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あなたに話せていないんでしょう? (夢見の宝玉3)

2009年01月29日 23:07

「ふ、藤原も、態度を決めた方がいいぞ」
 その日の帰り道、聞かれるでもなく語り出した徹に対する桐嶋の答は至極もっともなものであった。
 
 西砂の繁華街は、恋人達の祝祭を盛り上げる飾り付けが至るところに施され、店先には色鮮やかな包装紙のチョコレートが並んでいる。桐嶋はコンビニで買った緑茶を飲みながら、きっとリタちゃんは愛の告白をするつもりなんだ、などと古風な表現をする。  
 小柄な親友を前に反論するでもなく、徹は先ほどの出来事を回想した。
 
 確かに桐嶋の言うとおり考えるのが自然だが、この違和感は何なんだろうか。
 一年近くに亘る付き合いで判ったことと言えば、リタは嘘が苦手だという事実だ。
 これは決して、リタが人を騙すのが下手だということを意味しない。ポーカーフェイスは相当なものであり、心の動きは僅かな仕草に表れるだけである。だがそれ以前に、リタは自分に幾つかの規律を課して生きていることが窺える。その中の一つは明らかに、「信頼する相手に嘘をつかない」というものだった。
 
 そこまで考えたところで、桐嶋が軽く手を上げた。
「じゃあ、また明日な」
 繁華街の人いきれの中、桐嶋の背中はすぐに見えなくなった。徹は鳴神静瑛との稽古に向かおうと交差点を渡ろうとして、足を止めた。
 影を突然縫い付けられたかのように動かなくなってしまった。
 交差点の向こう側、信号を待つ人々に混じって背の高い女が立っていた。

 初めて見たにもかかわらず、それが誰だか判った。これは運命なのだと悟った。
 徹は彼女の名を口の中で転がす。その呟きが雑踏の中で届いたなどとは思わないが、彼女は他の人々を一顧だにすることなく徹に向かって歩いてきた。
 二人は待ち合わせたかのように交差点の中央で出会った。
 
「すぐ判ったわ。これが偶然なのかは知らないけれど」
 綺麗な日本語だった。
「僕もです」
「アナスタシアでいいわ」
 そう言って、リタの母親は娘と同じ色の瞳を徹の正面に合わせた。紫色のカシミアのコートに毛皮のストール、そして黒革のパンプス。大人の女としての圧倒的な存在感があった。

 丁度良かった、貴方に話したいことがあったの――アナスタシアの口元からは歯が覗いたが、徹は彼女が笑ったわけではないことは理解した。
 信号が点滅を始め、周囲が足早になる。
「じゃあ、どこか喫茶店で――」
 言いかけた徹の言葉は途中で遮られた。
「少し歩かない? 徹君」
 リタの母親はもう一度歯を見せた。今度は僅かに微笑んだように見えた。
 そのまま二人は徹がもと来た参宮学園の方へと向かって歩き出した。

 徹はいつしか無意識にリタの母親と歩調を合わせていた。歩幅を合わせ、歩調を合わせ、そして思考を合わせる。規則正しいリズムは徹の思考を適度に刺激した。
(日本、何故、エドワード、宝玉、過去、リタ、運命、宇田川、私のために空けて、夢見、青い瞳、真の年――)
 言葉が唇から今にもこぼれ落ちそうになったその時、アナスタシアが振り向きもせず話しかけてきた。

「リタの弟のことは聞いてる?」
 徹は俯き加減だった視線を紫色のコートへと戻した。
「は、はい、ずっと病気だと」
 アナスタシアは肩越しに繰り返した。
「ずっと病気だ、と」
 次の言葉を促す態度であった。徹は付け足した。
「リタは、エドワードを救うために闘っています」

 アナスタシアの歩調は僅かも崩れることは無かった。徹の説明は予測の範囲内だったらしい。アナスタシアは、
「エドワードを救うために、か」
 再び徹の言葉を繰り返すと静かに振り向いた。そこには慈悲と悔恨と憐憫と――幾多の感情が交じり合った大人の微笑があった。

 徹は居心地の悪さを感じ始めた。この世界が全て虚構だった。そんな妄想が頭をよぎる。自分は西砂の繁華街を歩いていたのではなかったのだろうか。二月だというのに脇の下を冷たい汗が流れ落ちる。
 この会話を続けてはいけない、何かをやり直す必要がある。
 居心地の悪さは既に焦燥感へと変わっていたが、リタの母親は容赦が無かった。

「エドワードは既にこの世を去った――としたらどうする?」
 徹は頭を殴られた気がした。だがアナスタシアは回復の時間を与えてくれなかった。
「例えば一カ月半前、去年の暮れにね」
 
 いつの間にか参宮学園へと戻る道を逸れ、二人は古い教会の前に辿り着いていた。ひっそり佇むその姿は周囲よりも一段と暗く、建物の形にぽっかりと穴が開いているかのように見える。アナスタシアの輪郭は夕闇に滲み、ターコイズブルーの瞳だけが瞬いていた。

「……エドワードが死んだことは誰のせいでもない。それは運命」
 そう言って空を見上げたリタの母親の髪も赤かった。
(ならば何故、リタは)
 徹が疑問を口にする前に、アナスタシアが答えてくれた。
「あの子は、弟を救えなかったのは自分のせいだと思っているわ。何度も自分を責めた。そしていつの間にか妄想に捕われてしまったのよ」

 続く声が一段と低くなる。
「弟はまだ死んでいない、という妄想にね」

 徹はこめかみに痛みを覚えた。確かな手ごたえを求めてリュックの肩紐を無意識に握り直したが、徹のささやかな抵抗をあざ笑うかの如く足元は歪みだした。
「隆介は三学期にリタが日本に戻ることに反対したわ、もう意味がないって。私が構わないって言ったの。日本に行くことで気持ちが整理できるなら、とね」
 そこで言葉を一度切ると、リタの母親は吐息を漏らした。
「でもリタはまだ現実を直視できてない。あの子は、あなたに話せていないんでしょう?」
 頷くしかなかった。

「ねえ、十五年前に私と隆介が宝玉の管理者になったのを知ってる?」
 徹は先程から訊きたいことばかりだったが、それでも徐々に話が結論に近付いている事を実感する。話の腰を折ったら二度と続きが聞けない気がして、アナスタシアが話すのを待った。

「誤解しているかもしれないけれど、私達は真実に辿り着いたのよ」
 どうやって、そして何故それでは成功しなかったのか。
だが、もうすぐ核心だ。聞き逃してはならない。徹は身構えた。

「あなたは宝玉に食べられてしまうわ。だからリタをイギリスに連れ戻しに来たの」
 リタとよく似た口元だったが、ルージュの引かれた唇から覗いたものは牙に見えた。
「宝玉は祈る者の心を用いて願いを叶える。その代償は記憶喪失や昏睡だけれど、これは祈る者の力と願いの大きさ次第。普通の願いなら心配いらないわ。でも万が一死者を蘇らそうなどと考えた場合――」

 後は自明とばかり、アナスタシアはそこで説明を終えた。徹は耳にした全てを否定したかったが、そうするには余りにも真実の重みが有り過ぎた。徹は代わりに腹に力を込めた。
「僕は……宝玉に食べられたとしても、リタの夢を叶えます」
 
 自分の言葉に酔うつもりは無かった。だが、答えるとしたらこの言葉しかあり得なかった。
 ターコイズ・ブルーの瞳と徹の視線とが絡み合う。と、アナスタシアが真珠の歯を見せると再び背を向けた。ふわり、夜の闇に赤い髪がなびく。
 ピンヒールの立てる足音が、ついて来るなと伝えていた。

 そのまま遠ざかるかと思った足音が止まり、リタの母親がストールの肩越しに彫りの深い横顔を向けた。
「今まで有難う、徹君。でもリタには春分の日をイギリスで過ごさせるつもりよ」
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そうか、無いか (夢見の宝玉2)

2009年01月27日 19:34

「明日は、何か用事はあるか?」
 リタからそう聞かれたのは二月十三日だった。いつの頃からか徹たちの指定席になった学生食堂の左隅で、二人は宿題を解きながら楠ノ瀬麻紀を待っているところだった。

 シャープペンを持つ手を止めて顔を上げた徹に、リタは眉一つ動かさずに続けた。
「日本では、バレンタイン・デーに女からプレゼントを渡す習慣があるそうだな」
「ん……ああ、明日は特に予定は無いけど」
 答えながら一瞬、荻原有理の顔が浮かんだ。表情に出ないよう細心の注意を払ったが、正直うまくいったかは自信がなかった。

「そうか、無いか」
 リタは一人納得すると、再び国語の教科書に目を落とした。赤い髪が教科書にまで掛かっている。大理石の彫刻のような形のよい耳が顕わになる。徹は無意識に唾を飲みこむと、自分も英語のテキストを読み始めた。

(まいったなぁ)
 誰に言うともなく呟いて目の前の英文に集中しようとしたが、字句が上滑りして頭に入らない。
 Romance has changed in many ways, but
(来年のバレンタインデーは受験だな)
 Romance has changed in many ways, but the vital ingredients are still the same.
(時を超えても変わらないものって――)

