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序章 運命の輪/ 我が刹那たる命を捧ぐ (運命の輪0)

2008年09月20日 01:04

 木蘭は低く詠唱しながら、宝玉を天蓋の額に近づけていた。

 季節は春、彼岸の中日。
 乳飲み子の頭ほどの大きさの球形の石が、生気の無い天蓋の顔を青白く照らす。むせ返るような血の匂いが、木蘭の見事な銀髪を嬲った。

 父なる無限よ
 母なる永劫よ

「木蘭……もはや宝玉は空だ」 
 天蓋が口を開き、ごぼっと音を立てて赤黒い塊が流れ落ちる。
「死ぬな。天蓋、死んではならぬ」

 我が刹那たる命を捧ぐ
 汝が器を用い

「もういい。ただ己のことを覚えていてくれ」 
 天蓋が、全てを悟りきった表情で微笑む。
 雲から満月が顔を見せ、月影が銀髪の少女と瀕死の男を照らす。
「死ぬな。許さぬぞ」
 天蓋を抱きかかえ、木蘭は祈り続ける。自らも失血で意識が朦朧とする中、全身全霊で祈る。
 
 この男の命を救いたまえ

 天蓋の双眸から急速に光が失われていく。ひび割れた唇が、もう一度だけ動いた。
「木蘭、己のことを覚えていてくれ」
「天蓋、逝くな。死んではなら――」
 
 木蘭の意識は、そこで暗転した。
 
 どこからか野犬の遠吠えが、風に乗って聞こえた。
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魔障を切り放ち給え (運命の輪1)

2008年09月20日 23:55

 その日は朝から雪が舞っていた。

「あと一週間もしないうちに新学期なのにな」
 藤原徹は呟きながら、ハイカットのスニーカーに足を通した。黒いダウンジャケットの襟元に深緑色のマフラーをしまい込む。ぼさぼさの髪を手で強引に整えると、気持ちを奮い立たせるように一気に立ち上がって玄関を出る。

 新しい家から参宮学園高校までは四駅。十三夜駅で電車を降りると、地図を片手に握りしめて歩き始めた。この季節は、雪が降っても決して寒くない。
「春日医院の角を右に曲がって、コンビニの前の横断歩道を左へ――」
 左手でくしゃくしゃの地図を眺めながら学園につく頃には、徹の背中にうっすらと汗が滲んだ。徹が何の特徴もない古びた校門を通り抜けようとした、その時だった。

(魔障・を・切り放ち・給え)
 ぞわり、全身の産毛が一瞬に逆立った。膝下から首筋まで皮膚が粟立つ。
  咄嗟に後ずさった徹は、泥混じりの雪に足元を取られ、強かに尻を打った。痛いと思うより先に、素早く徹は立ち上がり、左右に素早く目を配る。が――

 何もなかった。
 誰もいなかった。

 耳元で囁かれた声の主はどこにもおらず、男だったか女だったかさえも既に思い出せなくなっていた。痛みだけが、ただ残っている。こんな経験は初めてだった。徹は、前方に長く延びる並木道をしばらく眺めていたが、その後は何の異変も起こる気配がない。

 在校生が数名近づいて来るのを見て、徹は気を取り直して職員室に向かった。

   * * * * * * * *

「これで転入手続きはすべて終了だよ、藤原君」
 柔和な笑みを目の奥に湛えた宇田川隆介の言葉に、立っていた徹はふと我に返る。どうやら暖房のきいた職員室で、ぼおっとしてしまったらしい。
 宇田川は自席に座ったまま徹を見上げ、徹を安心させるかのように頷いた。

 年の頃は三十歳前後だろうか。中肉中背の身体を品のいいスーツで包んでいる。
 休み中もスーツで出勤なんて教師の仕事も楽じゃないな。そう思いながら視線を移すと、磨き込まれた茶色い革靴と、同系色の腕時計のバンドが目に入った。 
 机の上には、印刷したばかりのプリントの束が無造作に置かれていた。横のマグカップにはコーヒーが注がれており、その香りが鼻腔をくすぐる。

「新学期は来週の月曜からだ。僕も数学を担当するから、授業で会えると思う。前の学校でトップクラスと聞く実力を、存分に発揮してくれたまえ」
 宇田川の穏やかな声を聞きながら、徹は曖昧に首を振った。
 こんなとき姉のように、畏れ入りますとでも言えると大人なんだろうか。

「もう一つ。新学期が始まると、さっそく「連」を作ってもらうことになる。他の二年生に比べてハンディがあるかもしれないが、あまり気にしないように」
 今度は、自分でも何と言うべきかわからない。仕方が無いですよ、だろうか。

「折角だから、校内を色々見ていくといい」
 宇田川は笑みを湛えたまま徹の顔を眺めていたが、そのうちに、どこか遠い目になった。

「……宇田川先生?」
 宇田川は不思議そうな徹の表情に気付くと、申し訳なさそうに顎を掻く。
「済まない。少し前のことを思い出してね。職業柄、この季節はどうもいけない」
 宇田川が照れ隠しのように冷めかけたコーヒーを啜ると、ワイシャツの袖から高級感のある機械式の腕時計が覗いた。
「昔の人も、さまざまのこと思い出す桜かな――と詠んだくらいだから、日本人なら誰でもかもしれないが」

「あら。宇田川先生、芭蕉ですか」
 横から中年の女教師が、嬉しそうに声を掛けてくる。
 徹は軽く会釈をして、職員室を出た。

あたしは結構競争率高いと思うよ (運命の輪2)

2008年09月24日 00:26

 参宮学園の大きな特徴は、「連」の存在である。
 生徒達は、四月のうちに相手を見つけて連を組む。条件は三点。自分と違う学年から選ぶこと、相手は一人であること、そして異性を選ぶことである。即ち、連とは年齢の異なる男女のペアに他ならない。
 
(そして、全校百八十組の中で最も優れた連が毎年一組選ばれる――か)
 徹は、先ほどの説明を反芻する。ちょっと変わった学校、それが正直な感想だった。

 徹は校舎の外に出ると、校庭の右奥にある柔道場へと足を向けた。先ほどまで練習があったのか、電気がついている。徹は辺りに誰もいないことを確認すると、ダウンジャケットと靴下を脱いで中央まで歩んだ。
 
 目を軽く閉じる。
 暫く深呼吸をした後、目を瞑ったままで、徹は鳴神流の一段を舞い始めた。自分の身体が、周囲と緩やかに溶け合っていくのを実感する。校門での先ほどの不快な感触を洗い流すように、丁寧に、無心に舞い続けた。

 どれほど経ったろうか。

「いいね、それ」
 徹は突然の声に身を硬くした。目を開けると、柔道場の入口に涼しげな瞳の少女が立っていた。
 髪は肩口で切り揃えた艶やかな黒髪。白いシャツの胸元には灰色と臙脂色のストライプのリボン・タイが覗く。制服のスカートからのぞいた脚は軽く左右に開かれ、しなやかに長い。

「新入生? 感心感心。もしかして武道やってた?」
 先輩――いや同級生かも。とにかく綺麗な子だ。
「あたし、荻原有理。合気道部の今度二年生。で、武道やってたの?」
 少女は初対面の徹に屈託なく話しかけると、軽やかな足取りで近づいてくる。

「日本舞踊を少し。えっと、勝手に入ってごめん」
 徹は口ごもりながら答えた。彼女の対人距離感覚は、自分とは相当異なるようだった。一方踏み出せば黒髪に触れることができるその距離に、徹の鼓動は一気に激しくなる。
 荻原有理と名乗った少女は、軽く右手を上げた。

「別にいいって。入学前から道場を覗きにくるなんて、いい心掛け。でも先輩には『ごめん』じゃなくて、『すみません』だよね」
「いや、えっと――」
 有理は右手を軽く頬にあて、可笑しそうな表情を浮かべた。少し切れ長の大きな瞳が、聡明さを示すかのように絶え間なく動く。
「君、名前は」

「藤原徹……です」
 同学年であることは分かったが、また何か言われそうな気がしてつい丁寧語になった。
「藤原徹君か。合気道部はいつでも君を待ってるからね」
 そのまま、少しだけ顔を近づける。黒髪から微かな香りが漂う。

 勧誘用の笑みと判っていても、その破壊力は十分だった。有理はその威力を知ってか知らずか、軽く首を傾げると、駄目押しの一撃を放った。
「あと、連に誘ってくれてもいいけど、あたしは結構競争率高いと思うよ」

 呆けた表情でだらしなく立ちつくす徹の前で、有理は再び右手を上げて指だけ軽く前後に動かす。
「じゃ、またね」
 徹の反応を待つことなく、道場の入口に置いた赤いスポーツバッグを抱えると、外に出て行く。
 ふわり、黒髪がなびく残像が徹の目に焼きついた。

(年下に間違われたのか)
 とはいえ、昔から年より一つ二つ幼くみられることも多かった徹である、状況を考えると、誤解した有理を不満に思う気持ちはない。むしろ、同じクラスになる可能性を想像して知らずに頬が緩んだ。
 オギワラユリ、オギワラユリ――忘れないように、今聞いたばかりの名前を繰り返す。

 有理との出会いの前では、今日の出来事が全て彼方に霞むかのように感じられた。

雪と茶色い子猫と――高校生か (運命の輪3)

2008年09月26日 00:07

 道場を出ると、いつしか雪は止んでいた。裏手の鬱蒼とした林にも木漏れ日が差し込んでいる。
(さて、帰るか――)
 伸びをした徹の耳に、悲しげな鳴き声が届いた。声をした方を見上げると、薄茶色の塊が目に入る。
 
 子猫であった。
 
 恐らくは生後数か月も経たない子猫が、山桜の老木に登っていた。子猫が自力で登るにしては少々高い。根元に建っている古びた石碑から、駆け上ったのか。通り過ぎようとすると、子猫が再び悲しげに鳴いた。
 
 確かに高い。徹は辺りを見渡したが、足場になるものは石碑以外になかった。子猫が飛び移れればいいのだが、急に高さに気付いたのか、進むも退くもままならなくなったらしい。
 
 雪と茶色い子猫と――高校生か。
 映画の題名のようだと思いながら、徹は石柱に近づいてみた。供物こそ捧げられていないものの、古びた墓石のようである。どちらかと言えば痩せ型の徹ではあるが、登れるかどうかとは別の問題として、墓石に足をかけるのは躊躇われる。

(これしかないか)
 徹は、首に巻いていた緑のマフラーを外した。リュックを地面に下ろすと左手にマフラーを持ち、ゆっくり全身でリズムを刻み始めた。
 
 ざん、ざん、ざん。
 ざざん、ざざん、ざざん、ざざん
 
 一挙動を分割し、その半挙動をまた分割する。分割を繰り返して小さな波の束となったところで、体を滑るように動かす。ベタ足のまま背筋を伸ばし、両足で緩やかに円を描く。独特の呼吸法と共に、垂らしたマフラーに己の意思を流し込む。
 息を鋭く吐き出したその瞬間、振り出したマフラーは一本の棒に姿を変えた。
 
 ホースに勢いよく水を通した。感覚的にはそう表現するのが近いだろう。武道の心得のある者であれば、気を通したと説明するのが一番容易いかもしれない。
 徹は深緑色の棒と化したマフラーを、子猫のいる枝先へと差し出した。

 が、子猫は動かなかい。

「大丈夫だって、乗っても折れない」
 子猫はまだ動かない。
「ほら、大丈夫、保証する」
 子猫は更に警戒する。首の後ろの毛を逆立てているのは、気のせいだろうか。
「早くしろよお前。これ、そんなにもたないんだってば。折れちゃうんだよ――」

(……あれ?)

 徹が子猫一匹説得できない自分にあきれ始めたところで、子猫は、意を決したように飛び乗った。マフラーごと一気に子猫を引き寄せると、徹は小さく息を吐いた。
「頼むから、爪立てるなよ」
 子猫をそっと離すと、子猫は一声鳴いて林に消えていく。徹は額の汗を拭うと、校門へと戻ることにした。

 結局徹は最後まで、自分を見つめる視線に気づくことはなかった。

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第一章 桜/ 必ず男女で組んで下さい (桜1)

2008年09月27日 23:58

 四月六日、参宮学園での初日。講堂に座った藤原徹の耳に飛び込んできたのは、背の高い男がステージに並んだメンバーに出す合図だった。

「ワン・ツー・スリー、ゴー!」
 ドラムスティックを高らかに打ち鳴らす音と、続いて講堂中に鳴り渡るアニソン・ヒットメドレー。
 一列に講堂に入ってきた新入生達は突然の大音響に足を止め、やがて堪え切れずに一人、また一人と吹き出していく。

「お願い、お願い~」
 ステージでは先ほど合図を出した男がその整った顔を大袈裟に歪め、オーバーアクションで両手を前に突き出す。徹以外の在校生達はいつもの事と驚いた風も無く、歓声を上げ、手拍子を取る。

 横では、軽くウェーブのかかった茶色い髪の少女が、
「瓜谷先輩、やっぱ最高!」
 そう言いながら大笑いしていた。

「今日もいい天気ぃっと、センキュ」
 瓜谷と呼ばれていた男は絶叫し終わると、背筋を伸ばしてマイクに向き直った。いつのまにか新入生も全て入場し終えている。どうやら、これがこの学校の流儀らしかった。
「それでは只今から入学式を始めます。在校生起立」
 歌い終えた男の声は意外に低く、そして落ち着いていた。
 
 徹がショーのような始まりに呆気に取られている間に、入学式は淡々と進んでいた。車椅子の少年による新入生代表の挨拶も終了し、壇上では予想通り瓜谷と名乗った司会の三年生が連の組み方について説明を始めていた。

「明日から二週間、つまり四月十九日までに、一年生は自分が組みたい上級生を見つけて連を申し込んで下さい。会って話してもいいし電話でも手紙でもいい。但し、心優しき上級生を脅さないように」
 瓜谷悠は、場慣れた調子で左右を見渡した。
 男にしては長い髪と、均整の取れた長身。鼻筋の通った顔をくしゃっとさせて笑う姿が、見る者を惹きつける。

「上級生からのアプローチは禁止。申込みに来た一年生と組むか、断るかを選ぶことしかできません。提出した自己PRを信じて、首を長くして待っているように」
 再び瓜谷は歯を見せた。つられて在校生席にも笑いが広がる。

「相手を見つけないのも自由。但し、行事によっては一人の参加になるかもしれません」
 今度は新入生の席からざわめきが広がる。
 一人での行事参加。想像したくない響きに、徹は腹の奥がぎゅっと緊張した。

