がかっていた。
 桐嶋は振り返ると、宇田川に微笑みかけた。
「こういう夜を、木蘭殿は『朧月夜』と呼んでいたな」

 それが全ての答だった。

 その瞬間、宇田川の周囲から音という音が消え去ってしまった。桐嶋の言葉だけが脳裏に反響する。
 宇田川自身も全く想像できなかったことに、自分の双眸から涙が流れ出していた。

 何故涙が頬を伝うのか自分でも把握できないまま、ほとばしる感情のうねりに飲み込まれていく。

 自分の時は果たせなかった。
 鳴神菖蒲の時も失敗に終わった。
 もはや一族の夢を果たすことは不可能とも感じていた。

「まさか、無くした記憶を……」
 その後は声が掠れて続かなかった。
「凶獣と再び出遭い、宝玉の力が発動するに及んで全て思い出した」
 桐嶋には、気弱な高校生の面影はどこにもなかった。太い眉は本来の表情を取り戻したかのように眉間から吊り上がっている。
 だが皺の深いその顔には記憶を取り戻した歓びよりも、これまでの人生に対する悔悟の方が色濃く滲んでいた。

「木蘭殿は既に逝かれたか」
 事実を確認する口調には、苦い響きがあった。
 宇田川は小さく頷く。
「死ぬな。そう願った結果、あなたに呪いのような運命を背負わせたことを生涯悔いていたそうです」

 既に宇田川の言葉は年長者に対するものへと変わっている。
「何を馬鹿な」
 桐嶋は即座に否定したが、やがて遠い目になった。
 暫く黙っていた後、おもむろに口を開いた。

 穏やかな声であった。
 だが、その中に万感の思いがこもっていた。

「では、木蘭殿の墓に案内してもらおうか」


 如月の宝玉  完

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エピローグ 運命の輪を超えて/ だから、だからきっと (エピローグ 運命の輪を超えて1)

2009年02月13日 01:17

 徹が目を覚まして間もなく、リタがエジンバラに帰ることになった。
 春分の翌朝、徹より一足先に目覚めたリタは記憶を失っており、参宮での学園生活を何一つ覚えていなかった。せめて見送りだけはさせて欲しいと徹たちは申し出て、空港まで一緒に行くことにした。

 徹や荻原姉妹、楠ノ瀬や桐嶋たちは、リタと空港までの電車の中でゲームに興じた。来週から大学生になる瓜谷は相変わらず座を盛り上げ、時折セシルまでが声を出して笑った。
 だが空港に近付くにつれ誰もが言葉少なくなり、リタも黒い革のバッグを膝に抱えたまま物思いに耽っていた。

   * * * * * * * *

「リタちゃん、これ私達から」
 荻原有理がリボンの掛かった薄い箱を取り出すと、リタに差し出す。空港についてチェックインを済ませた後、徹たちはリタを囲むように出発ロビーのベンチに腰を下していた。
「荷物になってごめんね。でも、私たちのことを覚えていて欲しくて」
 リタが包みを解くと、革張りのアルバムが姿を見せた。

 リタは宝玉に記憶を奪われた翌日、部屋に籠もりきりで日記を読んで状況を理解していた。日記には、この日を予期していたように日本に来てからの出来事が詳細に記されてあったという。
 アルバムをめくると最初の一枚は、入学式で宇田川に質問をするリタの写真だった。

「卒業アルバムの製作委員からネガを借りたんだ」
 目尻に笑い皺を寄せた桐嶋が嬉しそうに鼻をこする。
 リタがページを更にめくった。

 教室で授業を聞くリタ。
 同級生と並んで廊下を歩くリタ。

 赤い髪の背の高い少女は、どこに居ても目を引いた。
 いや、少女の髪の色は結局のところ関係なかった。
 その信念を貫こうとする瞳が、見る者の目を射るのだった。

 学園祭でダークスーツに身を包んで踊るリタ。
「カッコよかったよ」
 有理が嬉しそうに話しかける。
 徹と楠ノ瀬と三人で、スイカを食べながら笑うリタ。
「中学生みたいだ」
 杉山想平がタンクトップ姿のリタの写真を見て、感想を漏らす。
 本当は中学生の年なんだ――徹は少女の横顔を眺めながら呟く。

 体育祭の二人三脚で徹と肩を組むリタ。
「これ最高でしょ」
 楠ノ瀬麻紀が指し示す写真は、楠ノ瀬と大きなポリバケツに手を掛けている仏頂面のリタだった。
「この時優勝したのは俺だぜ。何で左足しか映ってないんだよ」
 瓜谷の台詞に笑いが漣のように広がり、つられてリタも微笑んだ。

 冬服のブレザー姿で歩くリタ。職員室に貼り出されたリタと徹の名前。
 最後の写真は、昨日学園の正門で皆と撮った写真だった。
 写真の中のリタと徹はまだ頬がこけ、目の下に隈ができている。両脇で笑う有理や有為、そしてかけがえない仲間たち。
 これが最後。
 誰もがわかっていた。

 皆が押し黙り、リタは大事そうにアルバムをしまった。
 リタは仲間たちの顔を見回しながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私は今日、参宮学園を去る。ここに写された一年は巻き戻すことは出来ない。が――」
 リタは徹を見た。
 ターコイズ・ブルーの瞳が徹を射る。連を申し込まれた時のように、徹は何かの予感に足が震え出すのを感じた。
「記憶は無くとも断言しよう。私は確かに悔いの無い一年を過ごした」