「徹――」
「へっ?」
 顔を上げると、驚くほど近くにリタの瞳があった。咄嗟に椅子を後ろに引くと大きな音が食堂に響いた。
 もっと自然な形で話を持って行きたかったのだろう。リタは徹のリアクションに僅かに困惑したようだったが、唇を再度一文字に引くと脚を組み替えた。制服のスカートから白い膝が覗いた。

「明日は、私のために空けて置いてくれ」
 赤い髪の少女の台詞は余りにシンプルだった。徹は頬が火照るのを感じる。
「リタの頼みであれば勿論、構わないよ」
 徹が早口でそれだけ告げると、リタは感謝の言葉を口にした。
 
 だが、その表情は冴えなかった。
 
 いや、正確に言うべきだろう。
 リタの憂いは、徹の返事にかかわらず晴れることが無かったのだった。

終章 夢見の宝玉/ じゃあ、リ―たんから質問して (夢見の宝玉1)

2009年01月26日 01:28

 私は、病院のベッドに付き添っていた。

 微かに消毒液の匂いが漂う白い部屋の中、ベッドの上には目を閉じた少年の姿があった。
 いつ醒めるとも無い昏睡状態。顔色はまるで蝋のように白く、もはや事切れたかと思わせるほど生気が無い。毛布の下の左腕から覗くチューブが僅かな生存の証である。

 母に幼い頃読んでもらった物語では、呪われた少女の眠りを覚ますのはいつも、勇気ある騎士の口づけだった。目の前の光景が配役を間違えた出来損ないの悪夢に感じられ、何故か笑い出したくなる衝動に駆られる。
 だが、一度笑いだしたら最後、私は正気を保っていられる自信がなかった。
 
 私は少年の手を握り締めながらひたすら念じる。
 必ず彼を救うと。必ず、再び彼と陽の光の下で笑い合うと。
 少年の耳に届くことは無いその台詞を、何度も繰り返す。

「――お時間です」
 遠慮がちに後ろから掛けられた声に、私は振り向かず頷く。その間も声に出さず唇だけを動かす。握った手に思いを込める。
「必ず、必ずだ。例え、この身を代償にしようとも」

 最後にもう一度そう呟くと、私は立ち上がった。
 
   * * * * * * * *


「やっぱ新年会でしょ」
 一月十日の昼休み、楠ノ瀬麻紀のこの一言で企画はスタートした。

 リ―たん徹ちゃんナンバーワン祝賀会兼瓜谷先輩麻紀ちゃん残念会、という舌をかみそうな正式名称と、略称の「りたまき会」とが楠ノ瀬によって命名された。
 あっという間に荻原姉妹、杉山想平と桐嶋和人にも声が掛けられ、翌週の金曜日の夜にリタの家で開催されることになった。

「それにしてもリ―たんと徹ちゃんは今年目立ったよねぇ」
 楠ノ瀬麻紀が杉山想平に話しかける。
「体育祭のときの高宮との絡みは緊張しちゃったよ。よく途中で止めなかったよね」
「いや、心の中では五回くらい止めてました」

 先程から始まった「りたまき会」は、瓜谷のプロ顔負けの仕切りで最初から盛り上がっていた。上下関係を意識せずに男女で盛り上がれる連の良さを、徹は改めて実感した。
 テーブルには買ってきたフライドチキンやサラダに混じって、楠ノ瀬麻紀の手料理も所狭しと並ぶ。セシルも色々なオードブルを用意してくれていた。
 友人や教師の噂話に花を咲かせながら、気づくといつしか宝玉の話題に戻っている。

「瓜谷先輩は、宝玉の管理者になったら何をお願いするつもりだったんですか」
 有為の質問に瓜谷はにやりと目を細めた。瓜谷は昨年中に大学の推薦入試を済ませ、今月から自動車教習所に通っていた。
「俺か? 俺は世界平和だ」
「へっ?」
 思わず反応してしまった徹に対し、瓜谷は憐憫の眼差しを向けた。
「まだ藤原はそこまでの境地に達してないか」

「あたしだったら、世界平和って言うより世界征服かな」
 訊かれてもいないのに、当然とばかりに栗色の髪の少女が胸を張る。徹は触らぬ神に祟りなしと呟きながら、急いで楠ノ瀬に話題を振った。

「楠ノ瀬は、何をお願いするつもりだったんだい」
 発言を無視された有為からの視線が痛いが、敢えて顔をそむける。楠ノ瀬は例の如く徹に自分の呼び名を訂正させた後で、意味ありげな視線を送って来た。
「後で二人っきりの時にね」
 徹は訊いた自分が馬鹿だったと、がっくり頭を垂れた。

(藤原先輩、今だから話すんですけど)
 食事が終ってからリビングに場所を変えて小一時間、座の話題が参宮学園の七不思議へと移ったところで、杉山が徹に小声で話しかけてきた。
(瓜谷先輩はリタと連を組むつもりだった、って言ったら驚きますか?)

 思わず徹は車椅子の少年の顔を見る。杉山は眼鏡の弦を中指で押し上げた。
(去年の春の話ですけど僕のクラスメイトが瓜谷先輩に申し込んだとき、何で自分じゃ駄目なのか食い下がったらしいんです。そしたら――)

(そしたら何だよ)
 徹が身を乗り出した。当の瓜谷は向い側のソファーの中心にどっかりと腰を据え、身振り手振りを交えてリタたちに何かを説明している最中でこちらを気にする様子はない。杉山が徹の前に置かれたポテトチップスを取る振りをして、顔を近づけてきた。

(組むならこいつと決めた奴がいるんだ、会ったばっかりだけどな。瓜谷さんがそう答えたらしいんです)

 どくり。

 心臓が音を立てた。
 
 杉山は徹の思考を先回りするかのように続ける。
「もちろん、それだけじゃ誰かわかりませんよね。有為かもしれないし。でも、僕は絶対――」
 杉山の声が遥か遠くに聞こえる。何か話そうにも舌が口に貼り付いて動かなかった。

「誤解しないで欲しいのは楠ノ瀬先輩に対してどうこう言うつもりはないんです。楠ノ瀬先輩も只者じゃないって思いますよ。リタや有為もすっかり懐いてるし、懐深いですよね」
 杉山はなおも話を続けているが、徹は瓜谷の台詞に拘らずにはいられなかった。

(瓜谷先輩の言葉は単なるリタへの興味なのか。それとも……)

「おーい、そこ。何を内緒話してるの」
 不意に荻原有理が二人の間に割って入ってきた。ソーダを片手に二人を下から覗きこむ仕草は、酔っているはずがないと判っていても仄かな色っぽさがある。思わず徹は固まったが、杉山は澄ました顔で答えた。
「いや、有理さんの魅力についてちょっと。ねえ藤原先輩」

 有理は大きな瞳を細めて左手の人差し指を顎に当てた。
「やっぱり?って言いたいとこだけど、徹君はあたしと違って嘘が下手だから」
 そう言って、盛り上がっていた残りのメンバーの方を振り返る。
「リタちゃん、男の子二人でよからぬことを話してるみたいだけど」
 茶目っけたっぷりに口を尖らせる。リタが口を開く前に、楠ノ瀬が軽くウェーブのかかった髪を掻き上げてにやりと笑った。

「ふうん。そんな徹ちゃんには麻紀ちゃんが質問責めしちゃおうかなぁ」
 これまでの数々の責め苦を思い出しながら必死に抵抗する徹を前に、楠ノ瀬は無慈悲に宣言した。
「じゃあ、リ―たんから質問して」

 展開の速さに状況が飲み込めていないリタに、楠ノ瀬は言葉を足した。
「何でもいいから、一人一つずつ徹ちゃんに質問して、徹ちゃんはそれに答えなきゃ駄目っていう罰ゲームなの」
 有為が大はしゃぎで拍手する。

(いつ決まったんだよそれ……)
 徹は遠い目をしたがリタは合点がいったとばかり頷いた。
「なるほど、では……」
 リタが真顔になり全員がぐっと身を乗り出す。セシルもキッチンから聞き耳を立てている気がする。

「――徹は好きな子はいるのか」

 あまりにも直球だった。思わずリタ以外の全員が動きを止める。

(な……最初からこんな質問有りかよ)
 直球も直球、ビーンボールの剛速球だった。いやデッドボールかも知れない。
「い、いや、あの」
 ターコイズ・ブルーの瞳が真正面から徹を射る。如何なる言い訳も許してくれそうにない。徹は目の前が暗くなった。
「いや、その……いないわけじゃあ」

「いるの? いないの?」
 歯切れの悪い徹に対し、栗色の髪の少女が鼻息荒く詰め寄る。
「ち、ちなみに、その相手って半年ぐらい前から変わってない?」
 微かに顔を引き攣らせた黒髪の少女が、怪しげな質問をしてくる。
「もちろん、本人に直接伝えるのが先でもいいがな」
 妙に落ち着いた赤い髪の少女のコメントも、どこか誤解がないか非常に気になる。
「藤原、念の為に言っておくが俺には付き合っている相手がいるからな」
 瓜谷は真顔だった。

 徹が途方にくれて天井を見上げていると、
「頂いたお菓子をお持ちしました。お茶は如何でしょうか」
 含み笑い混じりのセシルの声に、桐嶋と杉山からやけくそにも似た歓声が上がった。確か桐嶋は甘いものが苦手のはずだった。

(セシルさん、恩に着ます)
 胸を撫で下ろす徹の耳に、有為の小さな舌打ちが聞こえた。

第四章を終えて (物語について6)