「四月二十日からは二年生の番です。一年生と組まずに残った二年生は、自分が組みたい三年生に連を申し込んで下さい。締切りは今月一杯です」
 
 徹は、転入案内に書いてあった説明を頭の中で反芻した。
 参宮学園では、自主性を尊重すると共に学年を超えた連帯を強めるため、異なる学年での組による活動を奨励しています。これを当学園では「連」と称しています――か。

「一年生諸君には上級生の自己PRを載せた冊子を用意したので、講堂を出るときに受取るように。以上、質問はありますか」
 瓜谷は手際よく説明を終えると新入生席を一瞥した。入学案内をよく読んできたのか、それとも周囲の卒業生から既に聞いているのか、手を挙げる者はいない。

「そうだ、大事なことを言い忘れた。男同士、女同士の連は認められません。必ず男女で組んで下さい」
 瓜谷は、その方が楽しいだろとばかりに片目を瞑る。そんな気取った仕草にも嫌味が無い。
「どうやら質問もなさそうなので」
 瓜谷がそう言いかけたとき、少女の声が響いた。

「ナンバーワンの連になれば、如月の宝玉を手にすることが出来るのか」

 講堂中の視線が集まったその一角、赤い髪を長く伸ばした外国人の少女が、挑むように立っていた。

誰がその連を選ぶのか (桜2)

2008年09月30日 00:27

 キサラギノホウギョク
 少女が発した言葉は、異国の呪文のように徹の耳朶に響いた。
 抜けるように白い肌の色。 ビスクドールを連想させる硬質な表情に、見る者を貫く青い瞳と高く通った鼻筋。そして何より、燃えるような赤い髪。
 
 人目を惹く。
 その言葉では、少女の姿を伝えきることはできない。白黒フィルムの中で、そこだけが総天然色――手垢のついた表現だが、まさにこの場の彼女に相応しかった。

「誰がナンバーワンを選ぶのか、教えてほしい」
 少女には、瓜谷以外の存在は眼中にないかのようだった。
 瓜谷は、その視線を正面から受け止めていた。細めた目も、端を吊り上げた口元も、先程の笑顔と全く同じ形であった。が、身に纏う雰囲気が一変している。
 
 面白い。

 徹の目には、瓜谷の口がそう動いたように見えた。無意識に身震いしてしまう。じわり、講堂の緊張感が高まったところで、瓜谷の横にいた宇田川が自然な動作で立ち上がった。
「一年生の学年主任の宇田川だ。私から説明しよう」
 落ち着いた張りのある声が、講堂に響く。同時にそこかしこから、安堵の吐息が漏れる。

「確かに年度最後の一ヶ月、学園にある青い玉を一組の連に預ける伝統がある。例えるなら、持ち回りのトロフィーのようなものだ」
「誰がその連を選ぶのか」
 宇田川が言い終わるのも待たず、少女が尋ねる。

 赤い髪の少女は言葉に不自由していないようだが、日本で育ったわけでもないことは明らかだった。抑揚が少なく、話す内容も比較的シンプルである。それが逆に、聞く者に切っ先の鋭さを感じさせ、ある種の緊張感を生み出している。

「学校が選ぶ」
 宇田川の答えもまた、簡潔だった。
「勘違いして欲しくないのは、青い玉――如月の宝玉と呼んでいるが――を預かる連が、絶対だとは限らない点だ」
 ここで宇田川は、一呼吸置いた。
「教師には教師の見方があり、君達には君達の見方がある。その数だけナンバーワンがあると思ってもらって、構わない」

「要は先生方が選ぶということですね。成績が重視されるのですか、それとも課外活動ですか」
 一年生の中から新たな声がする。代表の挨拶をした、杉山という名の車椅子の少年だった。穏やかな響きだったが、何故かよく通った。

「全てを重視する。これでは納得できないかな」
 宇田川がそう説明した後で、瓜谷が愉快げに付け加えた。
「去年と一昨年は、俺の連が宝玉を預かった。こいつは参考になるかな」
 宇田川は瓜谷を一瞥すると、言葉を続けた。
「いずれにせよ自らのベストを尽くすことだけが、宝玉を手に入れる道だ」
 
 赤い髪の少女は、このゲームへの参加を全員の前で宣言するかのように、きっぱり答えた。
「わかった」
 そのターコイズ・ブルーの瞳は、一層青く輝いていた。車椅子の新入生代表も、後に続いた。
「僕も了解しました」

 壇上の宇田川は、二人の新入生の言葉に静かに頷くだけだった。
 だが徹には、その光る眼が何故か自分を見つめているように感じられた。

しかも空手なんかやってるから、けっこうやばいかもよ (桜3)

2008年10月02日 00:38

 入学式が終わり、徹は担任の西川と廊下を歩きながら、先程の出来事を思い返していた。
 赤い髪の少女も車椅子の新入生も、宝玉を手に入れるため入学したかのようだった。

(如月の宝玉って、何だろう)

 ガタン
 西川が教室のドアを開ける音で、徹は頭を切り換えた。
「エーと、転入生を紹介します。藤原君といって」
 白髪混じりの西川のしゃがれ声を聞きながら、徹が教室を見廻すと、
「徹君?」
 黒髪の少女が、自分を指差して中腰になっていた。その瞬間、徹の頭に六文字が浮かぶ。

 オギワラユリ

「うっそぉ、同級生だったんだ。うわ……すっかりあたし勘違いしちゃった」
 西川が咳払いをして眼鏡を直す。
「荻原、落ち着け。お前ら知り合いか?」

「えっと、いや……」
「そうなんです!」
 徹と有理の声が重なった。西川が面倒くさそうに手を振る。
「わかったわかった。後でゆっくり話せ。まずは藤原、みんなに自己紹介だ」

 有理の顔を見た瞬間、徹は頭の中が真っ白になってしまった。用意してきた挨拶も、何一つ思い出せない。しどろもどろになりながら名前と前の住所を口にすると、西川が苦笑した。
「それだけか。随分と控えめな奴だな」
 徹は、已む無く言葉を捻り出した。
「家族は、両親と姉がいます。あとは――」
「彼女は?」クラスメイトの声が飛んだ。
「えっと、いません」

「当然だろ」
 突然の乱暴な声が徹を遮った。ざわついていた教室が一瞬にして静まり返る。振り向くと、長身の男が椅子に浅く腰掛けたまま足を投げ出して、徹を睨み付けていた。
 踵を踏みつけた上履き。短い茶髪に両耳のピアス。面長でどちらかといえばハンサムな顔立ちだが、薄い唇が不快そうに歪んでいる。
 徹の最も苦手とするタイプだった。膝の辺りで組んだ両拳のグロテスクな蚯蚓腫れが、人を殴り慣れていることを雄弁に物語っていた。

「高宮、感じ悪いって」
 有理が睨んだが、高宮と呼ばれた男は徹から目を逸らさない。徹は気を取り直して続けた。

「まだここでは友達がいないので、宜しくお願いします」
「あたしがいるって!」
 有理が、任せてとばかりに元気よく手を上げる。西川は再び面倒臭そうに手を振ると、
「席は――楠ノ瀬の隣だな。そこの空いてる席だ」
 右奥を指差し、徹は自分の席へと向かった。

 視線が痛かった。
 クラスメイト達は好奇心丸出しで徹を眺め、高宮からは露骨な敵意が刺さってくる。徹はうつむき加減で歩きながら、小さく溜息をついた。
 席に着くと、隣の楠ノ瀬麻紀が、早速シャープペンで徹の左肩を突付いてきた。
「初日からクラス一番の美少女とクラス一番の馬鹿にロックオンされて、もう大変って感じ?」

「あの……」
「あたしは楠ノ瀬麻紀。麻紀ちゃんって呼んで。オッケ?」
「えっと、楠ノ瀬……さん」
 楠ノ瀬は、唇を軽く尖らせて首を振った。
「麻紀ちゃん。オッケ?」
「……麻紀ちゃん」

「高宮って馬鹿だけど、でかいじゃない。しかも空手なんかやってるから、けっこうやばいかもよ」
 楠ノ瀬は茶色に染めた髪を揺らしながら、愉快そうに徹を見た。制服の白いブラウスから覗く肌が、綺麗に日に焼けている。首にはゴールドのチェーンが光り、耳元にはピンク色のピアスが覗いていた。

「なあ楠ノ瀬、そういう話はもう少し小声で……」
「麻紀ちゃんだって言ってるのに」
「……麻紀ちゃん」
「楽しみ、楽しみ。さっそく刺激的な学園生活。もう徹ちゃん、青春真っ只中?」

「おい、藤原と楠ノ瀬、私語止めろ。仲良くなるのはいいが、今は授業中だぞ」
(だから違うって……)

俺、先輩のために何でもします (桜4)

2008年10月04日 00:27

 前途多難な予感に徹が溜息をついているうちに、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。徹が、背伸びをして立ち上りかける。
 と、いきなり一年生が数人、教室に雪崩れ込んで来た。脇目も振らず荻原有理の席まで歩み寄ると、先頭が大声を張り上げた。
「一年三組の山本雄一です。荻原先輩、自分と連を組んでください」
 
 すぐ後ろの男が押しのけるように前に出る。
「自分は一年一組の北里剛史です。先輩の噂は入学前から聞いてました」
 順番を待ちきれないように、後ろの方からも別の声が掛かる。
「荻原先輩。俺、先輩のために何でもします」

 有理の席は既に五、六人の一年生に取り囲まれていた。気付くと教室には他にも一年生が姿を見せ、徹のクラスメイトに声をかけている。
(なるほど、こういうシステムなのか)
 徹は、宇田川や瓜谷の説明をようやく実感した。

「だーめ駄目。どうせあたしと組んだら、すぐやらせてくれると思って来たんでしょ」
 ぎょっとして振り返ると、楠ノ瀬麻紀がニキビ面の男子生徒を、片手であしらっていた。
「あたしは理想高いの。悪いけど他あたって」
 肩を落とす一年生を横目に、楠ノ瀬が意味深に笑いかけてくる。
「徹ちゃんが一年生だったら、よかったんだけどなあ」

 予想外の言葉に徹が顔を赤くすると、楠ノ瀬はその反応に満足げな表情を浮かべて教室を出て行った。再び有理の方を見ると、こちらもあっさり勝負あったようで、一年生たちがすごすごと帰るところだった。
 
(有理は、誰と組むんだろう)
 周囲ではまだ、クラスメイトたちと一年生の駆け引きがあちこちで続いている。だが、自分目当てにやって来た一年生は皆無だった。

(ま、転入生のところに初日から来る子はいないか)
 人より特に目立つわけでもない。敢えて他人との違いを探せば日本舞踊くらいだが、これとてインパクトがあるとも思えず、しかも実態は古武術である。女子高生が興味を持つとは到底思えなかった。

 徹は、一年生向けの冊子に書いた自己PRの出だしを思い出してみた。
 藤原徹――四月に転校してこの学園にやってきました。君らと同じ新入生のつもりで、全力投球しようと思います。一緒に楽しい学園生活を送りましょう。

 改めて思い返すと、我ながら冴えない内容だった。
 徹は首を振ると、カバンを持って立ち上がった。

確かに、麻紀ちゃんには負けるよね (桜5)

2008年10月06日 01:32

 その翌日も、荻原有理への申込みは絶えることなく続いた。
 リボンをかけた大きなプレゼントを渡そうとする者や、いきなり目の前で絶叫する者。噂を聞きつけた他のクラスの同級生や三年生も教室を覗くようになり、休み時間の人口は一気に膨れ上がった。

「やっぱり荻原さんの人気は、け、桁違いなんだ。凄いね」
 クラスメイトの桐嶋和人が徹に声をかけてきた。

 桐嶋は昨日の午後、自分も高宮に目を付けられていると告白してきた。

 小柄で気弱な、いかにも不良生徒の的になりそうなタイプである。眉毛が太く頬骨がでたその顔は、一つ一つをとれば凛々しい表情を浮かべてもおかしくない造作だった。だが桐嶋の場合は、その内面を映すかの如く瞳は落ち着かなく左右に動き、その眉は広がるに従って垂れている。
 襟元からは古傷が見え隠れしているが、本人の説明によれば交通事故のためとのことだった。親しげに話しかけてくる仕草には仲間を見つけた安堵感が漂っていて、徹は正直複雑だった。

「ぼ、僕らにも誰か、声をかけてくれる一年生はいないかな」
「桐嶋は去年、誰と組んだんだ?」
 徹の問いかけに、桐嶋は恥ずかしそうに、昨年は誰とも組めなかったと告白してきた。徹は慌ててフォローしようとしたが、楠ノ瀬麻紀がそれを遮って話しかけてきた。

「桐嶋ぁ。あんた徹ちゃんと自分が一緒だと思ってるみたいだけど、それ、すっごい勘違いだから」
 意地悪そうな笑みを浮かべている。なおも必死で言葉を探す徹に声が掛かった。

「徹君、お昼ご飯食べにいこうよ」
 黒髪をなびかせて荻原有理が立っていた。あたしも――楠ノ瀬麻紀は元気よく立ち上がると、桐嶋に囁く。
「ほら、わかった?」

「桐嶋も行こうぜ」
 徹の誘いに桐嶋も寂しげに頷くと、四人は学食に向かった。

 学食は大勢の生徒達でごった返して、席を取るにも一苦労である。四人揃ってトレイを置いて座る頃には、十二時半を回っていた。

「それにしても荻原は人気あるね。自分で言うだけのことはあるな」
 徹の言葉に、有理がハンバーグを口に入れるのをやめて首を傾げてみせる。
「ほら、オギワラユリは競争率高いって」
 口真似をしてみせた徹に、有理が思い出したかのように、にっこりした。
「ああ、あれは、ちょっとした冗談」
 
 楠ノ瀬麻紀はやれやれとばかりに肩をすくめると、しらっと付け加えた。
「でも、胸はあたしの方が大きいけどね」
 桐嶋はどう反応したらいいかわからないようで、三人の顔を見比べている。

 有理は茶目っ気たっぷりに、
「確かに麻紀ちゃんには負けるよね」
 そう相槌をうつと、徹に向き直った。
「徹君、合気道部に入らない? 素質あると思うし、頑張れば段位もとれるよ」

「うーん。ありがたいけど、きっと部活には入らないよ」
 徹は、有理の肩越しに見える下級生達の視線が気になっていた。有理がいるだけで周囲の視線がテーブルに集まるのだ。いや、視線だけでない。確実に聞き耳も立てている。
 慣れていない徹は、それだけで落ち着かなかった。