 徹は少女の言葉に胸を貫かれた。
 リタをリタ=グレンゴールドたらしめているものが、この一言に凝縮されていた。
 数え切れぬほどリタと話し、歩いた。
 ともに笑い、涙すら流した。
 それでも徹はこの少女を見る度に、初めて会った時と同様、魅入られてしまう。

 自分がこの少女に抱いた気持ちは、恋ではなかったろう。
 だが今となってわかる。自分はこの一年、少女の半身として寄り添ったのだ。

 リタは革のバッグから手編みの赤いマフラーを取り出すと徹に歩み寄った。有為が何かを言いかけたが、姉に制される前に自ら口を噤ぐんだ。
 少女が自分の髪と同じ色のマフラーをそっと徹の首に掛ける。
「リタ=グレンゴールドは、藤原徹にこれを渡すつもりだったらしい」 
 うまく編めたか自信は無いが――少女は俯き加減で付け足すと、再び顔を上げて左手を徹に差し出してきた。

 黙ってその細い手を握りしめた瞬間、徹の全身に小さな痺れが走った。
(私を忘れないでくれ……)
 脳裏に春分の夜の記憶が蘇る。赤い髪の少女は睫毛を微かに震わせていたが、切なげな吐息を一度だけ漏らすと強い意志の力で表情を笑顔へと変えた。
 徹も奥歯を噛締めて少女の笑顔に応える。

「……リタ様、お時間です」
 遠慮がちに掛ったセシルの声にリタが頷いた。
「いつか、また会おう」
 静かにリタが徹の手を離すと、黒いバッグを肩に掛けて歩き出す。荷物を持ったセシルがその後に続いた。出国審査ゲートへと向かう赤い髪の少女の姿が小さくなっていく。

「リタ!」
 迸る感情を押さえきれずに有為が声を上げた。
「次は……次は絶対負けないから、だから、だからきっと――」
 黙って楠ノ瀬が栗色の髪の毛を撫でてやる。
 ターコイズ・ブルーの瞳の少女は振り返り、少しだけ眩しそうな表情を見せ――

 その姿がゲートに見えなくなった。

約束だからね (夢見の宝玉9)

2009年02月11日 03:56

 徹は瓜谷が去るのを見届けると、手渡された銀鎖を右手に巻きつけて凶獣に歩み寄った。初めて握るにもかかわらず、この為にあつらえたかのように手に馴染む。
 七、八歩離れた後ろでは宝玉を両手に抱えたリタが詠唱の準備を始めていた。
 
「徹、少しでいい。時間を稼いでくれ」
 リタが声をかけたその瞬間、凶獣の左右の頭部の目が開いた。紅い眼球が裏返った状態のままで、徹たちを威嚇するように立ち上がった。

 ごぉくるくうるるるう

 大地を震わす咆哮に、眠りに就いていた鳥たちが一斉に飛び立つ。凶獣の眼球が音をたてて回転する。
 一対、二対、そして三対の紅い眼が全て徹を捉えたその瞬間、凶獣が襲いかかってきた。女の胴回り程もある太い前脚が徹の頭蓋を砕かんと迫った。

 徹は腹の底から吠えた。
 足裏からの内転運動を身体の中で倍加させ、一気に肩口まで持っていく。右手に持った鎖がリタの持つ宝玉と呼応して鈍い光を放つ。呼気と同時に銀鎖を前方に投じると力を注ぎ込む。

 ずくっつ。
 鎖が白銀の槍に形を変えて、凶獣の腹を貫いていた。

 ごぉくうおうるうるるるうう
 凶獣が胴を捩じると同時に鎖がぶつりと抜け、その勢いで徹は近くの木に叩きつけられた。

 貫いた瞬間こそ確かに手応えがあったものの、凶獣の傷口は見る見るうちに塞がれていく。駆け寄ろうとする赤い髪の少女を制し徹は立ち上がりかけたが、途中で激しく咳込んだ。口に当てた手に鮮血が飛び散っていた。

 凶獣は三本の尾を地面に叩きつけては暴れ狂っていたが、腹に穿たれた穴が消えるや再び徹へと突進した。
 徹は背後に身を投げ出す。徹がもたれていた幹に凶獣が激突し鈍い音と共に木が傾く。肋骨の痛みに徹は思わず呻き声を漏らすと、一瞬凶獣から視線を逸らす。
 直後、倒れ込んだ状態で再び見上げた空には、視界を覆わんばかりの凶獣の姿があった。

(あ……)
 既に凶獣の前脚は、自分の頭目がけて振り下ろされ始めている。両肩を地面につけたままでは右手の銀鎖を投げ放つ術もない。
 赤い髪の少女の残像が脳裏に浮かんだその時だった。
 
 ざぐりざぐり。
 ざぐりざぐりざぐりざぐり。

 凶獣の喉にそして鼻に、リタの放った六枚のカードが炎とともに突き刺さった。
 凶獣の前脚の狙いが逸れて徹のすぐ横の地面を穿つ。
 一拍遅れて起き上がった徹を見向きもせず、凶獣は憤怒の雄叫びと共に今度はリタへと突進した。

(まずい!)
 徹は全力を振り絞って鎖を頭上に掲げた。
 リタは、迫る凶獣を前にしてなお怯むことなく詠唱を続けている。
 抱えた宝玉の輝きが急速に増していく。赤い髪が静電気の渦に巻き込まれたかのように、前後左右に広がりながら逆立つ。
 徹は凶獣の巨大な後ろ姿目がけて鎖を投げ放った。

(頼む、届けえ!)
 凶獣の牙が少女の赤い髪に届かんとする瞬間、徹の思いを乗せた銀鎖が雄牛程もある胴体に巻きつく。
 
 と同時に、凶獣の動きが止まった。

 己に巻かれた鎖から力が全て吸い取られている、とでもいうのだろうか。
 凶獣は一歩も進むことが出来なくなっていた。
 顎さえ閉じられず、滴り落ちた唾液がリタの足元に染みを作っている。瞳孔だけが拡大と収縮を繰り返している。