2009年01月25日 00:26

 ちょっとハードな第四章は如何だったでしょうか。 
[第四章を終えて (物語について6)]の続きを読む

ずるいのは自分だ (プリムラ10)

2009年01月22日 23:44

 それから六時間後、荻原有理は部屋に差し込む朝日に目を覚ました。
 
 午前六時四十分。隣のベッドでは有為が穏やかな寝息を立てている。
 夜更け過ぎに眠ってしまったが、静かな朝を迎えたということは特に心配するようなことは起きなかったのだろう。無事に春分の夜を乗り切ったことに、じわり嬉しさが擡げてくる。妹の肩に毛布をかけるとガウンを羽織った。
 欠伸をかみ殺して部屋の外へと向かいながら、有理は昨夜の会話を思い出していた。

「徹君は宝玉に何をお願いすることにしたの?」
「う……ん。秘密、かな」
 徹は夕食後、有理たちが持ってきたケーキを食べながら、どこか困ったような笑顔を浮かべていた。
「もしかして、あたしに関係あっちゃったりする?」
 楠ノ瀬麻紀の言葉に徹はいつもの口癖で問い返した後、半ば呆れ半ば申し訳なさそうに否定した。
「あれえ、おかしいなあ」
 不思議がってみせる楠ノ瀬麻紀に、その場は笑いに包まれて和やかになった。

 あの時、自分が顔を赤くしていたことに誰か気付いたろうか。
 そう、楠ノ瀬麻紀の台詞は、自分自身が心の片隅で期待していたことだったのだ。

 彼は夏休みの終わりに告白してきた。

 正直に言えば自分は告白されることに慣れていたし、彼からもそんな気配は漂っていた。感じが悪い言い方だと判っているが、こういうことは経験がものをいう。
 自分は結局その場で返事をしなかった。
 そのうち、いつの間にか関係も元に戻ってしまったし彼も吹っ切れてしまったようだ。
 けれども、自分はそれを悔いている。
 
 自分はあの時、彼がずるいと言った。
 だが今になって思う。ずるいのは自分だ。

 意識し出したのは体育祭だったろうか。あの時彼は、明らかに自分以外の何かを背負っていた。
 それとも、楠ノ瀬麻紀のシュガークラフトを見に行った時だろうか。何故あの時、自分は「賭けをしよう」などと言ったのか自分でもわからない。きっと、無意識に彼の心を揺さぶりたかったのだ。

 最近彼は、リタとの距離が近くなった。
 
 当然だ。彼らは連なのだから。でも頭では納得しても心では納得できていない。
 リタはとても一途だ。有為は、リタが彼を利用していると怒ったことがあるがそれは違う。リタは彼を心から信じているだけだ。そしてその思いがあれば、いくら鈍感な彼とはいえ伝わらないわけがないと思う。
 
 彼がリタの為に祈ることは判っていた。なのに自分は愚かにも何かを期待していたのだ。
 ずるいのは、今日を指折り数えて待っていた自分の方だ。
 春分が過ぎれば彼らの連も事実上終わりだから、と―― 

「誰かいないのか。セシルはどこだ!」
 朝靄を切り裂く少女の激しい声に、有理は一気に現実へと引き戻された。急いで上階のリタたちの寝室へと向かう。階段の登り口でセシルと出会うとそのまま二人で階段を駆け上がる。果たしてリタたちの寝室の外には、毛布で胸を覆った赤い髪の少女の姿があった。

(リタちゃん?)

 それは確かにリタだったが、瞳の色が異なる気がした。
「リタ様、どうしました!」
 問いかけるセシルは慌てているようでその実、諦めに似た翳が差している。有理の違和感はさらに強まった。

「リタちゃんどうしたの、徹君は?」
 赤い髪の少女は有理を完全に黙殺した。
「セシル、部屋に見知らぬ東洋人が潜り込んでいる。すぐに警察を呼べ」
 弾かれたように有理が部屋の中に飛び込む。リタの寝ていたと思われるベッドでは徹が規則正しい寝息を立てていた。有理は急いでその肩を揺さぶる。

「徹君、起きて。リタちゃんがおかしくなっちゃったの」
 だが徹は優しげな表情のままで起きようとしない。糸の切れた操り人形のようにぐらぐらと揺れるだけである。何か異変が起きたのは明らかだった。
 有理は世界が音を立てて崩れていくのを感じた。

「徹君、徹君」
 有理は必死に呼びかける。
 こんなはずではなかった。
 自分と徹との賭けはこんな形で終わるはずではなかった。
「ねえ、起きてよ徹君」
(お願い、これは夢でしょ?)
「ねえ、徹君ってば!」

 セシルが黙って有理を隣室へと誘った。
 三月二十一日の朝のことであった。

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お前は変わっていないが私は違うぞ (プリムラ9)

2009年01月21日 00:23

 鳴神菖蒲は、桐嶋の言葉に頷くと鈴を頭上に掲げた。
 今回、余りに自分の予想通りに事が運んだのが怖いほどであった。凶獣が高宮武を憑り代にしたこと、今夜この場に現れたこと。全てが計算通りと言えた。後は藤原徹とリタより先に凶獣を始末すれば、全てが終わるはずであった。

 どこからともなく集まってきて頭上に舞う烏の群れは、今やどれだけの数なのか見当も付かない。耳を塞ぎたくなるほどの鳴き声で鈴の音を圧倒しようとする。
 目の前の「高宮だった何か」は既に人ではなかったが、菖蒲は怯まない。これこそ自分が五年間待ち望んでいた光景だった。

 るるんしゃんしうんんしゃあん
 るるるんしゃるるんん

「……この五年、お前は変わっていないが私は違うぞ」
 宝玉の管理者となって五年、この化け物のことを忘れたことはなかった。
 菖蒲は手にした鈴で再び複雑な文様を描く。血の滲むような修行に耐え、鵺を調伏したと記録に残る古詠歌を数年がかりで自分のものにしたのも、必ずや来るこの日のためであった。

 足の裏から順に体内を螺旋状に巡らせた気を、ゆっくりと頭上まで運ぶ。
「おとなしく――」
 そこで息を止めた。烏の鳴き声が脳裏から消え去り、頭の芯がしんと静まり返る。

「お前の世界に戻れ!」
 一気に左手を一文字に切り下ろした。
 直後、左腕に血管が沸騰するかのような痛みが走り抜ける。そのまま痛みが音にならない衝撃となって、高宮へと奔った。

 ごぐおうおううるう

 高宮は絶叫とともに弾き飛ばされた。
 空中で奇妙な角度に胴体を捩じられたまま肩から地面に打ち付けられる。
 高宮の雄叫びに呼応するかのように上空の烏達は一層激しく鳴き声を上げ、黒い羽根が穢れた雪片のように次々と地面に舞い落ちた。
 
 菖蒲は、額に玉の汗を浮かべながら一歩、二歩と近付いた。
 高宮は、見えない投網にかかった猛獣のようにそのまま動けず両手両膝を地面について苦悶の表情を浮かべている。

(凄い……)
 菖蒲は初めて用いた技の威力のほどに、我ながら驚嘆した。だが半面、その精神の消耗の度合いも尋常ではなかった。二撃、三撃と続けて放てるような技ではなかった。

 早く終わらせなければ。
 その思いが菖蒲をつき動かす。

 菖蒲は、一歩踏み出せば高宮の鼻先を蹴り上げられる位置に立った。高宮は革のジャケットを着た背中を丸めて首だけを向けると、がちがちと口を鳴らした。
 その顔は眼球が白目に裏返り、緋色の泡が口の端に幾つも浮かんでいる。股間はぐっしょりと濡れ、穿いているジーンズからは湯気が立っていた。
 常人であればとても正視できる光景ではなかった。だが、菖蒲は目を逸らさない。

「我が流派の調べ、存分に味わえたか」
 返事の代わりに高宮の耳から、鮮血が一筋流れ落ちた。鈴を持った左手をもう一度頭上に掲げる。
「凶獣よ――」
 その瞬間、高宮が突然唸り声を上げた。

(なっ……)
ぞくり、悪寒が背中を駆け抜ける。

 全身の力を振り絞って鈴の呪縛を解いたのか、それとも全ては菖蒲をおびき寄せるための策略だったのか。百八十五センチを超える長身から、両腕を人ならぬ速度で伸ばす。自分より頭一つ小さい菖蒲を喰らわんとするがごとく、その口を近づける。
 菖蒲の瞳が、かっと見開かれた。

「凶獣よ、逝ねえ!」
裂帛の気合と凶獣の雄叫びとが響きわたった。

男気出しすぎかな (プリムラ8)

2009年01月18日 23:07

 その頃、参宮学園の武道場の裏手で桐嶋和人は、寒さに震えながら杉山想平と何かを待っていた。
 
 杉山からの電話は、桐嶋の理解を超えるものであった。
「春分の夜、武道場の裏手の石碑で何かが起こるはずなんです」
 一体、誰が来て何をするのか。当然のことながらそう聞き返した桐嶋に対する杉山の答は、あっけなかった。
「僕にもわかりません」
 瓜谷がいてくれれば。その思いが桐嶋の脳裏をかすめたが直ぐに首を振った。危険であるならなおのこと、周囲を不用意に巻き込むべきでなかった――そう自分に言い聞かせながら無意識に拳を握り締めた。