「仮入部だけでもすれば、徹君も新入生との接点が増えると思うんだけど」
 当の有理本人はといえば、至って平気で気にする素振りもない。徹を眺めながら、楠ノ瀬麻紀がからかうような表情を浮かべた。

「徹ちゃん、優しい言葉に勘違いしないようにね」
「ああ。オギワラユリは競争率高いしね」
 徹が心配無用とばかりに頷くと、突然、有理は学食の入口に手を振った。
「あ、ユイ!」

自己紹介に何書いたんだ? (桜6)

2008年10月07日 01:36

 有理に負けず劣らずの美少女が、歩いてくるところだった。
 有理と同じくらいの背格好で、栗色の外巻きの髪。同じ制服を着ているのに、周囲と明らかに異なる華やかさを身に纏っている。有理は、妹の有為だといって三人に引き合わせた。

 手足が細いな。それが徹の第一印象だった。
 
 ユイと呼ばれた少女は、徹たちを露骨に品定めする視線を向けると、
「有理、あたし負けないから」
 そう言って姉の前で胸を張った。

「もう、組む相手は決まったの?」
 何気ない有理の言葉にも、有為は過敏に反応する。
「熟慮中。有理こそ変な相手と組んでがっかりさせないでね」

 変な相手。
 その言葉の中に自分が含まれていると感じるのは、気のせいだろうか。徹は自分の卑屈な想像を振り払って、話しかけた。
「やっぱり姉妹で似てるね。有為ちゃんの方がちょっと背が高いかな?」
 場の雰囲気を和らげたい。それだけだった。
 が、馴れ馴れしい――そう言わんばかりに有為が眉を顰めた。徹が思わず目を伏せると、

「惜っしいなぁ」
 楠ノ瀬が皮肉っぽく声を掛けた。
「素材は負けてないんだけどね。いや、お姉ちゃん以上かな。でも未熟」
 有為はあからさまに不機嫌な顔になる。その表情もかわいいと思ってしまう自分が情けない。
 
 有理が妹の態度をたしなめようと、口を開きかけたところで、
「とにかく勝負だからね」
 そう有理に言い捨てて、有為は友人の輪に戻っていった。

「あらら、怒っちゃったかな」
「でも、確かに可愛い」
「御免ね。ほんとあの子未熟で」
「……ちょ、ちょっと怖かった」

 徹たちが各人各様の感想を漏らしたところで、楠ノ瀬が話題を変えた。
「それにしても、有理ちゃんみたいに相手が押しかけて来るのも大変だよね」
 大げさに天井を見上げて言葉を続ける。
「あたしの所にも、やたら男の子が来るんで参っちゃって」

「……楠ノ瀬、自己紹介に何書いたんだ?」

  * * * * * * * *


「リタ様、探していた者は見つかりましたか」

 その夜、学園から離れた洋館の一室で、赤い髪の少女はそう問いかけられていた。月には薄く霞がかかり、淡い光が高窓から室内に差し込んでいる。

「知っているか、セシル。こういう夜を朧月夜というそうだ」
 少女は問いに答えることなく、傍らに佇むブロンドの女を見上げて語りかける。
「この国の言葉は、風情があるな」
 セシルと呼ばれた女は黙って頷く。
 
 大ぶりのソファーと年代物の家具が置かれた広い応接間に、リタとセシルの二人きりである。二人の年齢差は七、八歳あるだろうか。セシルの理知的な表情は如何にも有能な秘書然としており、若き主人が語るのを静かに待っている。
 果たして、少女はおもむろに言葉を継いだ。
 「見つかった。いや、正確に言うと目星はつけた」

「では――」
「名前はわからない。だが近いうちに会えるだろう」
 リタ=グレンゴールドはそれきり会話に興味を失ったように、卓上のカードに手を伸ばす。ほっそりとした指でカードをひとしきり弄ぶと、黒革のソファーに深々と背中を沈めて目を閉じた。

 如月の宝玉か。
 一年を賭けるに値するものであればよいが。

 気付くとリタの前には、紅茶が湯気を立てていた。既にセシルの気配はない。さり気ない気配りに感謝しながら、リタはカップを手にした。
 窓から覗く月は静謐さを湛え、リタを蒼く照らしていた。

見つけた  (桜7)

2008年10月08日 23:34

 入学式から三日が過ぎた。
 そのとき徹は、一時間目の教科書を出していたところだった。
 
 入学式の日以来、特に高宮武に絡まれることなく、とはいえ一言も口をきくことなく過ごしている。
 高宮は決して楠ノ瀬が言うほど「馬鹿」ではなく、徹を体育館裏に呼び出すことも無ければ、椅子がへし折られるとことも無かった。
 
 高宮には、今日も女生徒が連の申し込みに来ている。一八五センチを超える長身に、それなりのルックスであることを考えると、新入生の行動はむしろ当然ともいえた。
(これであの殺気がなければな……)
 日に何度となく強烈な視線が高宮から向けられることは、相変わらずであった。もちろん、その理由は分かっている。

 何とかしろよ、オギワラユリ。

 その本人は、徹の悩みなど気にする風もない。というより、部活と新入生の熱烈なアタックに時間を割かれているようだ。徹が合気道部への入部を辞退して以来、大した会話も無く過ぎている。
 徹が軽く溜息を付いたとき、教室の前の扉が勢いよく開いた。

 振り向くと、背の高い一人の少女が立っていた。
 
 燃えるような赤い髪が、見る者の目を刺す。廊下の外から、外の空気が流れ込んでくる。徹の頬を撫でていく風はどこか懐かしく、それでいて不安にさせる匂いがした。
 
「見つけた」
 赤い髪の少女はぼそりと呟くと、教室の中に入ってきた。
 入学式の遣り取りを覚えていた者は互いに囁き合い、少女が誰の前に立つか固唾を呑む。
 
 徹は、歩いてくる少女と高宮とを交互に見比べた。
(彼女も高宮のところに来たか――)
 驚きはない。が、徹本人ですら気付かぬ僅かな失望が、心に影を差す。一方の少女は唇を一文字に結んだまま、大またで足を進めた。群集を掻き分けるかのように周囲には目もくれない。

 少女は高宮の席を通り越した。
 周囲の囁きがざわめきに変わった。高宮の顔が一瞬引き攣り、直ぐに視線をあらぬ方向へと逸らした。
 なおも少女は歩みを止めない。
 誰が目当てなのか。
 少女の歩みと共に対象者が狭まり、それに比例するかのように教室の緊張感が高まっていく。

 そして――

 少女は徹の席の前に立っていた。
「見つけた」
 今度は、はっきりと勝ち誇ったように少女は喋った。

「私はリタ=グレンゴールド。お前の名前を教えてほしい」
 クラスのざわめきが一段と大きくなる。
 徹は余りに予想外の展開に、ただ口を開けていた。

 空耳ではないか――
 目の前の光景が信じられないでいる徹に、少女は苛立つでもなく同じ言葉を繰り返した。

「もう一度言う。お前の名前を教えて欲しい」
 間違いはなかった。
 少女のターコイズ・ブルーの瞳は、確かに徹を捉えている。徹はごくりと唾を飲み込んだ。
「ふ、藤原徹……」
 気圧されたように自分の名を口にすると、リタは満足げに頷いた。

「フジワラトオルか。お前を探していた」

では、確かめよう (桜8)

2008年10月10日 00:48

 想像だにしていなかった口説き文句だった。
 徹も、そしてクラス中の全員も絶句した。
 高宮を取られずに済んだと喜びかけた他の一年も、ただ絶句した。
 教室の時計の秒針が刻む音だけが響き――
 
「あっはっは……やっぱ徹ちゃん、大物だ」
 ただ一人、一足早く復活したのは、隣にいた楠ノ瀬麻紀だった。
 周囲は未だ硬直したままである。が、リタは全く気にすることなく、徹だけを真正面から捉えていた。

「あの、グレンゴールドさん……多分人違いだと思うんだ。第一、僕の名前を知らないってことは――」
 申し訳なさそうに話しかける徹の言葉を、リタは左手を挙げて制した。
 ターコイズ・ブルーの瞳の中に抑え切れない興奮が映っているのを見て徹は息を呑み、軽く勃起した。

「間違いない」
 リタの表情は揺るがなかった。
「いや、そういっても――」
「では、確かめよう」
 リタは突然、徹の右手を取ると、自分の左手と指同士を組み合わせた。

 教室中が息を呑んだ。先ほどまでとは性質の異なる、異様な静寂が辺りを支配する。
 楠ノ瀬麻紀さえも、再び押し黙った。
 徹は恋人同士のように指を組み合わされ、そのまま石になってしまった。 

 身体の中で、激しく渦巻く興奮と混乱。そして、リタが教室に入ってきて以来感じているこの匂い。
 甘くなど無い。芳しくなど無い。
 では何故、自分がこの匂いをこんなにも懐かしく思うのか。

 徹は、名前を呼ぶのが精一杯であった。
「リ……タ」

 リタは徹と手を繋いだままで軽く瞳を閉じると、何事かを呟いた。
 白い肌に、薄らと雀斑の浮かんだ高く細い鼻。意思の強さが示された真直ぐな眉。
 前髪の間から覗く額には、隠すことの出来ない聡明さが宿っている。
 必ずしも完璧な美人とはいえない。が、見る者を惹きつけずにいられないその顔が、軽く頷いた。
 
 瞳を開くと、リタは先ほどの言葉を繰り返した。
「徹、お前を探していた。お前の一年を私に預けて欲しい」

 徹は首を横に振ろうとした。
 誓ってそのつもりだった。
 だが、口を突いて出たのは全く別の言葉だった。

「僕でよければ」

 徹は、至るところから響き渡る驚愕の叫びを、他人事のように聞いていた。

縦では、肋骨の隙間に入らないなあ (桜9)

2008年10月12日 01:43

 リタの申し込みの事実は、直ぐに学園中を駆け巡った。
 全校生徒が三百六十人の、小さな参宮学園である。その場に数十名の生徒がいたことを考えると、当然とも言えた。留学生が珍しいことに加えて、徹自身が転入生であることも手伝い、今年の連の台風の目になったのは間違いなかった。

「ふ、藤原。例の赤い髪の子が、『お前の命を預けてほしい』って抱きついてきたって、本当かよ」
「命じゃないって」
「で、でも、抱きついてきたって」
「抱きついてないって」

 しつこく詰め寄る桐嶋をあしらいながら、徹はその後のリタとの遣り取りを思い出していた。
 どこで自分を知ったのか訊いた徹に対し、リタは、十日ほど前に学園で、と答えた。

 (あれを――子猫を助けた時のあれを、見られたのだろうか)

 迷いの無い瞳が、徹の脳裏に焼きついている。吸い込まれそうな青さを思い出しながら、軽く頭を振った。 
 リタは何故、鳴神流が必要だと考えたのだろう。徹自身、鳴神流が如何なるものか実は分からない。日本舞踊と称しているが、実態はもっと禍々しいものである――その程度は徹も認識している。

 礼儀作法が身に付き、立ち振る舞いがきちんとするから。そんな理由を口にして習わせた両親は、どれだけ真実を理解していたのだろう。使う道具こそ扇や帯、鈴ではあるものの、血なまぐさい歴史が背後にあることは疑いない。
 幼い日に徹が、扇を横に寝かせて突き出す動きを質問したことがあった。その時の師の答えは、今も思い出せる。

「縦では、肋骨の隙間に入らないなあ」
 
 徹はその後、十二歳の春に正式に一門としての名を得た。
 鳴神徹瑛――これが藤原徹の鳴神としての名前である。師の孫娘で、徹の姉の幼馴染でもあった鳴神菖蒲は当時、徹の入門に大反対した。驚くほど激しい抵抗だった。

 鳴神はきっと徹を不幸にする。鳴神はきっと徹を不幸にする。鳴神はきっと徹を不幸にする。鳴神はきっと徹を不幸にする。鳴神はきっと徹を不幸にする。鳴神はきっと徹を不幸にする。鳴神はきっと――

 今思うと、当時の菖蒲は病的にやつれていた。当時の徹は、菖蒲に一言だけ問うた。
「でも、あやちゃんも鳴神なんだろ」
 
 徹にとっては、その理由だけで十分だった。

二年連続で一人は切ないよ (桜10)

2008年10月15日 00:49

 リタは、それから毎日徹の教室に来るようになった。
 連を申し込まれたとき、徹は確かに何か匂いを嗅いだはずだが思い出せない。血の匂いだった気もするが、今はリタの髪から仄かに甘く乾いた香りが漂うだけである。

「ふうん、リーたんは遠縁のお姉さんと二人暮らしなんだ。で、また聞いちゃうんだけど、リーたんは徹ちゃんのどこがいいと思ったわけ」
 楠ノ瀬麻紀が興味丸出しで覗き込む。
 今日は学食の丸テーブルを二つ繋げ、徹たちはリタを囲むように食事を取っていた。メニューから徹と桐嶋はカレーを、楠ノ瀬麻紀はサンドイッチを選び、荻原有理とリタは持参した弁当を広げている。

「ナンバーワンになるために、徹が必要だからだ」
 当然といった表情でリタが答える。
「ふ、藤原のどこが必要だったんだ、リ、リーたんは」
「今は説明できない」
 あまりに簡潔なリタの答えに、桐嶋が左右に広がる太い眉をハの字にして、気にしないでくれと慌てて手を振る。リタの一言には妙な威厳があり、徹や桐嶋などしばしば圧倒されてしまう。

「リタちゃんは、ライバルと思う子はいないの?」
 有理の問いかけにもリタは表情を変えず、ナプキンで口を拭いながら首を横に振った。
「あたしの妹なんかどう? 荻原有為って知ってる?」
「知らない。だが、二年生では貴方がライバルだろう」

「敢えて言えばって感じね。昨年の優勝者に、一応敬意を払ってくれたってとこかしら」
 有理が苦笑いした。

(昨年の優勝者?)
 徹はカレーを頬張ったまま目を見開き、他の全員が何を今頃といった表情で徹を見る。有理は弁当の苺を摘みながら、
「まあ、去年は瓜谷先輩のおかげだし。でも、今年もいい線いくかな」
 澄ました顔で口の中に入れた。

「お、荻原さんは、今年も瓜谷先輩と組むつもりかい?」
 有理は、勢い込んだ桐嶋を手で制して苺を飲み込むと、
「今年は、一年の杉山君と組むことにしたんだ」
 と答えた。

 入学式で挨拶した一年生の注目株の名を耳にして、徹たちは驚きの声を上げる。周囲が何事かと振り向いたが、当の本人は涼しい表情で楠ノ瀬に話題を振った。
「麻紀ちゃんは、結局どうしたの」