 一方、動くことが出来ずにいるのは徹も同様であった。
 凶獣の持つ力なのか、宝玉の力なのか、自分の意志では指一本上げられぬまま鎖を通じて体内に巨大な力が充満していく。
 強烈な吐き気が喉元までせりあがる。眼球が盛り上がり転がり落ちる恐怖感に駆られる。
 だが徹は自分に注ぎ込まれる全てを受け入れた上で、リタの弟のイメージを強く脳裏に浮かべた。

「汝が器を持って――」
 リタの詠唱は終盤に差し掛かっていた。
 ぐしゅすじゅずじむぃじざあガカキあぁクゅゥイねうュ
 凶獣の唸り声に金属音が混じり始めた。鎖に縛られた凶獣の筋繊維が音を立てて千切れ、千切れた先から白い煙となって夜空に立ち昇っていく。

「魔障を切り放ち給え!」
 リタの声が直接脳裏に響く。宝玉が爆発したかのように閃光を放つ。
 徹たちの背後で武道場の窓が高い音を立てて次々に割れた。

「うおぉぉおお!」
 宝玉の白い光に包まれたまま、徹は声の限りに絶叫した。

 タのむ、葛ハら、リタの弟ヲ、きょウ獣、エドわード、天ガい、こン睡から、木ラん、

 鎖を通じてイメージが奔流のように流れ込む。
 皮膚の下で蟲でも這うかのように、両腕の血管が指先から肩口まで一気に膨れ上がっていく。
 このまま全身が破裂するかと徹が思った瞬間――

 凶獣が消滅した。

 文字通り、銀鎖に縛られていた肉体が忽然と消え去っていた。
 両腕から突如手応えが失われ、徹は無様に肩から倒れ込む。宝玉から光が消え、周囲が元の闇へと暗転し――
 
 再び林は静寂に包まれた。
(リ、リタ……)
 どこにいるのか判らぬまま、徹は少女の名前を呼ぶ。
 
 もう動けなかった。

 目を開けているはずにもかかわらず、網膜には何も映っていなかった。
 だが、徹はこれで全てが終わったことを理解していた。 
(リタ、僕は悔いはないよ)

 空からは、いつしか雪が降り出していた。

   * * * * * * * *



(……ねえ、徹君)

「徹君、あたしとの約束まだ覚えてる?」
 振り向くと有理が廊下をこちらに歩いて来るところだった。肩の辺りで切り揃えた黒髪が窓からの夕陽に照らされている。

「も、勿論だって」
 実のところ宝玉のことで頭が一杯で、有理との約束を考える余裕はなかった。後ろめたい気持ちを隠すように徹は笑顔を作る。瓜谷を真似して歯を覗かせる。
 だが有理は眉を顰めて身を引いて見せた。

「……今の顔、ちょっといやらしかった」
「なっ――」
 徹は動揺で耳まで赤くなる。
 その激しすぎる反応に、黒髪の少女は慌てて首を振った。

「う、嘘だから。徹君」
 徹の表情を窺うように上目遣いになる。徹は軽く睨むと人差し指で有理の額を弾いた。

「あ痛っ、ひどい」
 少女は悲鳴を上げるとそのまま暫く不満げに額をさすっていたが、その表情がふっと柔らかくなった。
 でもよかった――有理がそう呟いて二階の廊下から外を眺める。
「あたし、この季節好きじゃないんだ。三年生の先輩は来なくなって学園も寂しい感じだよね」
 夕陽に照らされて眼を細めたまま話しかけてきた。それに寒いしな、徹が相槌を打つと有理はくすりと笑いながら両手を胸の前で組んで伸びをした。

「早く春が来ないかなあ」
 今度は両腕を頭の上に上げてもう一度伸びをして見せる。ブレザーの間から覗いた腰の細さにどきりとして、徹は慌てて視線を逸らす。
 有理は再び小さく笑った。

「――春になる前に言ってね」
「へっ?」
「だから、あたしにして欲しいこと」
 有理は、舞台の上で踊るようにふわりと背を向けた。艶やかな黒髪から金木犀の匂いが届く。
 約束だからね――
 少女の言葉が何故か反響して聞こえた。いつの間にか周囲の照明が落ちて有理の姿も消えている。
(そうだ、考えなくちゃな)
 暗がりで呟いたその瞬間、仲間がどこかで自分を呼ぶ声に気付いた。

 どうやら夢から覚める時間だった。

 徹は有理を見習って伸びをしてみた。
 大きく息を吸って四肢を伸ばし、新鮮な空気を全身に充満させる。

   * * * * * * * * *


 そして徹が再び目を開けたのは、春分の夜から四日目のことであった。

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おい藤原ぁ、聞いたか (夢見の宝玉8)

2009年02月09日 01:35

 徹は衝撃に一瞬、時が止まった気がした。
 自分が今何をしているかも忘れ、穴のあくほど目の前の男の顔を見る。瓜谷は狙い通りの反応をしている徹に満足げだった。

「お前、爺さんに直接習ってるからって一子相伝か何かだと勘違いしてるだろ。漫画の見過ぎだぜ」
 瓜谷は意地悪そうに顎をしゃくる。その方向には、徹とは対照的に眉一つ動かさないでいるくリタの姿があった。
「リタちゃんは、とっくに気付いてたぜ」