(俺が藤原の盾になるんだ)

 無意識に武者震いしたところで桐嶋は強い尿意を催した。武道場の中の便所に入ろうとしたが、当然のごとく鍵が掛っている。桐嶋は杉山に一言断ると林の奥に入って懐中電灯を消し、その場で用を足した。

「す、杉山あ、それにしても、今夜は冷えるよなあ」
 暗がりの中に一人居ることが心細く、必要以上に大声を張り上げる。途端に鼻がむずがゆくなり続けざまにくしゃみをした。
「か、風邪ひいちまったかなあ」
 意識して明るい声を上げたが、後ろからの返事はない。用を足し終えた桐嶋がもう一度身体をぶるっと震わせて、もといた場所へと戻ると――

「偶然だな、桐嶋」
 高宮武が武道場を背にして立っていた。

 高宮は黒革のライダー・ジャケットに身を包み、手には銀色のヘルメットを持っていた。後ろには車椅子に身を沈めた杉山の姿がある。どんな技を使ったのか、杉山は無傷で眠り込んでいるようであった。
 
 入学以来何度も桐嶋のことを嬲ったその声が、夜の林で妙に優しく響く。
「まさか俺を待ってた――なんてことはないよな」
 その言葉に、怖れと怒りとが蘇る。
 両の手には武器が無い。万一に備えて家から金属バットを持ってきていたが、小便に行く際に杉山に預けてしまっていた。

(こういう運の悪さも、俺らしいのかな)

 桐嶋は尻の穴に力をいれると、精一杯胸を張った。
「お、俺が誰を待ってたか、教えてやろうか」
 高宮の目が光る。爬虫類が獲物を見定める冷酷な視線だったが、桐嶋は気付かない振りをすると、
「も、もっと、近くに来いよ」
 手招きをした。高宮が応じて二、三歩近づいた瞬間だった。

「高宮ぁ!」
 桐嶋は懐中電灯を高宮に投げつけ、その腹を目掛けて頭から突っ込んでいった。自分でも何をしているのか理解できないまま、相手が醸し出す禍々しさに身体が勝手に反応してしまった、そんな動きであった。
 だが高宮は落ち着いて左手で懐中電灯を叩き落とすと、桐嶋の脇腹に蹴りを決める。
 桐嶋は堪らず膝をついた。

「無駄だって」
 高宮が足元の懐中電灯を拾うと、右足で軽く払うように桐嶋の横面を蹴った。
「うげっ……っく」
 悲鳴を途中で飲み込み、鼻から血を流しながら桐嶋が立ち上がろうとする。その小柄な身体を震わせながらも、眼だけは高宮から逸らさない。

 高宮が唇を舐めた。
 その口が大きく裂けた。もはや高宮には嘗ての面影は微塵も無く、暴力が人の形をした容器に入っているだけだった。
 
(男気出しすぎかな、俺。もしかしてもう駄目かな)

 桐嶋の胸中には諦めに似た感情が去来したが、不思議と後悔はなかった。
「お前、死んでみるか?」
 高宮が右手の親指で唇を弾くと、止めの一撃を与えようと桐嶋に近付き――
 不意にその足を止めた。
 妖精が羽根を震わす澄んだ高音が、何処からとも無く響いてきた。

 音は風に乗り、闇に溶けていく。
 だが、その音色は聞く者の脳裏にこびりついた。
 桐嶋は口の周りを血で赤く染めながら、自分を仕留めようとしている男の背後に目を凝らす。
 
 るるんしゃうんしゃるん

 再び音が響き、闇に溶ける。
 桐嶋は何かを確認して、満足げに高宮の背中を指差した。
 そこには黒いブーツを履いた若い小柄な女の姿があった。

「き、来てくれるんじゃな、なんて思ってました」
 歯が折れているのか、息が漏れてうまくしゃべれなかった。
 小柄な女は茫洋とした表情を浮かべながら、滑るように歩いてくる。
 巫女を想像させる白い肌と後ろで束ねた長い黒髪が、この非現実的な光景に相応しかった。灰色のダブルのコートに身を包んだ女の左手には、幾つもの鈴が握られている。

 女の唇が小さく動いた。
「因果に逆らう獣よ」
 謡を低く口ずさむようだった。その吐く息が白い。
 高宮は口を大きく開けて女を威嚇した。口の中に牙が見えた気がして、桐嶋の全身に悪寒が走る。
 ブーツを履いた巫女が鈴を頭上に掲げると、何処からとも無く疾風が吹いた。

 るるんしゃうんしゃるん
 るうんしるんしゃんるうん
 
 妖精の羽音が響く。
「鵺を調伏した調べだ」
 女は、鈴を持った左手で目の前の空間に文字を書く。
 高宮は両耳を押さえて雄叫びを上げた。桐嶋はこれこそ、自分が待っていた「何か」だと確信した。

 安堵の表情を浮かべて桐嶋は崩れ落ちた。

だが、夢の如し――だ (プリムラ7)

2009年01月17日 00:59

 徹は夢の中で天蓋と呼ばれていた。


 天蓋にこの屋敷に来る前の記憶は無い。
 気付いた時はここにいた。
 まだ歯も生え揃わぬうちから、葛原貞義の影として寄り添うことを運命とされた。
 
 自分の学ぶ技は何のためか、家長の貞義が自分を陰でどう呼ぶか。
 天蓋が知らないわけではない。
 
 それでも構わなかった。
 自分は道具だ。天蓋の数少ない信念である。
 自分は貞義の道具である――それで構わなかった。
 
 あの年下の少女と言葉を交わすまでは。

   * * *

 木蘭と金鳳花の咲く道を歩く。
 一面に広がる黄色の五弁が心を和ませる。
 天蓋にとって一年で一番幸せな季節だった。
 
 さっきから木蘭は、兄の貞義の仕打ちに腹を立てている。
 天蓋を無能扱いしたというのだ。
 だが当の天蓋は全く腹が立たなかった。
 あれほど怜悧な貞義が、道具の自分をそう思わない方がおかしいと納得しているからだ。
 
 無論、天蓋の頭の中に怜悧などという言葉はない。
 貞義殿は間抜けな己と違う――そう言っただけである。
 
 天蓋は知っている。
 その宿命故に鬼娘と避けられた木蘭が、心の内に誰よりも聖なるものを持つことを。
 立夏を過ぎ、爽やかな風が木蘭の髪をなびかせる。
 
 天蓋は目を細めた。
 ずっとこの季節が続けばよいのにと思う。
 ずっとこのままでいられればよいのに。

 ずっと木蘭の傍にいられればよいのに。

   * * *

 月を見に行こう。

 誘ったのは木蘭だった。
 天蓋も既にその理由を承知している。
 黙って頷き、木蘭の後ろを歩いた。
 空気の澄んだ夜だった。
 月影が木蘭の銀髪を一層輝かす。

 自分の一族は長じると髪が銀色に変わるらしい、そんな台詞を淡々と話すのを聞いた。
 今年の春、木蘭の髪は見事な銀髪に変じた。
 人々は鬼娘が本性を現したと噂しあった。

 だが、天蓋には本性とやらが何をさすのか全くわからない。
 木蘭の身体が、微かに女性らしい丸みを帯びるのを感じたのみである。
 醜悪な排斥感情が人間の本性ならば、他の者こそ正しく本性を現したといえるだろう。

 二人は黙って夜道を歩く。
 桜の若木の下、並んで空を見上げると満月が二人を照らしていた。
 春の夜の朧月夜にしくものぞなき。
 古の人はそういってこの季節の月を愛でたと、木蘭は教えてくれた。

 木蘭はものをよく知っている。
 いや、知識だけでない。
 もはや葛原で木蘭と互角に打ち合えるのは、天蓋のみでないだろうか。
 そして貴賤の隔てなく接する、清らかな心の在り様。
 全てが貞義殿より上――そう言い掛けて、何度その言葉を飲み込んだ事だろう。

「それにしても、何とまあ綺麗な月か」
 木蘭が感嘆の声を漏らす。
 よい夜だった。
 誓いを立てるのに、またとない夜だった。

「我ら、天の理を知り地の則に服し――」
 木蘭が低く謡うように言霊を風に乗せる。
 木蘭が宝玉に左手を置く。
 その上に、天蓋が自分の左手を重ねた。

「我らは宝玉の主にして僕。宝玉は常に我らと共にあり、我らは生涯を宝玉に捧ぐ」
 木蘭が言い終わると同時に、一陣の風が桜の花びらを舞い上げた。
 木蘭は莞爾として微笑むと、続けた。

「絢爛の中に虚無が潜む。見事な美しさだ」
 天蓋が付け加えた。
「木蘭のように難しくは言えぬ。だが、夢の如し――だ」
「夢でもよい。我らが夢から覚めても宝玉が覚えている」

 春の夜風が再び花びらを舞い上げた。

   * * *
 
 木蘭が自分を見た。
 こんな瞳で見つめられたことは無かった。

「その命、私に預けてくれ」
 どれ程の思いがその一言に込められているのか。
 どう答えたらよいのか。

 天蓋は脳味噌を絞って考え、笑い飛ばすことにした。
 口を開けて大声で笑った。
 腹を抱え身を捩った。
 睨みつける木蘭を気にせず言い放つ。
「己の命を木蘭殿が使うのに、何の遠慮がいるものか」