「楠ノ瀬も人気あったよね」
 徹の問いかけに、楠ノ瀬は艶然と髪の毛を掻き上げる。
 今日のピアスは水色だった。
「何度も麻紀ちゃんって呼んでって、言ってるのになぁ」
「……」

「それより桐嶋。あんた大丈夫? 二年連続で一人は切ないよ」
 楠ノ瀬の無遠慮な問いかけに、小柄な桐嶋がさらに身を小さくして俯く。ひとしきり桐嶋の話で盛り上がった後で、リタが何気ない調子で話しかけてきた。

「徹、今度うちに来ないか。今後の策を練りたい」

 楠ノ瀬が、大袈裟に徹の肩を抱いた。
「頑張ってね、徹ちゃん」

私を見たとき運命を感じなかったのか (桜11)

2008年10月18日 01:42

「私は、宝玉を手に入れるために来た」
 
 学園から歩いて二十分ほどの高台に立つ洋館で、徹はリタと向き合って腰掛けていた。
 窓から外を見ると、季節の花々が美しく咲き乱れている。この館の主が誰であれ、愛情を持って庭を手入れしていることは明らかだった。
 
 徹は、天井の高さや絨毯の毛足の長さがどうにも落ち着かない。防音設備が施されているのでは、そう思わせるほど室内は静かで、時計の音だけがやけに響く。
 先ほど紅茶を運んできた女性も気になる。遠縁と言っていたが、その立ち振舞いは秘書を連想させた。

「徹には、一緒にナンバーワンの連を目指してもらいたい」
 私服に着替えたリタの、シャツ越しの肩の薄さや脚の細さが目についた。背は百七十四センチある徹とあまり変わらないが、近くで見ると思いのほか華奢な身体つきをしている。落ち着いた話し方と比べ、どこかアンバランスだった。

「リタ、どうして僕を選んだんだい」
 リタは青い瞳を徹に向けた。背後の窓から差し込む西日が、徹の目を射る。
「前から、力を持つ者を探していた」
 その低い声が、徹の耳に神託のように響く。

「私の前で徹が『あれ』を使ったのは、まさに運命だった」
 赤い髪の少女は軽く顎を上げた。
「私は、神の導きに感謝している」
 リタの言葉の幾つかは、徹には理解不能だった。だが、そのどれもが確信に満ちており、端々に覗く宝玉への思いは圧倒的ですらあった。

(果たして自分は、リタの探す「力」を持っているのだろうか――)

 徹の心の動きを知ってか知らずか、リタは咎めるような調子で徹を覗んだ。
「徹こそ、私を見たとき運命を感じなかったのか」

 自宅でのリタは、普段よりも徹の前で感情を見せている気がする。
 知り合ってまだ僅かではあるが、容易に人前で表情を崩すタイプでないことは分かる。そんなリタがふと見せる表情は、徹の心を揺らす。

「凄く強い印象だった。なんたって『私に任せてくれ』だから」
「預けて欲しい、だ」
 リタは訂正するが、徹には微かな照れが混じっている気がする。

「声を掛けられたときは、なぜか懐かしくて、でも不安。そんな感じだった。何となく匂いもしたし」
 訝しげな表情を浮かべるリタに、徹は困って頬を掻いた。
「懐かしい匂いがしたんだ。変だろ、笑っていいよ」

「匂いか――」
 リタは笑う代わりに、徹の台詞を吟味するかのように腕組みをした。
「五感は決して軽んじられない。見て考えるか、触れて感じるか、それとも匂いで捉えるか。アプローチの違いでしかない。私自身、触れることで相手を確認することがある」
 リタは組んでいた腕を元に戻すと、再び紅茶で喉を潤した。

「あ……だから連を申し込んだとき、リタは手を組んで――」
 徹の言葉に、リタが当然だとばかりに頷いた。陶器のように白い頬に僅かに朱が差す。
「手を握れば、相手の善悪ぐらいわかる。無論、肌と肌の接触面が広ければ更に感度が高まるが」

 肌と肌との接触――

 リタの誇らしげな口調とは裏腹に、徹はあらぬ妄想に顔を赤くし、慌てて邪念を追い払う。徹は強引に話題を変えると、ひとしきり入学式でのリタの印象について語った。

 いつの間にか夕闇が訪れ、窓に自分達の姿が映り込んでいる。そろそろ帰るか――徹が立ち上がりかけたとき、リタが徹に微笑んだ。

 いや、その言い方は不正確だった。
 目の前の年下の少女は、莞爾として微笑んだのだった。

「徹、お互い悔いの無い一年を過ごそう」
 その顔には一片の迷いも無かった。何者にも媚びず、何者に対しても奢らず、己の決断に誇りを持ち、そして相手の決断を信じる瞳であった。
 徹は瞬きすら忘れ、リタを見つめていた。

(リタ……僕はリタに選ばれたことを誇りに思うよ)
 徹は、この瞬間を忘れないだろうと確信した。

 一方リタは、厳粛な気持ちに打たれている徹を前になぜか、小さく思い出し笑いをした。
「そうか。徹は匂いでイメージを捉えるのか」
「いや、そんな大袈裟なものじゃ――」 

 慌てて首を振る徹の前で、微かにリタの口の端が上がった。  
「私もエジンバラにいたときは、コーギーを飼っていたぞ」

警告したからな (桜12)

2008年10月19日 22:13

 翌日から、徹とリタは極力一緒に行動することにした。
 そうすることで何が変わるのか、二人にもわからなかった。だが、自分たちには必要なことだという思いは揺ぎ無かった。休み時間にお互い教室に寄っては、他愛のない話をした。

 そして数日後の昼休み、二人で混雑する学食に行ったときのことだった。
 リタはランチボックスを持参している。先に席を取っておく――そう言ってリタは背を向け、徹が麺類のコーナーへ急いだところで、見覚えある少女とすれ違った。

「あれ、有為ちゃん」
 徹の声に、荻原有為は怪訝そうな表情を浮かべた。
 徹は言葉を続けようとして、その後ろに立っている男に気付いた。
 高宮武だった。
 
 高宮は荻原有為を後ろに下がらせると、覆い被さるように徹を睨みつけてきた。
「また女に声掛けてんのか、藤原ぁ」
 高宮の台詞も不快だったが、続く有為の言葉に徹は表情が強張った。

「藤原……さんですか。すいません、覚えてなくて」
 声を掛けられることに慣れた台詞だった。
 高宮がもう一度威嚇するように顔を近づける。その面長で彫りの深い顔立ちが、酷薄そうに歪んでいる。
「どっか行けってよ」
 外見だけであれば有為と釣り合っている。そう表現できる高宮の容姿だったが、唇は徹に対する感情を映すかのように歪んでいた。徹は思わず一歩後ずさった。

 ただならぬ事態に気づき始めた周囲の視線が、集中する。だが止めようとする者は無い。この後どうなるのか見てみたい、そんな好奇と期待の視線が大半である。
 どうすべきか。徹が逡巡したその時――

「徹に何をする!」
 騒ぎに気付いたリタが割って入った。
 徹を庇う様に足を大きく開き、両の拳を握り締めて高宮の前に立つ。まさに燃え立つ炎であった。

「そっか……リタの組んだ人か」
 ようやく思い出したかのように有為が呟く。だが徹には、その後の独り言まで耳に入った。
 年下の子に助けられるなんて、カッコ悪い――

 屈辱感に顔が熱くなった。
 一方で、自らの優位を確信している高宮の眼はリタを通り越し、徹に照準を合わせたままである。

「よかったな、連れが助けに来てくれて」
 高宮はそう言うと、べろんと、どこか卑猥な仕草で唇を舐める。どこかグロテスクなその大きな拳を胸の前で重ねて見せる。不快な仕草ではあるが、そこまでなら耐えられた。だが、反応を示さない徹に対して高宮はさらに言葉を継いだ。
「俺は強いぜ」

 高宮の言葉を聞いた瞬間に小さな音を立てて、何かが徹の心の中で外れた。
 徹は無言で、リタの前に一歩出る。周囲が無謀さにざわめいた。
 
 混雑した学食の中で、高宮と徹を遠巻きに取り囲むように輪が出来始める。何か言いかけようとしたリタを、徹は黙って腕で制した。
「警告したからな」
 高宮が嬉しそうに、軽く前足でステップを踏み始めたその時だった。

「徹ちゃん、リーたん!」
 能天気な大声が、学食中に響き渡った。
「早く来てよ、さっきから待ってるんだから。貧血で倒れたりしたら、徹ちゃんどう責任取ってくれんのよ!」
 場の雰囲気など全く気付かぬように、楠ノ瀬麻紀が大股で近付いてきた。

 徹の耳とリタの手を取り、客扱い慣れした笑顔で徹たちを連れ去っていく。徹は、思わず間の抜けた悲鳴を上げながら、楠ノ瀬の後を追った。リタも、突然出現した楠ノ瀬に諾々とついていく。
 高宮も、毒気を抜かれたように立っていた。

「高宮に有為ちゃん、またね」
 振り返った楠ノ瀬の言葉に、観客達が安堵とも失望とも取れぬ溜息を漏らした。

   * * * * * * * *

 告

 本年度の連は以下の通りとする。

…………
 リタ=グレンゴールド(一年一組) ― 藤原徹(二年三組)

…………
 杉山想平(一年二組) ― 荻原有理(二年三組)

…………
 荻原有為(一年三組) ― 高宮武(二年三組)

…………
 楠ノ瀬麻紀(二年三組) ― 瓜谷悠(三年三組)

…………
 
 以上

 五月一日
 参宮学園高校 事務局

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第二章 向日葵/ 闇の中で人々を喰らっておる (向日葵0)

2008年10月23日 01:58

 かつて、参宮学園が弦桐寺と呼ばれていた頃の話である。

 その年の霜月、鬼門岳が噴火した。
 億千万の雷鳴の如し、そう記された大爆発だった。黒き石砂が一昼夜振り続けたという。噴火から既に数ヶ月、年が明けても余震は収まらなかった。
 
 やがて、奇妙な噂が流れ始めた。
 曰く、夜な夜な凶獣が徘徊している、と。
 曰く、近隣の村々からいつの間にか住民が消えている、と。

 そんな中、葛原家の若き当主、葛原貞義のもとに一人の男が訪れたのは如月のことであった。

「では、そなたはこの日本が異界と繋がってしまったというのか」
 四十畳程はあろうかという部屋に男と二人。上座に腰を下ろした貞義の言葉には、明らかな嘲笑が混じっていた。口髭を弄りながら冷ややかに尋ねる。一方の訪ねてきた男はと言えば、頬は削げ目は窪み、その憔悴ぶりは誰の目にも明らかであった。

 全身埃塗れの男は真剣な表情で、ひび割れた唇を開いた。
「鬼門岳は古くより、現世と冥界とを繋ぐ門として知られた霊峰。それが裂けて何事も起こらぬ方がむしろ不思議かと」

「それで、我らに一体何をしろと言うのか」
 横柄とも取れる態度を崩さぬままの貞義に対し、男は畳に擦りつけんばかりに深々と頭を下げた。
「宝玉を拝借致したい」

 ぴくりと左の頬を動かした貞義に対し、男はそのままの姿勢で言葉を継いだ。
「葛原家に伝わる宝玉の噂は、我が地まで届いておられる」

「ただの噂だ」
 貞義の答えはにべも無かった。
 そんなはずは――思わず頭をもたげる男に貞義は不快そうに言い放つ。
「葛原家当主の言葉を信じられぬというか」

 男は慌てて首を振りつつも、貞義の真意を図りかねていた。が、当の貞義は、既に男から興味を失ったかのように立ち上がると男の後方に声をかけた。
「客人は今日は泊まっていかれるそうだ。部屋をご用意してさし上げよ」

   * * * * * * * *

 その夜、床に就いた男は、部屋の外に佇む気配に気付いた。
 黙って傍らの刀に手を伸ばすと、障子の外から声が掛かった。
「先程の話、続きを聞かせてくれぬか」

 当主の貞義の妹、葛原木蘭が立っていた。
 胸の辺りまでかかる豊かな髪は見事なまでに銀色に輝き、肌は陽の下に出たことがないかのように白い。只でさえどこか人ならぬ印象を与える姿だが、揺るぎない瞳と相まって、闇に浮かぶひと振りの鋭利な刀を連想させた。

「そなたは宝玉で何をするつもりか」
 木蘭の問い掛けに咄嗟に男は左右を見渡した。冷え冷えとした板張りの廊下には他に人影は無い。上限の月も雲にその姿を隠しており、濃密な闇が庭先に広がるだけである。

 未婚の娘を夜更けに部屋に招き入れる行為。まかり間違えば如何なる咎となるのか、わからぬ男ではなかった。男は暫く木蘭の瞳を見つめていたが、やがて決心し木蘭を招き入れると口を開いた。

「音に聞こえた夢見の宝玉で、我が命と引き換えに凶獣を封じるつもりであった」
 凶獣、その聞き慣れぬ響きに木蘭が訝しげな表情を浮かべる。年の頃は貞義より十歳は下であろうか。改めて近くで見ると、ふとした表情に少女の面影も残っているが、かといって男と二人で怖じる様子もない。

「闇の中で人々を喰らっておる。自分も凶獣が娘を咥えたまま消える姿を見申した」
 真剣な面持ちで男は続けた。
「草木は枯れ果て人々は飢え、凶獣が徘徊する。地獄絵さながらでござる」
 何が脳裏に浮かんだのか一瞬男の唇が震えたが、直ぐに元に戻った。

「その化け物の数は、どの程度か」
 一頭と答える男に対し、木蘭は訝しげに眉を顰めた。

「たかが一頭、人数を集めて討ち取ることは適わなかったのか」
 もっともな疑問を口にした木蘭に対し、男は静かに答えた。
「我が一族の男は、もはや我が身を含めて片手にて足る数にまで減り申した」

 思わず目を見開いた少女に構わず、男は続けた。
「あれは闇が形を取った魔性の獣。煙と同様、幾ら切り裂いても傷を与えることが出来申さん。総力を挙げて挑んだものの打ち滅ぼせず、恥を忍んで参った次第」

 その言葉の意味する衝撃的な事実に、木蘭は口を真一文字に結んで柳眉を寄せる。
 部屋の僅かな灯りが、その玲瓏たる美貌と老婆のような銀髪に微妙な陰影を与える。

(凶獣が異界のものであれば、この娘もまた夢幻か――)
 男にとって、そう思わずにいられない光景であった。

 不意に木蘭の双眸に強い光が宿った。
「承知した、宝玉をお貸ししよう」
 思わず膝立ちとなる男を制し、木蘭は言葉を続けた。
「とはいえ、葛原家の家宝をみだりに預けるわけには行かぬ。私が参ろう」