 紺色のダッフルコート姿の少女は無言のまま、瓜谷の言葉を肯定していた。異様な光景、そして明らかになる事実の数々に、徹は圧倒され言葉を失っていた。

 リタと共に宝玉の紡ぎ出す悪夢に迷い込み、宇田川と狂気に侵された菖蒲、更には菖蒲の口の中に高宮を見た。危うく自分は邪悪な闇に溺れかけるところだった。
 それが今、瓜谷の出現と同時に、黒い駒で埋め尽くされていた盤面が鮮やかに裏返っていく――

 徹はへたり込んだままで二人を眺めていたが、ジーンズの尻から地面の冷たさが伝わってくるにつれ、ようやく頭が働き始めた。

(それにしても……凄い人だ)
 ムートンジャケットに両手を突っ込んだまま歯を見せている男を前に、徹は素直にそう思う。同時に、瓜谷の言葉が意味するものが心に重くのしかかってきた。
 
 果たして自分はリタに相応しかったのだろうか。リタは瓜谷と組むべきではなかったのだろうか。
 いけないと判っていても消極的な思いが頭を擡げる。

 だが瓜谷はそんな徹の心の動きも全てお見通しのようだった。赤い髪の少女に近付くと、親しげにその肩を抱く。 
「リタちゃん、俺を選ばなかったのを後悔してるか?」
 からかうような瓜谷に対し、リタが愚問とばかりに言下に否定した。
「徹は最高のパートナーだ」
 
 単に事実を告げるだけの、照れも気負いもない口調だった。肩に置かれた手をさりげなく、だが明確な意思を持って瓜谷の方へ押し遣る。
 かちり。
 その瞬間、自分の中で何かのスイッチが入った。突然心臓が脈打ち始める。

「おい藤原ぁ、聞いたか」
 瓜谷は片目を瞑ってみせた。
 気障な仕草の中に溢れんばかりの親しみが込められていた。
「お前、男なら奮い立たてよ」
 瓜谷の言葉を聞くまでもなかった。

 入学式でのリタと瓜谷の強烈な印象を残した遣り取り。そして、瓜谷を鳴神と知ってなお徹を選んだリタの思い。全てを知った後の興奮が徹の中で音を立てて渦巻く。
(徹は最高のパートナーだ)
 全身に力が湧き上がった。先ほどまでの寒さなど微塵も感じなかった。
 指に力をこめ、丹田に気を注ぎ込むと一気に立ち上がる。
 赤い髪の少女が小さく、だが心からの笑顔を見せると駆け寄ってきた。

「やれやれ」
 呆れたような、だがなおも親しみの込められた口調で瓜谷が呟くと、首をごきりと鳴らしてポケットから手を出した。
「さ……て。で、次はあちらさんだが」
 とぼけた調子で声を掛けてきた瓜谷に、菖蒲の存在を思い出して徹は慌てて振りかえると――

 言葉を絶する光景がそこにはあった。
 両手両膝を地面についた小柄な女の口から、巨大な狼にも似た獣の半身が出てきていた。

 昆虫の脱皮。
 脈絡も無くその言葉が浮かぶ。
 身長百五十センチほどしかない菖蒲のどこに入っていたというのであろうか、既に三つの頭が顔を出し、虎の前脚と黒い毛に覆われた雄牛の胴体とが外に出ようともがいている。菖蒲の口は飴細工のように広がり、両の瞳からは歓喜とも苦痛ともつかぬ涙が流れ落ちている。

 異様な、そして淫靡な光景であった。
「二人とも慌てんなよ。あれは鳴神先輩が自分の意思で吐き出してんだ」
 瓜谷が落ち着いた声で制する。
「だいたい、いつまでもあんな化け物に身体を売り渡したままの人じゃないんだよ」
 後半は自分に言い聞かせるようであった。

 その間も菖蒲は獣を吐き続ける。凶獣を覆う剛毛は羊水に浸かっていたかの如く皮膚に貼り付き、大の男でも抱え切れぬ体躯の下にある鋼の筋肉を容易に想像させた。
 にもかかわらず女の口元で胴体が風船のように縊れる様は、異様さを取り越して滑稽ですらあった。

 そうこうするうち菖蒲は三本の鞭のような尾まで吐き終わると、続けて胎盤にも似た黒い肉塊を吐いて倒れ込んだ。地面に落ちるや否や肉塊は煙を上げて溶け始め、獣臭に肉の焦げる匂いが混じる。
 その匂いに捕食本能を刺激されたのか、凶獣が太い前脚に力を込めて身体を起こそうとする。

 じゅふるぶふずじゅぶしゅくじゅ。

 尖った口の端には緋色の泡が幾つも浮かんでいた。左右の頭部は未だ眠りから覚めておらず、中央だけが紅い眼球を爛々と輝かせている。
 見る者の心を狂わせかねない光景だった。
 だがこれこそ徹が夢で何度も見た、待ち望んでいた相手だった。

「これ使え。夢で見ただろ」
 いつ横に立ったのか、瓜谷が宝玉の箱に巻かれていた銀の鎖を徹に押し付けてきた。
 瓜谷は何かを確かめるかのように徹の全身に視線を這わせていたが、じゃあ俺は帰るぜ――不意にそう言って口の端を上げた。

 思わず一歩前に出かけた徹だったが直ぐにその足を戻した。言われるまでもなく、これがルールだと判っていた。
「ありがとうございました」
 頭を下げる徹を前に、端正な男の顔がくしゃりと笑みで歪んだ。
「ま、今回の主演男優はお前だからな」