 木蘭はその言葉にまた憤慨する。
「木蘭殿などと、何を言う。我らにそのような主従の関係など――」

 ああ、木蘭は変わっていない。

 天蓋は金鳳花の道を思い出す。
 木蘭はあの頃と変わらない。
 己も、何とか変わらずにここまで来れた。

 天蓋は声を出して笑うのを止め、代わりに木蘭に語りかける。
 力を合わせ助け合うのが我らの誓い。
 そう言いたかっただけなのだと。

   * * *

 天蓋は左足首が折れていた。
 せっかくの月は雲に隠れてしまっている。
 風が、風下の天蓋に獣臭と血の匂いを運ぶ。

 傍らの木蘭だけは。
 その一念で身を呈して必死に守ってきた。

 だが、その木蘭も凶獣に傷をつけられること既に数度。
 木蘭の顔は土気色に変わっている。
 天蓋は我が身を顧みず、ただ傍らの銀髪の少女を案じる。
 
 せめて、少女が詠唱を終えるだけの時間が稼げれば。
 そう念じながら長鎖を頭上で旋回させた。
 長さ一丈を超える純銀の鎖である。
 天蓋の祖父はこの鎖で人狼を封じ込んだと伝えられている。

 左足首が地面に擦れる度に歯を食いしばる。
 裂帛の気合と共に振り出した銀の鎖が、美しい残像を描いて伸びた。
 二度、三度と凶獣の胴に巻きつく。

「木蘭」
 天蓋は思わず声が震えた。
 木蘭が頷くと詠唱を始めた。
 その歯茎から血が流れ始めていた。
 天蓋の両の目からも血の雫が垂れる。

 木蘭が詠唱を終えた瞬間だった。
 宝玉が爆発したかのように閃光を発した。

 凶獣が光に包まれる。
 聴覚では感知できぬ高音が草木を震わせた。


 徹は、無意識の内にこの夢が終わりに近づいていることを感じていた。
 何かを願うならば今しかない、そう確信する。
(宝玉よ、リタの弟を助けてくれ)
 夢の中の宝玉が発する光の奔流に包まれながら、全身全霊をかけて祈った。
 
 自分が光の中に溶けていく気がした。

私を忘れないでくれ (プリムラ6)

2009年01月15日 00:55

 三十分後、スウェットの上下に着替えた徹は寝室をノックした。
 ドアを開けた少女の姿に徹は慌てて目を逸らす。もう三週間も隣のベッドで休んでいるが、今だに正視できなかった。
 寝室の薄明かりに浮かぶほっそりしたシルクのパジャマ姿は、名工の手による精妙なガラス細工を思わせた。

「徹、いよいよだな」
「ああ。エドワードが元気になるように、僕も心から祈る」
 徹の返事にリタの青い瞳が揺れた。
「……本当にいいのか?」
 徹は大きく頷いた。リタが日本に来たのも徹と組んだのも全ては今日の為に――全てはエドワードを救う為だけに――あったことを知っている。リタは徹をじっと見詰めていたが、小さく何かをつぶやくと自分のベッドに腰を下ろした。

「わかった。ところで徹、今日は先に寝てくれないか」
 いつもにも増して真剣な表情だった。眠る直前まで一人で瞑想でもするのだろうか。徹は理由を訊かず自分のベッドに潜り込むことにした。
 首元まで一気に毛布を引っ張り上げると、反対側を向いて目を閉じる。
 リタが立ったまま照明を消した。

 間もなく徹のベッドに近づく衣擦れの音が聞こえてきた。それっきり動く気配もなく部屋は静まり返っている。

 数分が過ぎただろうか。徹がふと薄目を開けるとパジャマ姿のリタが、寝ている徹のベッドの前に思い詰めた表情で身動ぎもせず立っていた。慌てて再び瞳を閉じると、再び近付く気配とともに少女の髪が自分の頬をくすぐるのを感じた。

 徹が緊張と混乱に身を固くしていると、
「……長いようで短かったな」
 その台詞とともに同じベッドの中に静かにリタが滑り込んでくる。そのまま頭を徹の胸に乗せてきた。自分の身体に置かれた少女の体温に、思わず声を上げてしまいそうになる。
 腰がリタの身体に当たらないようにずらそうとしたが、体重を預けられてうまくいかなかった。

(ああもう、どうにでもなれ)
 そう思った瞬間、リタがもう一度囁いた。
「私を忘れないでくれ――」
 掠れた低い声が耳朶を打つ。そのまま嗚咽を漏らすように少女が身体を震わせた。パジャマ越しに触れあう徹に、リタの痛みにも似た思いが沁み渡っていく。

(リタ……何故泣いて)
 運命の夜を迎えてなお、自分は何か重要なことを見落としているのではないか。
 捉えどころのない不安感に苛まれながら、徹は少女の頭に手を添えるのが精一杯だった。
 赤い髪の少女も、もはや動こうとしない。
 
 そして、いつしか二人の寝息が重なった。

第四章 プリムラ(後編)に進む

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これは徹には秘密だ (プリムラ5)

2009年01月12日 23:44

 春分の夕方、リタの家に荻原有理と有為、楠ノ瀬麻紀が訪ねて来た。
「寒い寒い。今夜は冷え込むって言ってたけど、大当たり」
 デパートの食料品売り場の袋を抱えた楠ノ瀬麻紀が震えながら入ってくる。荻原有為が白いコートを脱ぎながら、寒い、一言そう口にした。

 雪の精のような愛くるしい格好に――雪の精がミニスカートを穿いているかは別として――似合わぬ不貞腐れた表情で、ケーキの箱を抱えている。続いて有理がフェイク・ファーの付いたダウンジャケットを脱ぎながら、大きなスポーツバッグを足元に置いた。そのまま少女達は連れ立って廊下の奥へと進むと、食卓に並んだセシルの手料理の数々に歓声を上げた。
 一頻り騒いだ後、頬を紅潮させた一同が食卓につく頃には午後七時を回っていた。

「今日は豪華だよね」
 目の前に座った楠ノ瀬麻紀の言葉に、徹は同意する。
「うん、セシルさんは本当に料理が上手だ」
 有為が溜息をつく。
「違うって。これだけ美女が揃って凄い眺めだよね、って意味なの」
 栗色の髪の少女の呆れた口調に楠ノ瀬が苦笑した。
「有為ちゃんこそ読み過ぎ。でも、確かに徹ちゃん大人気だね」

 徹の左右には荻原有為と楠ノ瀬が並び、前には有理とリタが座っている。
 そう言えば桐嶋や杉山はどこにいったのだろうか。少女達を眺めながら、徹はふと考える。
「徹ちゃん、表情に出てる」
 脇腹を楠ノ瀬が肘で突付いた。有為がもう一度溜息をついて見せた後、表情を戻した。
「桐嶋先輩たちから伝言」
 二人で何を企んでいるんだか――有為の口調には、自分が蚊帳の外に置かれていることを不満がる響きがあった。
「俺達も援護射撃するから、頑張れって」
 
 その言葉に一同が黙り込み、今晩訪れる何かに思いを巡らす。
 運命の時は刻々と近付いていた。
「頂いたケーキを切ってきました」
 絶妙のタイミングでセシルが現れて再び食卓は歓声に包まれたが、それも長くは続かなかった。

 楠ノ瀬麻紀は夕食が終わると家に帰ったが、有理と有為はリタの家に泊ることになった。
 今日は泊まるつもりで来た、そう宣言した姉妹はセシルに向かって頭を下げた。思わぬ展開にリタと一悶着があったものの、「何があっても朝までリタたちの寝室に入らない」ことを条件に、姉妹の粘り勝ちとなった。

 そして午後十時を過ぎ、有理と有為は風呂上りの濡れた髪のまま黙々とストレッチをしている。徹は離れてテレビのニュースを眺めていた。
 一方、リタはテーブルの片隅で日記を付けていた。幼い頃からの習慣で歯を磨くようなものだ。徹は、最初に泊った夜にリタがそんな説明をしていたのを思い出す。

 リタは日記を書き終わると紅茶を片手に高窓から夜空を見上げていたが、おもむろに口を開いた。
「セシル、話がある。来てくれるか」
 リタはセシルの返事を待たず、自分の寝室に向かって歩いていった。

   * * * * * * * *

 セシルが部屋に入ると、どこから話すべきか――そう呟いて少女がセシルに向き直った。 
「セシル、宝玉に関する母の説明を覚えているか」
 リタの言葉にセシルが頷く。
 春分の夜に男女が祈りを捧げると、あるものを用いて宝玉が願いを叶える。それがリタたちが日本に来る前に聞いた内容だった。だが、宝玉を起動させるための「あるもの」が何なのかは、不明なままだった。

「宝玉が何をエネルギーに変えているのか、幾夜も夢を見るに及んでようやく判った」
 セシルが思わず唾を飲み込む。リタはゆっくり言葉を区切った。
「人の心を喰らって、力に変えるのだ――」
 地の底から響くような声だった。意味が判らず見つめ返すセシルに対し、リタは言い換えた。
「宝玉は、願う者の記憶を糧にして願いを叶えるらしい」