 男は木蘭の言葉に息を呑んだ。
「とてもそのような……女人が足を踏み入れるような地ではござらぬ」
 だが、木蘭は僅かに目を細めただけであった。男がなおも何か言いかけようとしたその瞬間、木蘭は立ち上がった。
「十五日までにそちらに伺おう。兄上にはこの話、内密に」

 返事も待たず、銀髪の少女は姿を現したときと同様、音も無く去っていった。

(あれが葛原の鬼娘殿か――)
 男は、いつの間にか顔を出した月を見上げて深く息を吐いた。

うーん、男らしくないぞ (向日葵1)

2008年10月24日 02:38

 連の組み合わせが決まると、暦はゴールデンウィークである。

 徹が帰り支度をしていると、するするっと荻原有理が寄ってきた。これから部活なのだろう、赤いスポーツバッグが膨らんでいる。
 徹は反射的に教室を見渡して高宮がいないことを確認した。と同時に、そんな反応をした自分に落ち込む。

「ライバルのオギワラユリが、何の用だい」
 徹が自己嫌悪から立ち直ろうとしながら尋ねると、有理は目の前で軽く拝む仕草になった。相変わらず有理の対人距離は、徹よりかなり近い。
「ゴールデンウィーク空いてる?」

(これはもしかして)
 途端に心臓の鼓動が倍になった。
「空いてるよ」
(平静を装うことがこんなに難しいなんて)
 徹は唾を飲み込んで、有理の次の台詞を待った。

「一緒に遊びいかない? ゴールデン・ウィークに仲良くなるのって連の基本なんだけど、やっぱり何組か一緒の方が自然なんだよね」
 有理の誘いに、徹は思わず声が裏返った。
「い、いいけど。みんなの予定合わせるの大変じゃない?」
(だから、二人で出掛けようって)

 徹は必死に電波を送る。そんな真剣な顔つきを不安の表れと誤解したのか、有理は腰に手を当ててると任せろとばかりに胸を張った。
 確かに荻原有理の胸は大きくなかった。
 だが、そんなことはこの際、問題ではない。全くもって問題ではない。

「既にオギワラユリが根回し済だから、大丈夫」
「へ?」
 徹は間の抜けた声を出した。有理は徹の反応など無頓着に続ける。
「みんな、五月三日だったら空いてるって」
(みんな……みんなってことは……みんなってことは)

「リタも?」
「リタちゃんも」
「杉山も?」
「杉山君も」
 声が小さくなっていく徹に、有理が大きく頷いた。

「もしかして、俺に最後に声掛けた?」
「あ、徹君ちょっと暗い顔した。うーん、男らしくないぞ」
「……押忍」

まずは出発だ (向日葵2)

2008年10月25日 03:12

「明るい、男女交際~」
「瓜谷さん何ですか、その歌は」

 結局、五月三日は、徹の連と荻原有理の連、楠ノ瀬麻紀の連の三組で公園に出掛けることにした。
 決まってまず徹がしたことは、服を買いに行くことだった。上から下まで揃えるのは予算的に無理だったので、悩みに悩みシャツを選んだ。家に戻ると、間の悪いことに姉の望とばったり玄関で出くわした。紙袋を抱えた徹を見ると、望は意地の悪い笑いを浮かべて自分の部屋に戻っていったのだった。

 徹はそんなことを思い出しながら、瓜谷と並んで立っている有理を横目で見る。
 有理は待ち合わせの場所に、自転車で現れた。
「遅刻しそうになって焦っちゃった。髪の毛ばさばさ」
 有理は、額の汗をハンカチで軽く押さえて笑った。

「あれ、リタちゃんは?」
 徹が首を横に振ろうとしたところに丁度、濃緑色の外車が静かに止まった。ブロンド女性の運転手が外に出ると後部座席のドアを開ける。そこから赤い髪の少女が黒いロングスカートをふわりと翻して降り立った。
 歓声を上げて迎える徹たちに目で頷くと、今度は運転手に英語で言葉を掛ける。運転手の女性は、気をつけてと言ったのだろうか。一言二言リタに告げると車で去っていった。

「リタちゃん、綺麗!」
 有理が賞賛の声を上げる。リタも、セシルと呼ばれた女性ほどではないが背が高い。赤い髪が太陽の光を受けて輝き、白いシャツに映えていた。洋服が欧米人のためにあることを実感する。
 そうこうするうちに楠ノ瀬麻紀と車椅子に乗った杉山想平もやって来て、全員が揃った。

「で、これから呼ぶ時は、藤原とリタちゃんでいいかな」
 瓜谷が皆の前で早速声を掛けてくる。リタと徹が頷くと、瓜谷は徹を見て顔をしかめた。
「おい頼むぜ藤原。ここは『僕のことは徹ちゃんって呼んでくれないんですか』って返すのが基本だろ」
 瓜谷が額にかかった、男にしては長いその髪をかき上げる。年の差こそ一つだが、私服の瓜谷は遊び慣れた大学生にしか見えなかった。

 徹が口を開く前に有理が笑顔で答えた。
「いいんです。徹君は突込みよりもいじられるほうが味が出るから」
(オギワラユリ、そんなこと言うか……)
「そうそう。それに徹ちゃんを『徹ちゃん』って呼ぶのはあたしだけで十分」
(楠ノ瀬……よくわかんないよ、それ)
「なるほど」
(リタ……何にどう納得したんだよ)

「今日は、先輩方ありがとうございます」
 少女たちが徹をからかって話を続ける中、ごく自然に杉山想平が入ってきた。ようやくの助け船に、喜んで徹が応じる。
「礼を言うことじゃないって。一度杉山とも話してみたかったし」
 その言葉に瓜谷と楠ノ瀬も頷いた。

「本当ですか。でも――」
 そう言って杉山はリタを見上げた。メタルフレームの奥の瞳が好奇心に輝いている。
「リタ、君こそ今年の注目株だよ」
 杉山が車椅子から身体を起こし、眼鏡を押し上げる。リタは杉山を真直ぐ捉えながら言葉を返した。
「私のクラスでは、お前が最もナンバーワンに近いという評判だぞ」

 杉山は、途端に顔を輝かせた。
「聞いた? 有理さん、僕に声を掛けられてラッキーでしょ」
 得意げに振り返る。一見、優等生風だが仕草に愛嬌もある。有理にも大分馴染んでいる様子が窺えた。

「うん、ラッキー」
有理も楽しげに返事をすると座が湧き、瓜谷は短く口笛まで吹いた。
「よし、もう自己紹介はいいだろう」
 瓜谷が一同を見廻すと、指を南の方角に向けた。その先には爽やかな五月の空が広がっている。

「まずは出発だ」

――って聞いてる? 徹君 (向日葵3)

2008年10月26日 00:26

 六人は瓜谷を先頭に、歩いて十五分ほどの久我瀬公園へ向かった。
 久我瀬公園は、綺麗な芝生が広がる県立公園である。最初は遊園地や映画の案もあったが、杉山想平が車椅子であることと、楠ノ瀬麻紀がお弁当を作りたいと主張したこともあってピクニックとなった。

 徹には意外だったが、楠ノ瀬の家は母親が料理教室を開いていて、麻紀本人もかなりの腕前とのことだった。
「徹君、幸せねぇ。麻紀ちゃんの手料理はおいしいって評判なんだよ」
「でもあたし、実はお菓子の方が得意なんだ。ケーキとか」
「私も甘いものは好きだ」

 コンビニでペットボトルと紙コップを買い込んで公園に着くと、もう十二時を回っていた。空には雲一つなく、背中に軽く汗が滲む。
「いい天気でよかったな、リタちゃん」
 シャツの袖を捲り上げた瓜谷が、隣のリタに相槌を求める。
 
 瓜谷は、当初の印象ほど背が高いわけではなかった。身長だけであれば高宮の方が高い。だが、形のいい小さな頭と鼻筋の通った顔、引き締まった長い手脚とが相まって、見る者にどこか日本人離れした印象を与える。リタと並んで見劣りしないその姿に、徹は一層その思いを強くした。
 
 一方のリタは瓜谷の容姿など全く無関心な様子で、淡白な返事を返す。
「そうだな、瓜谷の言うとおりだ」
「今日は三十度近くなるんじゃないか」
「ああ、暑いな確かに」
言葉とは裏腹に、リタは汗一つかいていない。瓜谷は苦笑して肩をすくめた。
「リタちゃん、もうちょい話のつながる相槌うってくれよ」

リタは心外だとばかりに瓜谷を一瞥すると、口を開いた。
「わかった。では、日本の五月の平均気温はどのくらいだ?」
「……いや、そんな話の転がし方じゃなくて」

 少し離れた芝生の上では、楠ノ瀬と杉山が楽しそうに話している。徹は有理と、大木の下に座っていた。有理は鹿の子のポロシャツに股上の浅いデニムのブーツカットを穿いている。並んで座ると腰から肌が覗き、徹はそれだけで落ち着かなかった。

「――って聞いてる? 徹君」
「あ、ごめん。何?」
 有理が形のいい眉を寄せていた。

 澄んだ空からは木々の葉を揺らすように微風が吹いており、肌だけでなく耳にも心地が良い。横に座る徹の元には、風に乗って微かに有理の黒髪の匂いが届く。
 艶やかな髪からは、金木犀に似た匂いがした。

「こないだ有為達が迷惑かけたでしょ、学食で」
 有為に「カッコ悪い」と言われた記憶が蘇り、耳が少しだけ熱くなる。
「いや、問題は有為ちゃんっていうより、高宮の馬鹿で」
 慌てて体の前で手を振る徹に、有理は申し訳なさそうな顔になった。

「御免ね。あいつ焼餅焼きで」
 徹はその言葉に引っかかった。嫌な予感に顔を顰めたが、有理は徹の変化に気付かない。
 
「あいつって、有為ちゃんじゃなくて、うちのクラスの高宮?」
 恐る恐るの問い掛けに、有理が首を縦に振る。徹は何かの間違いであって欲しいと祈りながら、話を続けた。ついさっきまでの幸せな気分は、どこかへ消し飛んでしまっていた。

「がっちりしてて、手に拳ダコとかあって――」
 徹の問いかけに、さして嬉しくもなさそうに有理が相槌を打つ。
「そうなの。あいつ、空手の全国大会準優勝だから」

 全国大会準優勝。本来ならさらっと流すような単語では無いのだが、有理の真意が気になる徹は、あえて先を急いだ。
「……その高宮が焼餅焼きで、困っちゃうって?」
 思わず語尾の震えた徹に対し、有理は物憂げな顔で死刑宣告した。

「あたし、つきあってるからってすぐ束縛する奴って、駄目だと思うんだ」

僕たち決めたんです (向日葵4)

2008年10月26日 23:05

「いやあ、楽しかった」

 瓜谷が両脇を見回す。並んでいた徹は杉山の車椅子を押しながら頷いた。夕日が六人の顔を正面から照らす。久我瀬公園から駅へと向かう欅の並木道、今までひとしきり遊んでの帰り道だった。自分たちの影が後方へと長く伸びている。

「でも、ちょっと焼きすぎちゃった。こんなに晴れると思わなかった」
 有理が困ったように自分の両腕を触ると、瓜谷が「俺もお肌が心配」と話を合わせる。楠ノ瀬が声を出して笑った。
「面白い男だな」
 リタが、瓜谷の引き締まって褐色に焼けた肌と、長い茶色の髪をしげしげと眺める。

 今日こうやって来たこと自体は、正解だったと思う。
 聞けば参宮学園の生徒は、こうして毎年ゴールデンウィークに出歩くのだそうだ。確かに、公園には見知った顔が何組か来ていた。
 
 結局、有理とは昼間以降、話の続きをすることはなかった。
 それでいいと思う。何かを期待した自分が愚かだった。傷が浅くて、勘違いが大きくならなくてよかった。
 
 だが、そんな風にしか思えない意気地の無い自分が心底嫌だった。横では、そんな徹の心の内など気付くことなく、有理とリタが楽しげに話を続けている。
 徹が深呼吸をして気持ちを入れ替えようとした、その時だった。

「明日からだね」
 杉山が車椅子からリタに呼びかけた。徹の機先を制した――そう表現するに相応しいタイミングであった。
 リタは杉山の言葉を予想していたらしい。何が、とも聞かずに目で同意する。

「何だ、お前ら駅まで待てないのか。若い奴はせっかちだな」
 瓜谷もからかっているようで、やはりわかっているらしい。徹は有理を盗み見ると、少し寂しげだったが、直ぐに演武前の真剣な顔つきに変わった。

「私達はナンバーワンを狙うことに決めたの。確かに競争相手は多いけど、負けない」
 有理は一呼吸おくと、言葉を続けた。
「私達が一番のライバルだと思うのは、貴方達」

 瓜谷はふてぶてしく薄ら笑いを浮かべ、その言葉を聞いている。リタは、対照的に軽く顎を引いて口を一文字に結んでいる。
「僕達決めたんです。僕達が認めるライバルたちに、正々堂々と宣戦布告しようと」
 杉山が毅然とした態度で有理の後を継いだ。ほっそりとした色白の頬を、少しだけ紅潮させている。

 瓜谷がごりっと頭を掻くと、車椅子を押している徹の横に立った。杉山と、その後ろでどう答えていいか分からず視線を左右に走らせている徹の、それぞれの肩に手を置いた。
 いや、置いただけではない。そのまま大きな手にぐいっと力を込められた。

「いいぜ。勝負したければ気合入れて来い」
 瓜谷は腕に力を込めたまま、入学式でリタに見せたあの笑顔を浮かべていた。
 徹は、とか何とか言って――と誰かが混ぜっ返すことを期待したが、誰も何も言わなかった。楠ノ瀬さえも、ま、しょうがないか、そう呟いただけだった。

 そのまま六人は、胸にそれぞれの思いを抱いたまま駅まで無言で歩いた。徹自身、数え切れないほど自問自答を繰り返したが、結局、思いを口にすることは無かった。
 ほどなく駅に着くとお互い短く挨拶をして、家の方角へと別れていく。

 きっと徹は、一番情けない顔をしていたに違いなかった。一人、二人去る中で、その場から離れられず立ちつくしている。既に歩き出していた有理が、振り返って溜息をついた。
 ――と思ったら突然駆け寄ってきて、徹の耳元に唇を寄せた。
 徹は一瞬にして固まる。