 そのまま瓜谷は凶獣の横を平然とすり抜けると菖蒲を背負う。凶獣は瓜谷が見えないかのように徹たちに牙を剥き出すだけであった。
(一人で背負込みすぎなんですよ。先輩は)
 低い声とともに菖蒲を背負った瓜谷が遠ざかっていく。凶獣が徹とリタに対してがちんがちんと歯を鳴らしながら、立ち上がろうとしている。

 びしっと決めろよ――
 暗闇に消えた広い背中から、最後にそんな台詞が聞こえた気がした。

戦えるわけがない (夢見の宝玉7)

2009年02月07日 01:52

「あやちゃん、やめろ!」
 徹が絶叫するのと、リタが躊躇いもなくカードを投じるのが同時だった。
 二枚のカードが吸い込まれるように菖蒲の顔へと迫る。だが菖蒲は宇田川の首から手を離すと、顔の前で手を左右に振った。それだけで二枚のカードが四枚の紙片に変じて足元に落ちる。
 いつ出したのか、菖蒲の手には扇が握られていた。

 長い黒髪は妖しく乱れ、灰色のダブルのコートには赤黒い染みが点々と飛び散っている。足元では宇田川がぐったりと気を失って倒れている。
 悪夢としか言いようのない光景であった。

「どうして……」
 相手が凶獣であれば、手足が折られようとも這って闘い続けるつもりだった。小便を漏らしながらでも殴り続けるつもりだった。だが、菖蒲に振うべき拳は持っていなかった。

「お前、凶獣に喰われたか」
 問い掛けるリタの声には憐れむ響きがあった。返事の代わりに菖蒲の濡れた唇が、顎の骨でも抜かれたかのようにどこまでも伸びていく。
 その中に何かが覗いた気がした。

 有り得ない。これは何かの間違いだ。
 必死に言い聞かせる徹を嘲笑うように、菖蒲が足元に転がっていたランタンを拾い上げると腕の高さまで持ち上げる。目を凝らした徹の喉が奇妙な音を立てた。

 照らされた菖蒲の口の中に覗いたものは、嘗ての徹の同級生、高宮武の顔であった。

 菖蒲と高宮の上下二対の眼が徹にそれぞれ焦点を合わせる。
「どうしたあ、藤原ぁ」
 その声を聞いた瞬間だった。
「凶獣よ、地獄へ戻れ!」
 リタが両腕を大きく前方に振り出す。炎を纏った六枚のカードが菖蒲と高宮目掛けて飛翔した。

 ごぐおうおううるう。
 菖蒲の口の中の高宮が吠えた。
 操り人形のように不自然な動きで菖蒲の右足が二度跳ね上がるや否や、四枚のカードが弾き飛ばされる。残る二枚が菖蒲の手にした扇で真っ二つに裂かれて落ちる。カードは地面に落ちると、音を立てて瞬時に燃え尽きた。

「二人ともやめてくれ」
 徹は絶叫した。どこまでが現実でどこからが幻覚か判らないまま、リタに、そして菖蒲に懇願する。
「徹、お前の姉弟子は憑依されている」
 既にリタは指の間に次のカードを挟んでおり、胸の前で両腕を交差させていた。ターコイズ・ブルーの瞳には、徹が見たことがない冷徹な光を宿している。

 咄嗟に徹はリタの正面に立ち塞がり必死の形相で両手を広げた。何か言おうとしたその瞬間、耳元に吹きかけられた息と、続く強烈な異臭に徹の首筋が粟立つ。
 振り向くと目と鼻の距離に黒髪の女が立っていた。

「徹、危ない!」「ど、どうやってこの距離を」
 リタと徹の声が重なる。
 徹は飛び退りながら唖然とし、そして思い出した。

 相手は鳴神の師範代だった。

 自分が帯と扇しか扱えないのに対し、最も難度の高い鈴までも自在に使いこなす宗家鳴神。しかも、幼いころから姉以上に自分を可愛がってくれた人――
 く、くくく、くく、くくくく。
 女の声には狂気が混じっている。

(駄目だ、勝てるわけが……いや戦えるわけがない)
 力が一気に抜けて両膝から地面に付く。
(僕はどうしたら――あやちゃんは凶獣に――勝てない――まさかこんな)

 絶望に身体が蝕まれていく。強烈な吐き気がせり上がって来る。
 徹が敗北の言葉を口にしかけたその時だった。

「地震・雷・火事・親父……怖いもんは何もないっと」
 校舎の方角からどこか能天気な歌声が聞こえてきた。それに呼応するかのように、林に響き渡っていた狂気に満ちた笑い声がぴたりと止む。

 落ち着いた足取りで、茶色のムートンジャケットを着た男が闇の中から姿を見せる。まさか、あり得ない――徹が何度も目を擦るうちに、男は見間違えようのない距離まで近付いてきた。

 瓜谷悠だった。

 瓜谷は何の気負いもなく飄々と歩み寄ると、徹の頭をいきなり殴った。
「なっ……?」
 後ろで赤い髪の少女が思わず声を上げる。
「ったく、いつも世話が焼けるぜこの男は」
 瓜谷は男にしては長い髪を掻き上げると鼻筋の通った顔を顰めて見せた。その均整のとれた体駆は、生命感に満ち溢れている。
「う、瓜谷さん!」

 瓜谷は、異界の獣臭を吹き飛ばす一陣の烈風であった。ジーンズを穿いた長い脚で今度は徹の尻を蹴とばしてくる。
 何が起こったのか、何故瓜谷がここにいるのか。呆然とする徹を前に瓜谷はくしゃりと笑って見せた。
「何驚いてるんだ。俺は一昨年、去年と宝玉の管理者だぜ。このぐらい当然だろ」