 聞いたセシルの顔からが血の気が引いた。
「と、いうことは……」
「本人は、何を願ったのか忘れてしまうらしい」
 一瞬、ターコイズ・ブルーの瞳に皮肉な陰りが混じった。

(母上は、ここまで知って私を送り出したのだろうか)

 が、再び表情を引き締める。

「正確には、本人の精神力や願う内容によって、失う記憶の量も異なるようだ。我が一族の能力を持ってすれば、おそらく数年分で済むであろう」 
 そこまで話したところで少女の顔が曇った。
「だが、徹は我らとは異なる。しかも徹は、私のために奇跡を願おうとしている」

 セシルは次にリタが何を言い出すか予想がついた。それはセシルには受け入れがたい内容であった。
「徹は必ずエドワードの無事を願ってくれる。だから私は徹の記憶が失われないよう宝玉に願う。無論、これは徹には秘密だ」
 リタは、セシルの一縷の希望を打ち砕くように凛とした表情で宣言した。
 それではリタ様の記憶は――セシルはその言葉を飲み込む。いかなる時も有能な秘書然とした振舞いを崩さぬセシルだったが、理知的な面立ちの裏側では激しい葛藤が渦を巻いていた。

 セシルは、主人の選択が最適解であることを直感的に理解していた。もし、記憶が失われる事実を徹に教えれば、徹は当然のようにリタの記憶が失われないよう祈るであろう。だが、この誇り高き少女はそれを知ってなお自分の弟の無事を願うことなど自らに許すはずがない。それこそリタ=グレンゴールドの死を意味する。

 話は済んだとばかりに、リタはベッドから立ち上がった。
「では、徹を呼んできてくれるか」

でも届かないんだよな (プリムラ4)

2009年01月11日 00:11

 放課後、徹は自分を呼ぶ声に振り返った。
 教室には荻原有理と、いつ来たのか有為も立っている。後ろには楠ノ瀬麻紀と桐嶋和人、そして杉山想平までいた。
「何だい、みんな揃って」
「あんたこそ毎晩リタの家で何やってんのよ」
 有為は肩を怒らせ両足を開いて立っていた。形のよい眉が釣り上がっている。
 だが、毎晩澱んだ悪夢に悩まされている徹にとっては、少女の怒りは清冽なものに感じられた。

「どうしてそんなこと知っているのさ」
 驚く徹に、楠ノ瀬があきれた様子で額に指を当てた。
「……徹ちゃん、毎日同伴出勤して今更の反応だと思うけど」
 徹が口を開きかけると、それを制するように有為が噛み付く。
「学園中の噂なんだから」
「じ、事情があることくらいわかってる。でも、ど、どうしてそんなに衰弱するんだよ」
 桐嶋が垂れ下がった太い眉を寄せる。

「あんた、まさか……」
 不潔なものを見る有為の目つきに、徹は慌てて全身で否定した。
「ま、まさかって、な、何がだよ」
「うるさい。誤魔化さないで答えなさいよ」
 栗色の髪の少女は既に戦闘態勢に入ってしまっている。自分たちが周囲の注目を集めていることなどお構いなしだった。なだめるように楠ノ瀬が有為のブレザーの肩に手を置いた。

「有為ちゃんは走りすぎ。でも、徹ちゃんも勘違いしてない? これは学園のイベントに過ぎないんだから」
 軽くウェーブの掛かった茶色い髪の下、いつもならば小悪魔の表情を浮かべるはずの顔は真剣だった。
 こんな楠ノ瀬は初めてだった。
「事情は想像つかなくはないけど、命なんて懸けちゃ駄目だよ」
「楠ノ瀬……」

 楠ノ瀬は、その呼び方を訂正することなく続けた。
「宝玉がどれほど大事か知らないけど、そんなの無くても世界は変わらない。でも徹ちゃんに何かあったら、ここにいるみんなの世界は変わっちゃうんだよ」
 徹を除く全員が頷く。
「でも」
 徹は反射的に言葉を挟んだ。それを聞いた有為が再び徹を遮ろうとしたが、

「有為、黙って」
 それまでじっと聞いていた有理が妹を一喝した。有為が気圧されて押し黙る。
「徹君、あたしたち徹君を信じていいんでしょ」
 喧嘩腰の妹とは対照的に有理の瞳は涼やかだった。頷いた徹に、満足げに大きな瞳を細める。見る者が手を伸ばしたくなる艶やかな黒髪からは、金木犀に似た匂いがした。
「やるからには悔いが残らないようにね」

 徹は衝撃を受けた。
 リタの台詞と一緒だ――
(徹、お互い悔いの無い一年を過ごそう)
 単なる偶然とは片付けられなかった。さらりと放たれた一言だったが、紛れもなく強い信頼の証だった。
 
 徹の衝撃をよそに、有理は用事が済んだとばかりに晴れ晴れとした表情で赤いスポーツバッグを抱え、教室を出て行った。
 残された者たちはしばらくお互い顔を見合わせていたが、
「ま、有理ちゃんにああ言われたらしょうがないか。行こう」
 そう言って楠ノ瀬が、頷く杉山の車椅子を押して去っていく。

 勢いを削がれた格好の有為と桐嶋は、何とも収まりがつかないようであったが、
「馬鹿!」
 捨て台詞と共に有為も走って行く。制服の赤いチェック柄のスカートが勢いよく翻った。
 一人残された桐嶋は何か言いたげにしていたが、
「ふ、藤原、たまには一緒に帰るか」
 諦めた口調で足元のカバンを抱えた。

   * * * * * * * *
   
 春分の二日前、杉山想平は頭を抱えて唸りながら自宅で机に向かっていた。
 参宮学園に入学して約一年、調べた限り今年の春分の夜に何かが起こるのは間違いなかった。しかもそれは危険な「何か」だった。
 先日見た徹の姿が脳裏に蘇る。その頬はこけ、憔悴しきっていた。自分が答えを見つけないと徹の命にかかわる気さえした。

「ああ、糞っ」
 背もたれに思い切り体重を預けると、両手で伸びをする。机の上に飾った写真立てに視線を移すと、そこには体育祭の後で有理と自分が笑う姿があった。 

(……それにしても、有理さんは凄いな)
 杉山は感想とも愚痴ともつかぬ独り言を漏らした。
 あの状態の徹を見たら普通は止めるだろう。実際、有為は切れかけていた。だが有理は違った。
 杉山は有理の覚悟を決めた微笑を思い出し、そして心の片隅が小さく疼いた。

 もうすぐ有理と組んだ連も終わる。

 美人でスポーツ万能、しかも裏表ない性格。非の打ちどころのない少女であることは、誰もが同意するところだった。
(でも、一番可愛いところはそこじゃないんだよな)
 ふとした拍子に現れる、茶目っけたっぷりの仕草。
(杉山君はロマンチックな場所だって言うけど、ここは女の人の幽霊が出るって有名なんだよ)
 含み笑いとともに――自分では気付いていないだろうが――腰の後ろで手を組んで相手の顔を覗き込む癖。流れ落ちる艶やかな黒髪。

「手が届きそうで、でも届かないんだよな」
 無意識に声に出してしまったことに気づき、急いで杉山は頭を振った。
 今は宝玉に集中すべき時だ、有理さんのことなんかを考える時間じゃない。
 再び杉山は頭を整理するために、書き散らしていたノートに向かおうとして――

(……女の幽霊だと?)
 杉山は天啓に打たれたかのように絶句し、
 そして有理に感謝した。
 後はやるべきことは明らかだった。杉山は震える手で電話をかける。相手はワン・コールで直ぐに出た。
「お願いします、藤原先輩の親友と見込んでの頼みなんです」

 相手の返事は、訊く前からわかっていた。

十一月十八日だ (プリムラ3)

2009年01月08日 23:17

 どこからか聞こえてくる
 部屋の外ではなくもっと近く
 リタのベッドではなくもっと近く
 どこからか聞こえてくる
 耳元ではなくもっと近く
 ふと気付くと目の前に黒い闇がある
 これがリタの言っていた「何か」なのか
 お前は何者だ――影に話しかける
 だが、獣の唸り声が言葉をかき消す
 そして不意に黒い闇が消える
  
 どこからか聞こえてくる
 部屋の外ではなくもっと近く
 耳元ではなくもっと近く
 凛とした少女の唱句
 抜き身の刀にも似たその姿
 お前は何者だ――影に話しかける
 銀髪の少女は確かに私が見えている
 そして答えることなく私の前から消える

   * * * * * * * *

 目を覚ますと、薄明かりの中でリタがベッドに身を起こしていた。枕元の時計は午前六時を指していた。
「何を見た?」
 リタが早口で問う。
「け……獣の唸り声と黒い影を見た」
 答える徹にリタは矢継ぎ早に質問を続ける。
「他には?」
「いや、影が形を取る前に夢から醒めた」

 リタは興奮を隠し切れないようだった。
「いいぞ徹。私は母の時と同様、木蘭と名乗る女の夢を見た。徹と私が異なる夢を見ているのであれば我々にはチャンスがあるぞ」
 リタは勢い込んで徹の両手を取ったが、その途端に手を引っ込めた。
 リタは目を凝らしベッドに身を起こす徹の姿を見ていた。その表情から興奮が消え去り、代わって青白い顔に暗い影が差していく。