「有為なんかに負けたら、許さないからね」
 そう囁いて、有理は再び駐輪場へと走り去っていく。
 黒髪からは、やはり金木犀の匂いがした。

 傍らでリタが僅かに口を尖らせたが、徹は有理の後姿をただ眺めていた。

ま、それが普通の反応だよね (向日葵5)

2008年10月29日 00:30

 何で学校には試験があるのだろう。
 何で学期毎に試験があるのだろう。

 学校の数だけ、生徒の数だけ繰り返されたはずの台詞を呟きながら、徹は教室の机に向かっている。早いもので、六人で公園に行ってから三週間。あっという間に一学期の中間試験である。

 転校して自分の成績の居所が分からない徹としては、不安な一週間である。ナンバーワンの連を選抜するのに、成績も重要であることは間違いなかった。互いに学年一位の杉山想平と荻原有理が組むことは、それだけで脅威らしい。

 公園に行って以来、有理とは踏み込んだ会話が出来ていなかった。リタとも、まずは試験に集中しようと、放課後に会うのを止めていた。リタはイギリスでは相当優秀だったらしいが、国語は勿論のこと、日本の文系授業への対応には限界がある。ここは徹が頑張るしかない。

 数学の試験を五分ほど時間を残して解き終え、徹は考える。
 何故、みんなナンバーワンの連を目指すのだろう。

 いや、この表現は正確ではない。
 ナンバーワンを目指している連は、実のところそれほど多くない。学園で百八十組のうち、本気なのは十組もないかもしれない。残りの連は、あわよくば、という程度だろう。

 宝玉を手に入れると、どうなるというのだろうか。
 昨日、ついに疑問に耐え切れず楠ノ瀬麻紀に聞いてしまった。過去二年連続ナンバーワンの瓜谷悠と組んだ、今や「本命」の楠ノ瀬にである。

 そこで徹は初めて知ったのだが、ナンバーワンに選ばれると、翌年度の学園祭と体育祭の一部を自由に決められるということだった。

 参宮学園は夏に学園祭、秋に体育祭がある。学園祭は夏休み前の最終週の土日に開催される。一方、体育祭は十月の体育の日だ。前年度ナンバーワンの連には、学園祭で前夜祭を、また体育祭で午後の種目を自由に企画できる特権が与えられる。

 要は、今年度は瓜谷が学園祭の実行委員長を務め、有理が体育祭の実行委員長を務めるということなのだ。

 翌年のイベントを企画できるのか――そう納得した後で疑問が湧く。
「でも、連に三年生がいた場合は?」
「ああ、そういう意味では、その人は卒業するから何もなし」

 思わず、それって不公平じゃないかと言いかける徹を、楠ノ瀬は制した。
「でもね。夢が叶うらしいよ」
 現実的な楠ノ瀬には、似つかわしくない台詞だった。徹の口を開けた表情を見て、楠ノ瀬は皮肉っぽく鼻に皺を寄せた。

「ま、それが普通の反応だよね。きっと徹ちゃんもナンバーワンになれば分かるよ」
「それって一体――」
「おっと、ライバルに口を滑らしちゃうとこだった。じゃあねぇ、徹ちゃん」
 楠ノ瀬は、思わせぶりな口振りのまま去っていった。

 確かに、好きなイベントを企画するのは面白いに違いない。杉山想平はこのタイプだろう。
 そんな特典がなくても、勝負に勝ちたい奴だっているだろう。これは高宮の馬鹿か。

 でも、リタはそうじゃない。きっと本当に夢を叶えたいんだ。

 そこまで昨日のことを思い出したところで、試験の終わりを告げる鐘が鳴る。これで中間試験も全て終了だった。
 徹は本屋に寄ってから、稽古に行くことにした。

   * * * * * * * * 

 稽古が終わって師である鳴神静瑛の家を出ると、午後九時を回っていた。飯でも食っていけ――そんな誘いに、つい長居してしまった。
 徹は帯を畳んでリュックにしまうと、静瑛の家を出た。引越して、道場から自宅までの距離も随分近くなり、徹はトレーニングの為にジョギングで帰っている。
 
 徹の自宅までは、途中で西砂の繁華街を抜ける必要がある。 徹はトレーニング・スーツ姿で歓楽街を黙々と走っていたが、不意に聞こえてきた悲鳴に立ち止まった。

 同世代の少女の声だった。
 空き缶の転がる音と一緒だった。そして男達の低い声。

 徹は躊躇った。
 繁華街ではよくある光景に違いない。君子危うきに近寄らずだ。いや、そもそも空耳だったか。
 立ち止まって耳を澄ましたが、もう少女の悲鳴は聞こえてこない。

 十秒ほどそうしていただろうか。軽く額の汗を拭い、再び走り出そうとして――
 その時、確かに聞き覚えのある声がした。
 今度は短い悲鳴だった。

 徹は衝動的に走った。その声が誰のものか思い出せないまま走った。塀越しだが、声は近い。キャバクラの脇を曲がり、煙草と酒の匂いのする男達の集団をすり抜ける。

 そして、徹は目指す相手を見つけた。

鬼ごっこはおしまいか? (向日葵6)

2008年10月29日 23:34

 荻原有為は、西砂の雑居ビルの前で高宮たちと別れると、一人で歩き出した。

 試験も終わったことだし、ぱっと行こうぜ――高宮の誘いに乗って、さっきまでカラオケボックスで歌ってきたところだった。有為のクラスメイト二人も一緒である。二人とも高宮のファンだという。

 確かに高宮はハンサムだ。少し自惚れが強過ぎるとは感じるが、有為自身も男は自信家のほうが良いと思う。うじうじしている奴を見ると、イライラする。
 そこで何故か、有為は姉のクラスメイトを思い出した。

 年下の少女に庇ってもらって、耳を赤くしていた男。

(だっさい――)
 有為はそう呟くと、カバンを抱えなおして路地を歩く。高宮は送っていこうと言ったが、代わりにクラスメイトのことを頼んだ。
「あたしなら気にしないで。昔は有理と一緒に合気道も習ってたし」
 だが、いつからか三人の男が後をつけてくることに気が付いた。

 三人とも大学生くらいだろうか。酒でも飲んでいるのか、にやけた笑いを張り付かせて近付いてくる。有為は自然と早足になったが振り切れない。走り出そうか迷っていると、不意に男の手が後ろから有為の腕を取った。

「ねえ、彼女。俺達と遊ばない?」
 有為は黙ったまま、乱暴にその手を払って歩き出す。

「痛え! 骨折れちまったよ」
 ドレッドヘアの男の大袈裟な声に、唇にピアスをつけた男が困ったように肩を竦めた。
「おいおい、どうしてくれるんだよ」
 スキンヘッドの男が自分の前に回り込む。

 決して人通りの少ない道ではないが、サラリーマン達はこの光景が見えないかのように、顔を背けて立ち去っていく。有為は男たちを睨みつけて脇をすり抜けようとしたが、横のピアス男に腕を押さえられた。

「まあ急ぐなって。それとも美人のお友達でも呼ぶか」
 そう言って下卑た声で笑う。
 有為は唇を噛締めると、もう一度男の手を振り払って脇道に入ったが、男達も嬌声をあげながら有為を追いかけて来る。有為は軽く舌打ちすると、路地を曲がり、雑居ビルの間を走り抜けた。

(交番か、せめて、コンビニでもあれば)
 そう思って走るが、こんな時に限って酔客相手の店ばかりで見つからない。大通りに一直線に向かわなかった判断の悪さを呪う間もなく、有為は路地裏に追い詰められてしまった。

 そこは雑居ビルのゴミ置き場だった。
 男達も有為も肩で息をしている。有為の栗色の髪の毛は額に張り付いてしまっていた。一方、男達はこれから起きることを想像して、濁った目を血走らせている。

(屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ。一人では何も出来ないくせに、昼間は何も出来ないくせに、酒を飲まなければ何も出来ないくせに――)

「いい加減にしてよ、警察呼ぶわよ」
 そう言って睨んだとき、一人がナイフを出すのが見えた。思わず足がすくんだ。
(こいつら慣れてる――)

 途端に声が喉に絡んで、小さくなる。
「た、高宮先輩」
 その声はもはやか細く、路地裏の喧騒に吸い込まれた。

 男達が距離を詰める。一歩下がろうとした有為は何か足を取られ、思わず小さな叫び声を上げた。
 スキンヘッドの男の舌なめずりが目に入り、嫌悪感から無意識に身震いする。カバンを胸の前に抱く。

「鬼ごっこはおしまいか?」
 男達は既にズボンの前が怒張していた。ドレッドヘアの男が、これ見よがしに指で車のキーを回す。
「彼女、俺達と遊びに行こうぜ」
 反射的に有為は、男の手を払いのけた。

「何すんだ、このガキ!」
「いいから、さっさと積んじまえ!」
 群がる男達に有為が悲鳴を上げたその瞬間、トレーニング・スーツの徹が飛び込んできた。

   * * * * * * * *
 
 相手は三人。一人はナイフを持っている。
 咄嗟にそれだけ確認すると、徹はナイフを持った男へ疾った。

「な、何だこの野郎!」
 薄汚れた長髪を振り乱し、ピアス男は徹にナイフを向ける。
 先ほどの稽古の通り、無意識に体が動いた。

 自分の左腕でナイフを持った男の右手を制しながら、掌でナイフを押さえる。その手の上に自分の右掌も重ね、身体を開きながら男の手首の関節をねじりきる。
 ぶちり。
 徹の耳に、聞こえるはずのない音が響いた。

 唸り声を立てて男が右肩から横転する。それを見届ける間もなく、スキンヘッドに向かった。呆然と立つ、その懐に低く飛び込む。
 ずくっつ。
 徹は左肘をスキンヘッドの鳩尾に入れ、続けて左拳を顎に撃つ。仰け反る相手の後ろに回り、両手で肩を後ろに引き倒す。背中をアスファルトに打ちつけたスキンヘッドは、そのまま失神した。

 あと一人。
 ようやく自分の置かれた状況を認識したドレッドヘアの男は、全身を震わせていた。
 怒りか、それとも恐怖なのか。

「て、てめぇ」
 頭一つ高いその顔は歪み、声は裏返っている。だが、徹は男にそれ以上の時間を与えなかった。腰を落として襲い掛かる徹に、男は泣くような奇声を発しながら、警棒に似た武器を振りかざしてきた。

 ざん。
 ドレッドヘアを巻き込む竜巻のように、徹は両腕を上げて背後に入る。

 左腕を下ろしながら男のこめかみを押さえる。右腕は相手が振り下ろした警棒を追いかけながら、上から被せる。ソシアル・ダンスのように二人の動きが同調したその直後、ドレッドの首をぐりっと捻った。
 警棒を振り下ろす勢いを加速させられた男は、潰されるように崩れ落ちた。
 
 この間、二十秒余り。
 もう、立っているのは有為と徹だけだった。
 有為はカバンを両腕で胸に抱いたまま、白い顔で唇を震わせている。
 
 徹は黙って、目の前に手を差し出した。

二度とこの子に手を出したら許さない (向日葵7)

2008年10月30日 22:55

 二人は夜の街を無言で歩いている。

 あの後、徹は地面に転がっている男達から、自動車免許を取り上げた。
「コピーを取ってから近所のコンビニに預けとく。二度とこの子に手を出したら許さない」
 徹の言葉に、男達は血走った目で睨みつめるだけだった。

 コンビニでコピーを取ると、三枚の免許証を落し物だといって、レジのアルバイトに預けた。ついでに買った缶コーヒーを持って、外に出る。
 そのまま二人で歩くうちに、いつしか景色は繁華街から住宅街へと変わった。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っている。車通りも無く、家路へと急ぐ自転車が何台か追い越していくだけである。曇っていて星は見えず、湿気を帯びた風が微かに夏草の匂いを運んできた。

 有為は徹を振り返ろうともせず、肩を怒らせて大股で歩いている。制服のリボン・タイが左に大きく曲がったままなのにも、気付いていない。
 
 徹自身も、何と声を掛けてよいかわからず一歩遅れてついていった。送って欲しいと言われたわけではないが、このまま一人で帰すわけにもいかない。何か言葉をかけようかとも思うが、かといって何と言っていいかもわからない。

 徹は、途中から面倒なことを考えるのをやめにした。ただ有為の後を歩きながら、時に夜空を見上げ、時に有為の背中を眺める。
 二人は結局、一言も喋らないまま有為の家の前まで辿り着いた。
 
 荻原――その家の表札を確かめて徹は安堵した。
 あとはこのコピーを渡せば終わりだ。
 だが、有為は門の前で足を止めると、そのまま動かない。自宅の門灯に照らされた有為の後姿は、癇癪を起こしている子供のようだった。

「何で……」
 有為が不意に振り返ると口を開いた。今日会ってから最初の言葉だった。
 「何で、学校では弱い振りして……」

 咎める口調であった。何か返事をしようものなら、堰を切ったように疑問と怒りとが噴き出すに違いなかった。徹は一瞬迷った後、有為の問いに答える代わりに男達の免許証のコピーを差し出した。

「お父さんに相談するといい。それと」
 ――膝、消毒しなよ。
 それだけ言うと、コーヒー缶と一緒に有為に押し付ける。

 いつ擦りむいたのか、有為の右膝から血が滲んでいる。有為が指で軽くなぞり、その感触に顔を顰めながら顔を上げた時には、既に徹は走り出していた。

 有為の手に、免許証のコピーと缶コーヒーが残った。

俺は司会だ (向日葵8)

2008年11月01日 20:20

「ふ、藤原。凄いじゃないか」
 ざわつく朝の職員室前、桐嶋が相変わらず太い眉毛をハの字ににして話しかけてくる。その尖った頬骨の上の目尻には、友人の意外な実力を知って素直に喜ぶ笑い皺が浮かんでいる。
 中間テストの翌週、職員室前の廊下には各学年の上位二十位が貼り出されていた。
 
 徹は学年五位だった。前の学校でも同じくらいの順位をキープしていたことを思うと順当といえるが、やはり嬉しい。
 学年一位は荻原有理だった。
 何事も一位とそれ以下では全く違う、徹はそう思っている。さすがに強敵だと思う。
 だが徹は、我が事のように嬉しかった。

「で、桐嶋は何位だよ」
 このぐらいのリスクある突っ込みが出来る程度には、桐嶋とも馴染んだ。
「き、聞くな」
 二人はお互いの脇腹を軽く殴り合いながら、廊下を歩く。