 それに――
 
 瓜谷が皮肉っぽく口の端を吊り上げる。
 続く言葉とともに、雲に隠れていた満月が姿を現わす。

「俺も鳴神だ」

聞きたいですか、先生 (夢見の宝玉6)

2009年02月05日 00:04

 その日の午後十一時三十分。予報では未明には雨が降り出すはずであった。
 学園内の鬱蒼とした林の中で宇田川は、煙草を手にしたまま一人待っていた。
 
 煙草を吸うのは何年振りだろうか。吸いたいなどという気持ちが自分に欠片でも残っていたことに驚きだった。この一事をとっても、どれだけ自分が神経質になっているかが判る。
 だが、それも当然のことと言えた。彼女からの電話は自分が十年以上待ち望んでいた内容であった。例え捨て駒の役であったとしても、宇田川には何の悔いもない。彼女のためになれれば十分であった。

(ねえ隆介、私達は連の絆だけに拘り過ぎていたのかもね。でも今の彼らは周囲の仲間たちの全てを力に変えて運命に挑もうとしているわ)
 昨日のアナスタシアの電話を反芻する。

 アナスタシア=ハート。ドルイドの血を引く祭司一族の末裔であり、人には見えぬものが見える女。宇田川が高校時代をともに過ごしたかけがえの無い友人であり、そして当時の宝玉の管理者――
 宇田川は十五年前のことを思い出して一瞬激しく後悔し、直ぐに思い返した。過去があるから今がある、そう自分に言い聞かせた。

 再び刺すような北風が吹き、宇田川はコートの襟を立てる。ここでどれだけ待つことになるのか宇田川には見当もつかなかった。
「場合によっては雪になるか」
 そう宇田川が独りごちたところで―― 

「今晩は、宇田川先生」
 突然の声に、慌てて煙草の火を消した。
 足元に置いたキャンプ用のランタンを点けて振り返ると、数年前に参宮学園を卒業した教え子が、小柄な身体を灰色のダブルのコートに身を包んで立っていた。巫女を想像させる白い肌と後ろで束ねた長い黒髪は、体育祭で会った時と変わりなかった。

「先生、夜中にどうされたんですか」
 夢見るような口調だった。距離があるにもかかわらず、女の方角からは動物園の檻でしか嗅いだことのない獣臭が漂ってきた。

 宇田川はランタンを掲げて素早く辺りを見回したが他の者の気配は無かった。満月とはいえ夜空には雨雲が広がっており、暗い林の中にぼんやりと浮かび上がるのは、女の白い顔だけである。予想外の人物に宇田川は動揺しつつも、気取られないよう細心の注意を払いながら隠し持ったスタンガンを握り締めた。
 
 自分は高宮武をおびき出す撒き餌ではなかったのか。
 腋の下を冷たい汗が流れ落ちる。

「鳴神君か、久しぶりだね」
 宇田川は、買い物帰りにでも会ったように自然な素振りで挨拶してみた。鳴神菖蒲も挨拶を返してきたが、歩み寄るにつれ鼻腔を突き刺す獣臭は強まった。
「鳴神君はどうしてここに?」
 ランタンを置くと、そろり、宇田川は切り出してみた。菖蒲が小首を傾げてもう一度笑みを浮かべたが、口の中は深紅に染まっていた。
「聞きたいですか、先生」

 怖い。

 特段おかしなところのない台詞だったが、宇田川の全身に鳥肌がたった。
 逃げ出したい、それが偽らざる気持ちであった。コートの内側でスタンガンを持つ手が汗で滑る。
 高宮は、凶獣はどこにいるのか。

「ところで、高宮君には会わなかったかい」
 その途端、後ろの林から何かが飛び立つ羽音が響いた。
 宇田川が思わず振り返って目を凝らしたが、暗い闇の奥に潜むものは見えない。大きく息を吐いて再び前を向くと、蝋のように白い菖蒲の顔があった。

 その目が細まっていた。
「ああ、彼なら」

 ここにいます。
 
 そう言って菖蒲が唇を舐めた。
 その口が裂けていく。顎関節が外れ、腐りかけの肉が重みに耐えかねてずり落ちるように首の付け根からぶら下がる。
 赤ん坊でも丸飲みできそうに開いた口の中、ぬらぬらと唾液に濡れた――
 
 高宮の顔が覗いた。
 安らかな寝顔だった
 
 もう耐え切れなかった。宇田川は衝動的にコートの中からスタンガンを前方の女へと突き出した。同時に放電音が響き渡る。
 だが、口の中に高宮の顔を宿した菖蒲は、笑顔のまま宇田川の右手首を振り払った。
宇田川が弾き飛ばされたスタンガンを慌てて拾い上げようとしたが、菖蒲はブーツの足で踏みつけた。それほど力を入れたように見えなかったが、電気剃刀ほどの大きさの器具は音を立てて壊れた。

「先生、突然ひどいじゃないですか」
 強烈な獣臭に思わず宇田川が顔を背けた。
 菖蒲の目は黄色く濁っていた。宇田川の首に手を回すとゆっくり顔を近づける。
 
 喰われる。
 頭では判っていた。
 だが、宇田川は蛇に魅入られた蛙のように動くことが出来なくなっていた。危機的状況に直面しながらも、菖蒲の口の中に見える高宮の閉じた瞼はあまりに安らかで、倒錯した羨望すら抱かせた。

 宇田川は自らの運命を菖蒲に委ねかけ――
 
 視界の端に、誰かが駆けて来る気配を確認した。
 再び眼を凝らして見ると、そこには待ちに待った二人の姿があった。宇田川の胸の中にささやかな、だが暖かな明かりが点る。