「……徹、着替えたほうがいい」
 言われて初めて、身体がぐっしょりと冷たい汗に濡れていることに気付いた。
「心配しないでいいよ、夢を見ただけだから」
 だがそう言いながら徹は、夢で聞いた獣の声が耳から離れなかった。
 
 その夜以降、徹はうなされるようになった。

 起きている間も精気を取られているようで全身がだるい。鳴神流の稽古からリタの家に戻る頃には、疲労困憊して動けないほどであった。稽古を休むことも考えたが、非日常に半身を置くからこそ、起きている間は確かな手ごたえが欲しかった。
 
(あやちゃんも当時やつれていたけど、あれはもしかして――)

 夜を重ねるにつれ、夢の中の影は明確な輪郭を取り始めていた。影の方も徹のことを認識しているようで、唸り声に凶暴さが増し始めた。
 リタの家に泊まり込んで、二週間が過ぎようとしていた。

   * * * * * * * *
 
「徹、もっと朝食をしっかり取った方がいい」

 暦の上では三月も中旬に差し掛かっていたが、春の兆しは一向に感じられない。ぐずついた天気が幾日も続いていた。
 その日の朝、徹は明らかに消耗していた。全身が鉛のように重い。リタも体調が悪いようだが徹の方がその傾向が顕著だった。

「そんなにひどい顔をしているかい?」
 二人で食べるには広すぎるダイニング・テーブルに向かい合って座りながら徹は、努めてさり気なく訊いた。
「春分まであと一週間だな」
 リタは徹の質問に答えず紅茶を口にすると、外を眺めた。外は相変わらず雲が厚く覆っていたが、庭では寒さを撥ね退けるように黄色やピンクの小さな花々が咲いている。

「あれはプリムラ・ジュリアンだ。決して華やかではないが冬の寒さに凛と咲く」
 冬の寒さに凛と咲く――徹がリタの言葉を口の中で反芻しながら外を眺めていると、空から粉雪がちらつき始めた。
 二人は、傘を差して学校へと向かった。

 リタは入学してからしばらくセシルの運転する車で通っていたが、夏前には徒歩通学するようになっていた。今日もセシルの申し出に首を振ると、リタは白い息を吐きながら歩き出す。
 並ぶでもなく徹はリタの赤い傘の後をついて行った。

 リタが背を向けたまま、話しかけてきた。
「徹を初めて見たのも雪の日だった。あの時は積もっていた」
 徹には、一年前のことが酷く遠い出来事のように感じられる。
「そういえば、転入手続きの日に見たって言ってたね」

「あの時も徹は、緑色のマフラーをしていた」
 徹は、道場の裏手の老木の下で子猫を助けたことを思い出す。あれが全ての始まりだったのだろう。
「これ一本しかもっていないんだ」
 首に巻いた毛糸のマフラーを指で弄りながら答える。

「女の子からプレゼントされたりはしないのか?」
 リタらしくない台詞に、徹は少しだけ頬を緩めた。
「手編みをかい? 最近は流行らないらしいよ」
「そうかもしれないな」

 そこで会話が途切れた。横断歩道に差し掛かり二人並んで信号を待っていると、何の前触れも無くリタが徹の頬に白い手を置いた。
 少女の手は冷たかった。
「徹、後悔していないか」
 嘘を付けば判る――澄んだターコイズ・ブルーの瞳がそう告げている。徹は精一杯の笑顔を作った。

「リタには感謝してる」
 リタが微かに眉を上げる。徹は注意深く言葉を選んだ。
「きっと人には二つのタイプがあるんだ。他人を生かす人間と、他人に生かされて輝く人間と」
 頬に置かれたリタの手をそっと元に戻し、話題を変えた。
「リタは背が伸びたね」

「背?」
 リタが徹の台詞を聞き返すことなど珍しい。
「ああ、背も伸びたし大人っぽくなった。まあ、会った時から十分大人びてたけど」
 最後は苦笑めいてくる。
「十四歳になったしな」
 リタは淡々と答える。ふと徹は思いついたことを口にした。
「そういえばリタの誕生日は、いつなんだ?」
「十一月十八日だ」

 聞いてはみたものの、過ぎ去ってしまった日付を聞く愚かさを後悔し徹は黙り込む。
 信号が変わり、徹とリタは再び歩き始める。
 不意にリタが口を開いた。

「……ミッキーマウスと同じだ」
 リタが赤い傘を翻して徹に振り向く。傘と同じ色の髪が大きく揺れる。リタは少しだけ誇らしげに目を細めると、再び口を開いた。
「十一月十八日はミッキーマウスの誕生日だ」

 その顔は確かに十四歳の少女だった。

誓うよ (プリムラ2)

2009年01月07日 01:29

 その夜、徹はリタの家に泊まった。
 セシルの作った夕食に舌鼓を打ち、リタとカードに興じたが、夜が更けるにつれ二人とも口数が少なくなった。
「夢見の宝玉――」
 リタが低い声で話し始める。
「我が故郷にもその伝説が伝わるネフライトの球体。持ち主に力と幸運をもたらすパワー・ストーンであり、中でも参宮学園に伝わる宝玉は第一級の魔石だ」

 徹はソファーに並んでもたれながら、英語交じりの話に耳を傾ける。床暖房が効いた室内は外の寒さを全く感じさせず、曇った高窓の内側についた水滴だけが季節を思い出させる。部屋の隅では加湿器が微かな音を立てていた。

「我が家系はドルイドとして歴史に名を刻んだ一族の末裔。だが、代々男が短命で、子を残すまでに長じることは無かった」
 リタは不意に話題を変えた。瓜谷の話にも似て前後の脈絡が無いが、リタのこうした話し方には馴れている。一つ一つの意味を問うことなく徹は説明の続きを待った。

「私も母も、人と異なる能力を持って生を受けた。母には人に見えぬものが見え、徹も知っているとおり私は触れることでその在り様を知る。だが一族の能力の代償なのか、母の叔父は十六歳でその生涯を終え、母の兄も二十歳までの命だったという」
 外は風が強いのか、堅牢な造りの洋館にもかかわらず老婆が咽び泣くような音が時折聞こえてくる。

「母は参宮に夢見の宝玉があることを知り、宝玉に願うことで自分の兄を救えないかと考えた」
 リタはそこで手元の紅茶を口にした。現実感の無い話が、一年近く共に過ごした少女から語られている。
 徹は、宇田川の疲れたような声を思い出した。
(今でも、夢を見るんだ)
 リタは喉を潤すと言葉を続けた。

「結論を先に言えば、母をしても叶わぬ望みだった。母達が見たのはどちらも銀髪の女の夢だったが、それだけでは不十分らしかった」
 少女は言葉を紡ぎながら目を薄く閉じている。
「……私には二つ下の弟のエドワードがいる。数か月前に倒れて意識を失ったままだ」

 徹は、十一月に楠ノ瀬のシュガークラフトを見に行った時のことを思い出した。あの時リタは急遽帰国していた。当時リタは多くを語らなかったが、よほどのことがあったのだろうと薄々察してはいた。

「今年は春分と満月が重なる、真の年。何が起こるか私にも母にも想像は出来ないが、宝玉の能力が最も高まることは疑いようの無い事実。だから――」
 口調こそ平静を装っていたが、膝の上の両手は強く握りしめられていた。呑み込んだ言葉に込められた思いが痛いほど伝わってくる。

 弟が昏睡状態であることなど聞く必要は無かった。
 声を掛けられた時から判っていたのだ。この誇り高き少女がどれほどの覚悟で日本に来たのかを。
 徹は、リタに連の申し込みを受けた日のことを思い出し――お互い悔いの無い一年を過ごそう――その言葉の重みを噛み締める。
 あの時強く惹かれたのは、自分の心がリタの覚悟に共鳴したのだ。自分を必要としてくれる者に巡り合って歓喜したのだ。

 徹は、なおも話を続けようとするリタを遮った。
「僕らは連だ。だから――」
 徹は短く告げた。
「誓うよ。全力を尽くそう」

   * * * * * * * *
 
 徹は、春分の夜までリタの家に泊り込むことになった。
 共に宝玉と相対する以上、同じ部屋で寝泊まりすべきだ――リタの提案は相変わらずシンプルであった。両親にどう説明すべきか悩んだが、姉の望が「あたしが適当に説明しとくから」と言って実際それで済んでしまった。これまで優等生だったからな――徹は何とも複雑な気分を抱いた。 

 翌日には客間からリタの寝室にもう一つベッドを運び込んだ。本棚とクロゼットそして木の机と椅子。少女の居室としては殺風景な部類であったが、カーテンだけが野薔薇の模様をあしらった柄で部屋の主の好みを感じさせた。
 
(こんな子が宝玉と対峙できるのだろうか)
 それにしても徹は心配でならなかった。リタがただの少女でないことは十分承知しているが、その姿は嵐に立ち向かう、か細い若木に思えた。
 ベッドに腰掛けたリタは先程から深呼吸を繰り返している。呼吸に合わせてその薄い胸が上下していた。
(私は、触れることでその在り様を知る)
 徹はリタから聞いた言葉を思い出す。

「……今から宝玉に触れるぞ」
 リタの言葉に、徹は目の前に出された右手を取った。宝玉が本当に強い力を持つ魔石であれば自分を媒介として徹にも実感出来るはずだ。それが事前のリタの説明だった。 
リタは息を止めて、空いている左手で宝玉に触れ――