 一年生の学年一位は、二位の杉山想平を僅差で抑えて荻原有為だった。
(やる時はやるんだ)
 徹は、試験最終日の夜を思い出した。その翌日、有為は徹の教室に来て
「一応、お礼を言っておくから。貸しだなんて間違っても思わないで」
 睨むように言って、足早に去っていった。

 こういうときは、まず、ありがとうと言うんじゃないだろうか。徹は呆気に取られ、そして可笑しくなった。
 有為らしい。強情で我侭で、それでいてどこか姉の有理に似ていて。
 知らずに徹は廊下の前で思い出し笑いを浮かべた。

 リタも十四位に名前が載っていた。国語や日本史にハンディがあることを考えると、大健闘である。
「よし、次は学園祭だ」

 中間試験が終わると、学園祭の準備が始まる。
 参宮学園の創立記念日は七月十七日。昔、この日に誰が何をしたのかなど、気に留める生徒はいない。重要なのは、その週の土日は学園祭だという事実だ。

「生徒の生徒による生徒のための学園祭」であり、一年で最大のイベントである。今年は瓜谷が実行委員長となり、瓜谷と今年の連を組んでいる楠ノ瀬麻紀が副委員長となった。

 実行委員会は、七つの連がくじで選ばれる。徹たちも偶然くじで選ばれ、委員として作業を行うことになった。
「やっぱり徹ちゃんとは、運命の糸が繋がってるのかなあ」
 隣の席からの聞こえよがしの独り言は、無視することにした。

 実行委員会以外の連が、他の連と組んで展示や活動を行う一方、実行委員会は昼間は裏方として徹し、その代わり前夜祭で弾ける。
 前夜祭は実行委員長の企画で学園祭を盛り上げ、後夜祭は学園祭最高のチームを実行委員会が表彰するのが恒例だった。

   * * * * * * * *

「俺は、前夜祭で仮装パーティーを行おうと思う」
 放課後、三年の教室で実行委員会の打ち合わせの席上、瓜谷がいつもの調子で宣言した。春先より更に日焼けした褐色の肌に、白い歯が目立つ。

「面白そう!」
 徹の隣の二年生が、すかさず声を上げる。徹たちは空いている席にばらばらと腰を下ろし、壇上では瓜谷が、徹たちの反応を楽しむように教卓に片肘をついていた。

 徹はリタの方を盗み見た。リタは、瓜谷の真意を見極めるかのように前方を見つめており、その顔からは賛意も拒否も読み取れない。
 次に楠ノ瀬麻紀を見ようとして、楠ノ瀬本人と目が合った。人の反応を気にするよりも、徹ちゃん自身はどう思ってるの――そう顔に書いてあって、徹の耳が赤くなる。

「徹ちゃんって分かり易いよね」
 意地の悪い声を出す楠ノ瀬に、恨みがましい視線を投げ掛けた後、徹は前を向いた。

「仮装パーティーって、仮面舞踏会みたいなのか?」
 実行委員の三年生が手を上げる。
「ハロウィーンみたいなのですか?」
 今度は一年生だった。黒板を背にした瓜谷は、乗ってきたなとばかりに歯を見せた。

「楠ノ瀬とも相談したんだが、生徒全員でカーニバルみたいなのをしよう。仮装させた生徒を二組に分けて、俺らがそれぞれのチームリーダーになって真っ向勝負をしようぜ」
「仮装っていっても、怪しいマスクを被るようなのじゃなくて、カッコいいやつだから」
 楠ノ瀬が補足する。

「早速、実行委員会を二チームに分けるぞ。くじ引きとジャンケンでどっちがいいか?」
 瓜谷は話が強引なくらい早かった。それでいて、くじ引きかジャンケンか選ばせるあたりがうまい。

 結局くじ引きでチームを分けた。プリティー・チームは楠ノ瀬麻紀を含めて女子だけで五人、ファイヤー・チームは徹とリタを含む五人になった。ほかに照明と音楽、会場運営で五人の計十五人である。
 瓜谷は「俺は司会だ」ということだった。

盆踊りでも没問題 (向日葵9)

2008年11月03日 21:19

「私はあなたがとっても大好き。その顔、その声、その瞳。ハート・マークでもう最高! 夢見る恋に身悶えしながら、だけど何故だか不安なの。ううん、あなたと一緒なら、どんなことでもオッケーよ!」

 梅雨も明けようという、学園祭前日の七月十六日。徹達は放課後の音楽教室で、前夜祭の最後の追い込みに入っていた。
 プリティー・チームが必死になって、歌詞にあわせて振付を揃える。

「そこで倉知と楠ノ瀬が投げキッス。だから倉知、もっとオーバーアクションだって」
 瓜谷の指導の下、少女達が制服のスカートを翻しながら踊る姿を、徹はぼんやり眺めていた。

 最初に見たときは、楠ノ瀬の妙に色っぽい仕草や他の子たちの恥ずかしげな表情に釘付けになったが、何十回ともなると感覚が麻痺してしまう。さっきまでファイヤー・チームの振付で絞られ、正直、他人を気にしている余裕もない。

「よし、次はもう一回ファイヤー・チームいこうぜ」
 瓜谷がシャツを腕まくりして、こちらを振り向く。
 やっと開放された楠ノ瀬たちが上気した顔で腰を下ろし、代わりに徹やリタが立ち上がる。

 ファイヤー・チームは攻撃的で燃え立つダンスをしようということで、激しい振付になった。

 舞踊の嗜みがあると自己申告したリタがベースの動きを考え、徹が細かな修正を加えた。二人でああだこうだと言っているうちに、いつの間にかリタと徹がメインダンサーとなってしまった。
 足を上げる仕草が多く、さすがにスカートではまずいということで、リタも練習時はトレーニングスーツを着ている。

「俺は世界で最高のナイスガイ。容姿端麗、頭脳明晰。心も熱いぜ燃えてるぜ。喧嘩売られりゃいつでも買うが、だけどバトルはダンスが一番! いいぜお前が望むなら、盆踊りでも没問題!」

(この歌詞、誰が考えたんだよ)
 囁く徹に、リタが視線を右へと動かした。
(楠ノ瀬麻紀だ。彼女らしい内容だな)
(っていうか、意味わかんなくないか?)
(徹、瓜谷が見てるぞ)

「お、リタちゃんと藤原、元気だねえ、よっしゃ、もう一セットいってみよう」
 瓜谷が長い髪をかき上げて笑顔で――徹の目には肉食獣の笑顔に見えたが――歯を見せた。
「……鬼コーチ」
 座っていた楠ノ瀬がぼそっと呟いた。

   * * * * * * * *
 
 学園祭当日、気象庁は例年より早い梅雨明け宣言を出した。

「あの、友達とはぐれちゃって」
「うちの子がやってる、クベゴンを追うって展示はどこでしょうか?」
「すいません、落し物で黒いポーチ届いてないですか」

 実行委員が当日もこんなに忙しいとは思わなかった。
 徹は目の下に隈を作りながら、本部テントで来訪者の応対をしていた。 父兄と思われる大人たちから、なぜか幼稚園児まで。老若男女がひっきりなしにやって来る。

「あーあ。他の展示やイベントを見に行きたいなあ」
 来訪客の波の切れ間に小声でぼやくと、一緒にファイヤー・チームで踊る一年生が、そうですよねえ、と調子を合わせた。

「藤原先輩は、どこを見に行きたいですか」
「やっぱり、荻原有理の推理劇かなぁ」
 徹の言葉に一年生は、我が意を得たりとばかりに大きく頷く。

「俺は、高宮さんのバンドを聴きに行きたいです」
 一緒に本部に詰めているもう一人の一年生が、話に加わった。
 そういえば、有為と高宮の馬鹿はバンドだった。きっとあの子のボーカルは目立つに違いない。

「トイレ借りれる?」
「どこかでお金をくずせる所、ないですか?」
「ママどこ……」

 再び徹達は喧騒に巻き込まれると、そのまま夕方まで休む暇もなく働いた。
 校舎が長く影を伸ばす頃になって、ようやく一息ついた徹たちは着替えて舞台裏に勢ぞろいしたのだった。
 
 舞台の袖に用意された巨大なスピーカーからはダンス・ミュージックが繰り返し流されており、会場内は既に徹たちの登場を待ちきれない様子である。舞台の前に並べられた椅子は他校の生徒たちや父兄達が訪れていることもあって満席になっており、後ろには立ち見の姿もちらほら見られる。
 徹たちの緊張感は、否応なしに高まっていた。

「みんなカッコいいぜ」
 舞台裏では、ウィザードの仮装をした瓜谷悠が、最後の打ち合わせを終えて実行委員会のメンバーを見渡していた。手足の長い瓜谷に、西洋風の黒い衣装はあつらえたかのように似合っていた。
 瓜谷先輩、ホストみたいだよね――横で楠ノ瀬が徹に、意味不明な発言の同意を求めてくる。

 プリティー・チームは色とりどりのワンピースに着替え、髪を揃いのリボンで結っていた。一方のファイヤー・チームは、リタを含めて全員がダークスーツにネクタイである。バックダンサーの三人は仮面を被り、メインのリタと徹だけが仮面の代わりに帽子を被っている。

「真夏にマントとは、気合入るぜ」
 瓜谷は汗を拭った。にやり、太い笑いを浮かべると腹に力を込める。
「いくぜ、レッツゴー!」

 瓜谷を先頭に、メンバー全員がステージへと駆け出した。

さすが去年のナンバーワン (向日葵10)

2008年11月05日 00:49

 笑っていた者が、一人二人と口をつぐむ。魅入られ、瞬きさえ出来ない者たちが立ちつくす。
「……糞ったれが」
 参宮学園の前夜祭。ステージを眺めていた高宮武は、両腕が総毛立ち睾丸が硬く縮まっていくのを感じていた。

 思わず横に立つ荻原有為を見て、愕然とする。傍らの少女は魂を抜かれたかのようだった。心の内に芽生えかけた敗北感を、怒りに任せて否定する。
 有為の手を乱暴に引っ張ると、高宮はステージに向き直った。

 音楽は確かに流れている。しかも訳の分らぬ歌付きでだ。
 だが、その場を支配するのは緊張に満ちた静寂だった。
 ダークスーツに身を固めたリタと徹。それは、ダンスの枠を超えていた。
 
 己の右耳をかすめて、天に突き上げられる右脚。
 裂帛の呼気と共に繰り出される、五連の正拳。
 ネクタイが風に舞い、黒いジャケットが翻る。その姿は、華麗といえばこの上なく華麗。
 だが、何故、上げた足の指がぴたりと相手の眉間を指しているのか。何故、拳の中指の節が突き出されているのか。

「ふざけんな。肋骨でも折るつもりかよ」
 高宮は呻いた。

 リタが徹の腰に左手を添えたまま右腕を水鳥の首のように擡げ、三本の指を嘴のように動かす。
 知らぬ者が見れば、白鳥をイメージするかも知れない。だが人を倒す技術を学んだ者ならば、こめかみを指で撃ち抜く残像が焼きつく動きであった。

 判らぬ者はただ陶然とし、判る者は慄然とする――そんな舞であった。

「どう、有理さん」
 再び振付パートに戻って踊り始めた徹たちを眺める荻原有理に、杉山想平が尋ねる。二人とも浴衣に着替えている。夏の衣装ならこれよね、と有理が決めた。

 杉山が後ろを振り返ると、有理の表情が変わっていた。美少女然とした外見に似合わず、時に凛々しい表情を浮かべる有理だが、今日はまさに勝負を挑まれた者のそれだった。
「リタちゃんは只者じゃないと思ってた。でもあれ、素人が出来る動きじゃないよね」
 そして口には出さないが、有理は徹こそ驚異的と感じていた。

 春に道場で徹を見たときから、気になるものを感じてはいた。リタと組むに至って、ライバルになると確信した。だが徹のどこか優しげな姿に、これまで自分が油断していたことを痛感した。
 このままでは徹にポイントを取られてしまう――有理はそう認めざるを得なかった。

 杉山は、それ以上言うなとばかりに眼鏡を指で押し上げた。
「僕は気にしないで。有理さん、あの中に入りたいんでしょ。きっとこの構成だと、もう一度ダンスバトルはあるし」

「え?」
 有理は、自分の気持ちに初めて気付いたように問い返した。だが、その瞬間、杉山の指摘が正鵠を得ていることを確信する。

(確かに、杉山君の言うとおりだけど……)
 杉山は、有理の背中を言葉で押してやった。
「ここで有理さんが出ると、僕らの連に取ってもプラスだって」

 杉山は、人差し指と親指で丸を作ってみせた。その白い頬に笑窪が浮かぶ。
「乱入は本当ならNGだろうけど、有理さんが入れば絶対盛り上がるから彼らも文句は言わない。ビジネスでいえばウィン・ウィンだよ」

 有理は少しだけ考え込んだが、不意に目を輝かせた。
「決めた。杉山君、一緒に行こう!」
「え、僕も?」 

 目を丸くする杉山の額を、有理は指で軽く押した。
「杉山君、わかってるようで駄目だよね。合気道部のオギワラユリだけで行ったら、ただの異種格闘技戦だよ」

 その台詞に杉山も苦笑する。有理は片目をつむり両手を合わせる。
「ね、お願い」
「ん……まあでも、僕も実はこういうの嫌いじゃないし」

 杉山はもう一度、メタルフレームを指で押し上げた。レンズの奥の瞳が細くなる。
「よおっし。行くよ!」
 有理が車椅子を勢いよく押して、ステージへ向かって走り出した。

 舞台に浴衣姿の有理と杉山が駆け上がったところで、大歓声が湧き上がる。杉山が車椅子で器用に一回転してみせると、拍手が鳴り止まなかった。

「リタ。悪いけどおいしいとこ貰っていくよ」
 杉山が横で踊るリタに話しかける。

(容姿端麗、頭脳明晰)
「お前たちが舞台に上がることは、計算済だ」
 リタが前回し蹴りを華麗に決めながら答える。

(心も熱いぜ燃えてるぜ)
「うわ、リタちゃん意外に感じ悪い。徹君、今の聞いた?」
 有理が浴衣姿のままで、団扇を片手に器用にリズムを刻む。舞台に立っているとよく判るが、有理たちが登場して以降、観客の視線は更に熱を増していた。

(喧嘩売られりゃいつでも買うが)
「オギワラユリが舞台に上がることを予想したのは、瓜谷先輩だよ」
 徹が肩で息をしながら、裏拳を撃つ。

(だけどバトルはダンスが一番!)
「うーん。さすが去年のナンバーワン」
 そう杉山が言ったところで、瓜谷がマイクを握った。

「よーし会場全員で炎の踊りだ、いくぜ!」
 瓜谷が絶叫する。
 呼応するように舞台の上の徹が、リタが、足を跳ね上げる。楠ノ瀬が、プリティー・チームが両腕を広げる。会場全員が拳を空に突上げる。