(アナスタシア、確かに彼らは辿り着いたよ。当時の僕らより優秀だったようだ)
 宇田川は、続く徹の叫びを夢の中で聞いていた。

ここから先の未来は私にもわからない (夢見の宝玉5)

2009年02月03日 00:02

 徹が宇田川から呼び出されたのは、三月一日の朝だった。

 理事長室に通されると、あれほどまでにリタが熱望したものがソファーの前に置かれていた。
 宇田川が銀の鎖を丁寧に解いて、箱の中から球体を差し出す。宇田川は仕立ての良いグレーのスーツに身を包み、前屈みとなったワイシャツの袖口からは刺繍されたイニシャルと黒いカフスボタンが覗いていた。

「今日から一ヶ月間、本来であれば君とリタ=グレンゴールドが宝玉の管理者に任命されるはずだった。だが、既にリタはこの学校にいない」
 宇田川は口を閉じると、彼の地のリタとその母親にも言い聞かせるかのように視線を左右に動かした。

「この宝玉は春分の夜に、傍らにいる者が自分の主に相応しいかを試す――」
 ここで宇田川は、徹を値踏みするかのように目を細めた。
「今年は真の年でしかも役者が揃い過ぎている。危険だ」

「でも、僕はもう心を決めています」
  徹は間髪入れず答えたが、宇田川はなおも続けた。
「ならば、老婆心からもう少し言わせてくれ。君の技だけでは宝玉を活性化できない。それは過去に鳴神菖蒲が証明済みだ」
 改めて口にされると重い一言だったがこれは想定内だった。特段の反応を見せぬ徹に対して宇田川は両手をテーブルの上で組み直すと身を乗り出した。

「そしてもう一点。宝玉は海外では無力だ。イギリスに運んだとしても役に立たない」
 今度は思わず宇田川の顔を見る。徹の考えは既に見抜かれていた。宇田川は徹から視線を逸らさぬままで立ち上がった。
「幸運を祈る」
 その目は真剣だった。

 宇田川が去った後も徹はそのままソファーに沈み込んだまま考え込んでいたが、予鈴ともに理事長室を出た。
「あやちゃんでも駄目だったんだよなあ」
 誰に聞かせるでもなく口にする。手にした木箱の重さがこれからの厳しい道のりを実感させる。徹は、春分までの日数を頭の中で数えた。
 エジンバラに戻ったリタとは連絡を取り合っていたが、具体策があるようには見えなかった。宝玉の危険を熟知するリタの母親が、そう簡単に日本に戻ることを許すとは思えなかった。

「……となると、やれることは全部試すしかない」
 徹は腹を決めた。そのためのパスポートも準備済である。大したバイトをしてこなかったため十分な貯金はなかったが、姉の望に頭を下げるつもりだった。自分をからかってばかりで煩わしい姉の存在も、こんな時にはありがたかった。

 学園に藤原徹の四日間の欠席届が提出されたのは、それから間もなくであった。

   * * * * * * * *


 暗闇が形を取り始める。
 絶望が全身を支配するのを必死に堪える。

 頭は三頭の狼、体躯は雄牛で前脚は虎。
 そう古書に記された凶獣が月影に姿を現す。
 その圧倒的な肉の重み。

 徹は背筋を伸ばし、肩幅に両足を開く。
 二拍子を二つに分け、更に二つに刻む。
 凶獣の三本の尾が風を巻き上げる。
 吹き付けたと思う間もなく頬が割れる。
 徹は目を庇いながら凶獣に近づく。

 凶獣が吼えた。
 聞く者の肌の下に無数の蟲を這わせる声。
 暗い三対の眼が徹を射抜く。
 昨日はここで萎えた。
 今日は構わず足を前に踏み出す。

 夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが無い。
 夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが無い。
 夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが

 全身が風で切り刻まれた。
 堪え切れず徹は叫び声を上げた。
 ――そして徹は目を覚ました。



「おそらく、藤原先輩は過去を追体験しているんでしょう」
 春分の日を迎えて徹の家では、徹が見た夢の整理が行われていた。
 杉山想平がメモを取る手を休めて、徹、荻原有理、有為、そして桐嶋和人の顔を順番に見回す。

 宝玉を預かって三週間、杉山の発案で何度となく宝玉の謎に関する打ち合わせが行われていた。これは遊びじゃなくて危険なんだ。そんな言葉を口ごもりながら協力を辞退しようとした徹を一喝したのは、楠ノ瀬麻紀と荻原有為だった。
 仲間たちの自分への献身的な協力に、今更ながらに頭が下がる思いだった。

「残されたのは今晩限り。後はぶっつけ本番ってわけね」
 徹のベッドに腰掛けていた有為が、投げやりな口調で伸びをする。部屋に来た当初は、何だか怪しいとベッドの下を覗き込んでは徹を冷や冷やさせ、その反応に喜んでいた有為だった。
 だが、既に議論も半日近くなり顔には疲労の色が隠せない。

「で、でも出来る事は全部やった」
 桐嶋がやんわりと否定する。相変わらずいい奴だ、徹はそう思いながら心では別のことを考えていた。
「徹君、今、気持ちは空港だったでしょ」
 有理の指摘に、有為が露骨に嫌な顔をした。
 徹は肯定する代わりに壁の時計にもう一度目をやる。針は既に午後六時を廻っていた。
「大丈夫だって、徹君が直接説得したんだから。リタちゃんは必ず来る」
 有理の切れ長の大きな瞳で顔を近づけられると、いつものことだが落ち着かなくなる。そんな徹に有為はもう一度露骨に顔を顰めた。