「っつふあっああああ」
 歯を食いしばる少女の唇から高い喘ぎ声が漏れ、全身が感電したかのようにびくりと跳ねる。徹と繋いだ右手が思い切り握り締められる。少女のものとは思えない力に顔を顰めた直後、徹の全身に衝撃波の奔流が襲った。

 肉体的な痛みすら伴う圧倒的な力だった。
徹の腕が総毛立つ。毛細血管から大動脈を通って心臓へ波動が逆流し、直後にその波が身体から消え去っていく。
 リタはといえば首筋が粟立ち、両肩で大きく息をしていた。

「……確かに感じた。確かにこの宝玉には何かがある」
 赤い髪の少女は歯の根が合わないほど震えていた。
 これが宝玉か、これが夢見の宝玉か――独り言を繰り返す。広い額に玉の汗が浮き出ている。 
 宝玉の中に人知を超えた力が存在することは疑いようがなかった。同時に徹は、それが清浄な力ではないことを直感的に感じた。
 果たして春分の夜に何が起こるのか。胸に不安が過る。

「それでは休むとするか」
 リタの口調にも、どこか翳りが感じられた。

第四章 プリムラ(前編)/ 今でも、夢を見るんだ (プリムラ1) 

2009年01月04日 23:49

「天蓋、よい」
 木蘭は凛とした表情で、傍らの男を制した。
「常人の技では幾ら数を頼んでも凶獣は切れぬ。宇田川殿もそう言っていたではないか」
 天蓋の奥歯がぎりりと音を立てた。
「しかし、一人の援軍も無しとは」

 木蘭は真直ぐ前を見据えている。
 四、五間先にわだかまる暗闇が異界の獣の形を取り始める。聞く者の心を狂わす咆哮が響き渡る。
 十代の後半にしか見えぬ銀髪の少女は、この世ならざらぬ光景にも怖じることなく天蓋に話しかけた。

「お前の命、預けてくれるか」
「無論」
 天蓋の間髪入れぬ返事に木蘭は頷いて続けた。
「我が力、天が授けしものなれば何時か天命を知る日が来よう。そして今、倒すべき凶獣が在り、傍らに宝玉が在る。今日がまごうことなきその日その時」
「――承知」

 天蓋は左肩にかけた長鎖を解くと、暗闇に光る紅い眼に対し低く構える。もはや貞義への怒りも自分達を呼び寄せた宇田川の男への恨みも無い。ただ守るべき少女のことだけを考える。
 木蘭は木箱から仄かに光る宝玉を取り出すと、東の夜空を見上げた。
「いずれにせよ、夜明けまでには全て終わっているだろう」

 凶獣の咆哮がもう一度大地を震わせたのが、戦いの合図となった。

   * * * * * * * *
  

 徹とリタが宇田川から呼び出されたのは、三月一日だった。
 二人とも理由は承知している。それぞれの思いを胸に職員室に足を踏み入れると、宇田川はいつも通りマグカップに入ったコーヒーを飲みながら授業の準備をしていた。

「いい表情だ。今年の管理者に相応しい」
 宇田川はコーヒーを飲み干すと立ち上がり、職員室の奥にある理事長室に二人を通した。
 名前こそ理事長室だが普段は無人であり、木製の大きな茶色の執務机とソファー、そして同じく木製のどっしりした書棚が右奥に置いてあるだけであった。正面の壁には壮年男性の大きな白黒写真が額に入れられて飾ってある。

 宇田川は二人を座らせると、書棚の中段に据え付けられた観音開きの扉に手を掛けた。サッカーボールでも入っていそうな古びた木箱を取り出し、外側に何重にも巻かれた細い鎖を丁寧に解き始める。ソファーからは、微かに埃の匂いがした。

「これが如月の宝玉だ」
 宇田川は箱の蓋を開けると、乳児の頭ほどの球体を二人の前に置いた。微かな傷が至るところにあるが文字や紋様の類は刻まれておらず、単に鉱石を球形に加工しただけに見える。
「新年度までの約一カ月間、君たちが宝玉の管理者だ。聞いているかもしれないが――」
 宇田川は一呼吸置いた。
「この宝玉は春分の夜に、夢見の宝玉に変わる」

 夢見の宝玉。杉山の論文にも出てきた言葉にリタが無表情に頷く。
 リタは年末イギリスに里帰りして新学期直前に戻ってきたが、それ以降、物思いに沈んだり、時に苛立った調子で早口になることがあった。念願のナンバーワンが現実となり春分が近付くにつれて、かなりの重圧を感じているように見受けられた。

「春分、即ち彼岸の中日の夜に、宝玉は君たちが自分の主に相応しいか試すだろう。そして宝玉に認められれば願いは叶う――これが言伝えだ」
 徹は、春分についての自分の僅かな知識を思い返す。
(昼と夜の長さが同じで祝日。今年は三月二十日だった。ならば、どうして如月の宝玉というのだろう)
 自分達を見つめる宇田川の胸に何が去来しているのか、表情からは読み取れない。

「春分の夜には何が起こるんだ?」
 質問する赤い髪の少女の声に戸惑いはなかった。
「何かの、夢を、見る」
 君ならば十分に理解していると思うがな――そう続きそうな宇田川の答だった。
「どんな夢かは君たち次第だ。リスクを取りたくないなら、ここに宝玉を置いておくことを薦める」
 口調こそ穏やかだったが中身は警告そのものだった。徹は胃が収縮する感覚に、視線を外して大きく深呼吸をする。頭上に掲げられた白黒写真にふと目を留め――

(宇田川先生?)
 写真は徹が生まれる前のものと思われたが、スーツに身を包んで髪を撫で付けた壮年男性は宇田川によく似ていた。
「参宮の初代理事長――私の祖父だ」
 視線に気付いた宇田川が徹の心中の疑問に答える。
「父も既に他界し、今は私が理事長代行の任についている」
 徹はその瞬間、思いもよらなかった可能性が頭に閃いた。そして、それが真実であった場合に意味するものに慄然とした。

「先生、この学園はまさか、宝玉の管理のために立てられ……」
 徹の言葉にも宇田川の表情は変わらなかった。
「説明は以上だ」
 宇田川は立ち上がった。これで終わりだという明確な意思表示だったが、徹は返事をどうしても聞きたかった。ソファーに腰を下ろしたままスーツ姿の男の顔を見上げる。
 宇田川は、数秒の沈黙の後で再び口を開いた。

「私もかつて宝玉の傍らで夢を見た。それ以来――」
その瞳に微かな後悔と郷愁とが浮かんでいた。
「今でも、夢を見るんだ」
 徹は、宇田川の内面の一端を覗いた気がした。
 二人はこれ以上の回答は得られないことを感じ取ると、軽く一礼をして理事長室を出た。

「夢見の宝玉か」
 廊下を歩くリタが呟く。顔色は普段にも増して青白いのに、瞳は熱に浮かされたように爛々と輝いていた。徹は傍らで、昨日の瓜谷との遣り取りを思い出していた。

 お前、ナンバーワンになって気が抜けたんじゃないか――これが昨日の放課後、武道場の裏手に呼び出してきた瓜谷の第一声だった。制服の濃紺色のブレザーを着てズボンのポケットに手を突っ込み、鼻には皮肉っぽい小皺を寄せている。どう返事をしていいものか悩む徹に対し、瓜谷は暫く周囲の木立を見回していた。

「懐かしいぜ。俺も杉山想平の兄貴に、ここに呼び出されたんだ」
 首をかしげた徹に、瓜谷は眉を非対称に崩して顔を顰める。
「おいおい、杉山の兄貴は二年続けてナンバーワンになった学園のスーパースターだったんだぜ。まあ、言ってみれば俺の師匠筋だ」
 瓜谷は芝居がかった調子で嘆息して見せた。
「その反応から察するに、鳴神先輩から何も聞いてないみたいだな」
 瓜谷が菖蒲と自分の関係を知っていることは徹にとって驚きだった。だが目の前の男にとっては、その気になれば情報を集めることなど造作もなかっただろう。

 虫も殺さぬ顔してあの人も人が悪いぜ、まあ俺から説明すれば済む話だけどな――そう瓜谷は肩を竦めると語り始めたのだった。
 瓜谷によれば、人は宝玉の傍らで特定の夢を見るらしかった。夢の種類は人によって異なるものの日々鮮明になり、春分の日を境にして今度は徐々に薄れていくという。

「宝玉の管理者だからといって必ず夢を見るわけじゃない。宝玉に感応した者だけだ。例えば、鳴神先輩とか俺とかな」
 瓜谷は徹の反応を楽しんでいた。緊張を漲らせる徹を前に口の端を吊り上げた。
「ここまで聞いたら、去年俺が何の夢を見たか聞きたくなるだろう?」
 女でも口説くような声だった。徹は瓜谷の話術に嵌まっていることを自覚していたが、好奇心に抗えなかった。餌を欲しがる仔犬さながらの徹に対し、瓜谷は獰猛な笑みを浮かべた。

 化け物の夢だったぜ「徹、今夜は私の家に来ないか」

 徹はそこまで思い出したところで現実に引き戻された。赤い髪の少女と二人、教室まで辿り着いていた。
 徹はリタの誘いに頷きながら、脳裏ではなお瓜谷の言葉が木霊していた。


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