 大歓声と、背筋を貫く興奮。
 徹はその時、全身が電撃に撃たれたのを感じた。
 
 瓜谷悠は、確かに会場に魔法をかけた。
 一夜限りの魔法を。
 けれど解けてなお、心のどこかに痕跡を刻む魔法を――
 
 結局、前夜祭はその後二度アンコールに応えて曲を流した後、瓜谷が「委員長の強権を発動」して無理やり解散となったのであった。

ちょっとジェラシー (向日葵11)

2008年11月07日 00:13

 翌日、徹は筋肉痛に悩まされながら、本部テントで引き続き来訪客の対応をしていた。相変わらず問い合わせが後を絶たず、人の波が途切れて一息ついた時には、既に昼食の時間をだいぶ過ぎていた。
 
 屋台で何か食べよう。そう考えて机の中の食券を探していた徹の前に、今日何度も耳にしたフレーズが聞こえた。
「すいません。たこ焼きのお店教えてもらえません?」
 顔を上げると荻原有理の顔が目に入った。徹は慌てて弾かれたように立ち上がる。

「徹君、反応激しすぎ。みんな見てるよ」
 有理がくすぐったい顔で耳打ちする。一緒に本部詰めをしていた一年生達が小声で囁き合っている。徹は逃げるように有理と本部テントを出た。

「昨日はお疲れ。カッコよかったよ」
 学園祭の期間中は生徒も私服登校である。今日の有理は身体にぴったりしたTシャツと、ふくらはぎまでの丈のパンツを穿いていた。腰の高さと細さが普段よりも際立つ。すれ違う生徒達は、有理を見ると振り返った。

「よくわからないけど、でも凄く気持ちよかった」
 徹は正直な感想を口にする。身体のどこかに、虚脱感に似た感覚が残っていた。有理も大きく頷いた。
「去年より盛り上がったと思う。あんな練習をみんなでやってたかと思うと、ちょっとジェラシー」

 有理は誰の練習する姿を想像して、誰に対して嫉妬したというのだろう。
 高宮はいいのかよ――言葉が喉元まで出掛かるのを、飲み込む。

 学園祭の校舎は父兄や他校の生徒も多く、廊下はひどく混み合っていた。互いの肩や手の甲が軽く触れ合う度に、徹の鼓動は早くなる。誰かと話しこんでいる赤い髪の少女も遠くに見かけたが、追わないことにした。

 たこ焼き屋で店番の三年生に取次ぎを頼むと、額に汗を浮かべた桐嶋が白いエプロン姿で出てきた。太いハの字眉毛と目尻の笑い皺が、不思議にエプロンと似合っている。

「お、荻原さん。来てくれて嬉しいよ」
「俺には感謝の言葉は無しかよ」
 からかう口調の徹に、桐嶋の笑い皺が一層深くなった。
「ふ、藤原がいなければ、もっと嬉しかったよ」
「抜かせ」

 桐嶋は、ここは奢るといって食券を受け取らず、二人は余った食券で綿飴を買って校庭の木陰で食べることにした。

「よいしょっと」
 有理が小さく声を出して腰を下ろし、照れたように口に手を当てる。徹も口真似をしながら並んで座ると、口をとがらせて脇腹を肘で小突いてきた。

(やっぱり可愛いよな)
 しみじみと実感し、同時に胸の奥に痛みを覚える。この感情が何か、判らないわけではなかった。だが徹は湧き出てくる感情を敢えて無視して、有理に話しかけた。

「オギワラユリは、推理劇やってるんだろ」
「うん。杉山君の脚本がすごいの。逆転に次ぐ逆転」
 有理は、見た人は皆驚いていたと身振り手振りで力説した。得意げな杉山の顔が目に浮かぶ。

「で、誰が犯人?」
「それを言っちゃあ、面白くないんだって」
 有理は顔の前で手を振る。

「徹君、ミステリー読まないでしょ」
「読むけど、後書きから読む」
「それじゃあ、ストーリーを読む前に犯人が分かっちゃうじゃない」
 有理は一しきり声を立てて笑った。

 西校舎から出てくる後輩たちが、有理に気づいて手を振って来るのに、有理も手を振り返して答える。と、今度は、同じ学年の男たちが通りすがりに囃し立てていく。
 さすがに有理と二人では、相当目立ってしまうようだった。

 有理も苦笑しながら、再びよいしょとばかりに立ち上がる。慌てて立ち上がりかけた徹に対し、有理は首を横に振った。

「とにかく、昨日はカッコよかった。そのことを『ライバル』に伝えたくて」
「へ?」
「あたし、これから劇の最終公演なの」

 隠しきれない失望の色が浮かんだ徹に、有理は
「徹君、これあげる」
 食べていた綿飴を徹に差し出した。
「じゃ、お互いガンバろ」
 そのまま徹を振り返ることなく艶やかな黒髪が遠ざかっていく。

 迎えた後夜祭、今年のベスト・チームは有理と杉山を中心にした推理劇「ミステリー・スクール」だった。

何か不満でもあるの (向日葵12)

2008年11月09日 02:31

 夏休みが来た。
 新学期に会おう。そう言ってリタはエジンバラに戻って行った。
 徹はと言えば、毎日のようにコーラを水で割って飲んでいた。

「貧乏くさいから、やめなって」
 姉の望には何度も言われるが、やめられない。コーラの味は好きだが、少し甘すぎる。水割りがベストだ。さすがに他人の前で「調合」を始める度胸はなく、自宅でだけの密かな楽しみである。

 その日の夜も、ぼんやりとコーラを飲んでいると電話が鳴った。徹が出ると、意外なことに荻原有為だった。

「もしもし、有理じゃなくてがっかりした?」
 それが有為の第一声だった。妙に自信満々の栗色の外巻きの髪と細い手足とが目に浮かぶ。可愛さと皮肉っぽさとが同居する声に、徹は何とも落ち着かない気分になった。

「有為ちゃん、電話番号どうやって調べたんだ?」
 有為は小馬鹿にしたかのように、大袈裟に溜息をつく。
「それが最初の台詞なわけ」
 今度は髪の毛を不快そうにかき上げる姿が、まざまざと浮かんだ。げんなりしかけた徹は、話を先に進めることにした。

「で、何の用だい」
 そこまで言いかけて、徹は急に五月の夜を思い出す。
「もしかして……まさか」

「何考えてるか直ぐ分かるわよ。大丈夫、危ないことなんか起きてない」
 年上に対してぞんざいな喋り方だ。だが、とにかく安心した。胸を撫で下ろす徹に、有為は言葉を続ける。

「こないだ助けてもらった借りを、返そうかと思って」
 これは予想外の台詞だった。
「でも、それなら有為ちゃんが確か、貸しだなんて間違っても思わないでとか……」
 
 電話越しに、有為が一気に険悪になるのがわかった。さっきから自分がエスパーにでもなった気分になる。
「折角こっちが気にしてあげてるのに、何か文句あるの?」
 声が低い。空気が冷たい。徹は地雷を踏んでしまったらしい。徹は見えないことがわかっていてなお、必死で首を横に振る。

 焦る徹を知ってか知らずか、面倒くさそうな口調のまま有為は徹に問いかけてきた。
「で、泳げるの?」
「へ?」
「泳げるのって聞いてるの。あたし今度、有理とプールに行くんだけど――」

   * * * * * * * *

 参宮学園の男子生徒に、夏休みの最高の過ごし方についてアンケートを取ったらどうなるか。「荻原姉妹とプール」は、二位に圧倒的な差をつけてトップに輝くだろう。ちなみに最高の肝試しの方は、「高宮武との炎天下の待ち合わせに遅刻」で決まりだ。

 くだらぬことを想像しながら、待ち合わせの五分前に徹は駅の南口についた。
 約束したバスターミナルで見回すが、まだ二人の気配はない。地面から水蒸気が立ち昇る、まるで亜熱帯の暑さだった。タオルで額を拭うと、徹は手にしたペットボトルをごくりと飲んだ。

 遅い。
 暑い、遅い。
 いつの間にか、待ち合わせの時刻をかなり過ぎている。
 徹は北口にも念のため行ってみたが、見当たらなかった。Tシャツが汗で背中に貼り付く。時間を間違えたのではないかと思い始めたその時だった。

 大きな麦藁帽子を被った有為が、道の向こうで手を振っているのに気づいた。
 白っぽい麻のワンピースから細く長い手足が覗く。栗色の髪の毛が麦藁帽子の下で揺れている。周囲の男たちが、一斉に有為と徹を見比べた。

(さすがに目立つな)
 文句なしの美少女ぶりに改めて感心すると同時に、これだけ遅れても走ろうとしない有為に、徹は苦笑いした。

 信号を渡って、ようやく有為が徹のもとに着く。待たせてごめんの一言もなく、有為は顎をしゃくった。
「ほら、行くわよ」
「有理は?」
 周囲を見回す徹に、有為は麦藁帽子であおぐ仕草をしながら当たり前のように答えた。

「有理は都合が悪くなったって」
「へ?」
 徹は思わず問い返した。よく言えば優しげ、姉の望の口を借りれば「あたしに似てる割には締まりがない」徹の顔が、当惑したまま固まる。

「それ口癖? 思考停止が見え見えだから気をつけた方がよくない?」
(余計なお世話だ――じゃなくて)
「じゃあ今日は……」
「あたしと二人だと、何か不満でもあるの」

そうかも知れない (向日葵13)

2008年11月10日 23:06

 市民プールは家族連れやら中高生の集団やらで、大混雑だった。三百円の入場券を買って、徹と有為は両脇の男女更衣室に分かれる。
 
 徹は混乱していた。
 一体この展開は何なんだろう。
 
 一応カメラを持ってきたのだが、さすがに二人っきりで写真は――いや、そもそも変態とか言われたらどうしよう。迷った結果、カメラはロッカーに突っ込んでおくことにした。僅かに未練を残しながら、更衣室の外に出る。
 当然のように有為はまだいない。徹はぼんやりと周囲を眺めながら有為を待った。
 
 そして数分後、出てきた有為を見て徹は絶句した。
 
 駅で会ったときは、美少女だと感じる余裕はあった。
 しかし、これは何だ。

 有為は黒のビキニを着けて、少し怒ったように徹の前に立っていた。
 ほっそりとした首元から鎖骨が覗き、腰の位置は高く、足は伸びやかに踝へと続く。
 これはもう反則だ。ルール違反だ。
 試合前にテクニカル・ノックアウト成立。 

「何よ、文句ある」
 有為は、いつもにも増して無愛想な口調だった。

「可愛い……文句無い」
 思わず徹は本音を漏らしてしまう。本来の有為ならば、勝ち誇った表情を浮かべるはずだった。
 だが、代わりに浮かんだ表情は、徹がどきりするほど無防備な笑顔だった。

   * * * * * * * *

 蝉の鳴き声がシャワーのようだ。

 徹はプールサイドで有為と並んで横になっていた。
 いくら若くっても顔を焼くのはちょっとね。そう言って有為は白いバスタオルを頭から被っている。

 小学生の頃、蝉は流れ星みたいだと誰かに話した。蝉の一生について教えてもらったばかりの頃だった。蝉は暗い土の中で何年も過ごす。種類によっては十年以上も過ごす。
 そして夏の夜に地上に出ると、僅か数日で命を燃やし尽くすべく鳴き続ける。流れ星が地平に落ちる瞬間、光芒を放つかのように――

 そう、昼間でも星は流れている。

 こんなことを話したら有為は呆れるだろうか。有理だったら何と言うだろうか。
 リタだったら、静かに頷くのだろうか。
 徹はサングラス越しに流れる入道雲を眺めながら、そんなことを考えている。

「有理のこと好きなの?」
 有為がいきなり話しかけてきた。咄嗟にどう答えていいか分からず、徹は傍らを見たが、有為はバスタオルを被ったままで表情が見えない。

「有理のこと好きなの?」
 もう一度有為が尋ねる。
 そのまま何秒かが過ぎた。有為は身動ぎもしない。徹も何も訊かない。
 そして、徹は答えた。
「そうかも知れない」
「有理は高宮先輩とつきあってるよ」
「ああ、知ってる」

 お互いの顔を合わせないままの会話は、そこで唐突に終わった。

 有為はその後プールに入る気配はなく、徹だけ競泳用プールで何本か泳ぐと、夕方どちらからともなく立ち上がって帰ることにした。
 
 行きは辛辣で饒舌だった有為も帰りは言葉少なで、駅までの道は殆ど会話が無かった。徹から微妙な距離を置いて、外巻きにはねた生乾きの栗色の髪が揺れている。

 周囲の視線を集めているのは相変わらずだった。だが、プールに向かう道すがらお互いの間に感じた秘かな緊張感と期待感――誤解を恐れずに言えばそれは幾ばくかの共犯意識だった――は、どこかに影を潜めてしまっていた。
 駅まであと僅か。このままではいけないと思う焦りから、自分でも思ってもいなかった言葉が口をついて出た。

「写真撮ろうか」
 その唐突さに有為が軽く瞳を見開く。
「最初は三人で撮ろうかと思って。プールサイドには持って行かなかったんだけど……もちろん嫌なら無理には――」

 カメラを取り出しながら説明を始めたものの、話すほど言い訳めくのが自分でも分かる。しどろもどろになっていく。
 目の前で眉根を寄せている、この少女の表情は嫌悪感なのかそれとも逡巡なのか。
 
 とにかく謝ろう。そう思って徹が口を開きかけたその瞬間、
「いいよ」
 有為が返事をした。

「すいません、シャッターお願いできますか」
 徹の反応を待たず、有為は隣を歩いていた子連れの主婦に徹のカメラを差し出すと、徹の腕を自分の腕と組ませた。
 
 肘に有為の身体の柔らかさを感じる。
(有理の匂いとは違う)
 当たり前の事実に、今更ながらに気付く。

「はい、じゃあ笑って」
 主婦の合図とともに、有為が軽く自分の腕を引き寄せるのを感じた。
 
 シャッターを押してくれた主婦に礼を言って徹がカメラを受け取ると、有為は既に歩き出すところだった。二、三歩いた後、思い出したように振り返る。
 その顔はいつの間にか、プールに行く前の有為に戻っていた。

「あのさ、有理も誘ってるって言ったのは、嘘だから」
「へ?」
 有為は、徹の間の抜けた問いかけには答えない。
「じゃあね」 
 そのまま有為は夕暮れの駅に消えた。


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