 徹は僅か正味二日だった初めての海外旅行を思い返していた。エジンバラ中心部の小高い丘の上で身を切るような寒さの中、三人で見た夕暮れは本当に美しかった。

「本当は、二月にあなたと会ったときからこの光景が私には見えていたの。でもね、ここから先の未来は私にもわからない」
 リタの母親の声が脳裏に蘇る。驚くほど若々しく見えるアナスタシアだったが、その声は年相応に疲れた響きがあった。
「母上、私は宿命に打ち克つため日本に戻りたい」
 結局、アナスタシアからは娘の言葉への明確な返事はなかった。 

 その時、徹の回想を破って玄関のチャイムが鳴った。階下で暫く母親が対応している気配がした後、階段を誰かが昇ってくる足音がする。徹が腰を浮かすのと部屋のドアが開くのはほぼ同時だった。
「済まない、機体トラブルがあって遅れた」
「リタ!」「リタちゃん!」
 徹たちの声が揃う。

 そこには、待ち焦がれた赤い髪の少女が紺色のダッフルコートを着て立っていた。
 ターコイズ・ブルーの瞳も聡明さに溢れた額も、全て徹の記憶のままであった。

「待たせたな」
 リタは、微かに照れた笑顔を見せた。

あの言葉は嘘か (夢見の宝玉4)

2009年02月01日 02:16

 翌日の放課後リタが徹の席にやってきた。
「では、行こうか」
 普段と変わらぬ口調で徹を誘う。連れて行かれたのは東校舎の裏手であった。

「私は明日イギリスに帰国することになった」
 リタは徹の反応を見定めるようにそこで言葉を切った。太陽は既に傾き、少女は西日を背に立っていた。
「どうやら母から聞いたようだな」
 徹の無言の返事を肯定と受け取った赤い髪の少女は、頷くと再び口を開いた。
「では、弟のエドワードのこともだな」
 徹は迷ったが、先に表情に出てしまったようだった。

「呆れたろう」
 その声に苦いものが混じっていた。徹は急いで否定しようとして息を呑んだ。
 リタが自分から視線を逸らしていた。
(リ……リタ?)

 如何なる場所であれ如何なる者に対してであれ、時に切っ先鋭く、時に激しい情熱をもって相手を正面から見詰めてきたターコイズ・ブルーの瞳が、その輝きを失っていた。唇は冷ややかに歪み己を嘲る笑みが張り付いている。
 目の前の少女は老成した、だが驚くほど醜い表情をしていた。

「だ、駄目だ、そんな顔をしちゃ……」
 徹の言葉を打ち消すようにリタが低い笑い声を立てた。聞いたこともない声だった。思わず立ちすくむ徹に、更なる一言が突き刺さる。
「きっと私の帰国に何の感慨も湧くまい」

 その瞬間、心の中で何かが弾けた。
 徹は、自分でも思ってもいなかった感情の迸りに突き動かされていた。

「ふざけるな! あの言葉は嘘か!」
 リタの肩を鷲掴みにする。目の前の顔が驚きと痛みに歪んだのにも構わず、徹は指に力を込める。呆然とする赤い髪の少女を前に、徹は怒りよりも悔しさが突き上げてきた。

「悔いの無い一年を過ごそう――そう誓ったじゃないか。悔いは本当に無いのか」
 出会ってからの出来事が走馬灯のように駆け巡る。もはや自分でも止められなくなっていた。
「リタの弟が生きているのかは知らない。誰の言うことが本当かもわからない。でも、自分にとって大事なことが何かなら答えられる。リタを……」
 徹は、続く言葉に心の全てを乗せた。
「僕にとっては、リタを信じることが一番大事だ!」
 最後は咆えんばかりであった。

 そのまま徹は唇を痙攣させて立っていたが、不意に目の前の少女が俯いてしゃくり上げている事に気付いた。
 冬空の下、リタは濃紺のブレザーの薄い肩を震わせながら必死に何かに耐えていた。豊かな赤い髪が俯いた顔を隠すように流れ落ち、腿の前に置かれた両手は固く握り締められている。

 目の前の光景に徹の激情は潮が引くように消え去り、代わりに後悔と焦燥感とが身体を埋め尽くしていった。
 本来は支えてやらねばいけないのに、衝動に任せて身勝手な感情をぶつけてしまった。
 何と愚かなことをしてしまったのか。
 徹はよろめくように後退りしながら髪を掻き毟った。

「徹、徹……」
 どれくらい、そうしていただろうか。
 ふと自分を呼ぶ掠れた声に両手を髪の毛から離すと、目の前の少女は顔を上げていた。
(あ……)
 少女の頬には涙の跡があったが既に眉間の縦皺は消えていた。
 背筋を伸ばし凛と立つ、誇り高いリタ=グレンゴールドの姿がそこにあった。

「徹、お前はやはり最高のパートナーだ」
 少女は唇を閉じたまま静かに微笑んだ。西日を背にしたリタの眩さに、徹は息が止まる。
 リタが一歩踏み出し、枯葉が足元で小さな音を立てた。

「母とエジンバラできちんと話し合って、春分の夜までに戻ってくる。必ず戻ってくるから」
 もう、手を伸ばせばその細い腰を引き寄せることの出来る距離であった。
 赤い髪の少女は、動けないでいる徹の顔に両手を伸ばすと、ほっそりとした白い指先で頬に触れた。
 そのままどこか愛おしげに眼を細める。
「……だから、待っていてくれ」
 徹は、その囁きより前に少女の手の冷たさを感じた。



(これってキスされるより……強烈かもなあ)
 いけないと知りつつ教室から二人を追ってしまった有理は、陰で小さく呟くとスポーツバッグを抱えて背中を向けた。


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