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終章 夢見の宝玉/ じゃあ、リ―たんから質問して (夢見の宝玉1)

2009年01月26日 01:28

 私は、病院のベッドに付き添っていた。

 微かに消毒液の匂いが漂う白い部屋の中、ベッドの上には目を閉じた少年の姿があった。
 いつ醒めるとも無い昏睡状態。顔色はまるで蝋のように白く、もはや事切れたかと思わせるほど生気が無い。毛布の下の左腕から覗くチューブが僅かな生存の証である。

 母に幼い頃読んでもらった物語では、呪われた少女の眠りを覚ますのはいつも、勇気ある騎士の口づけだった。目の前の光景が配役を間違えた出来損ないの悪夢に感じられ、何故か笑い出したくなる衝動に駆られる。
 だが、一度笑いだしたら最後、私は正気を保っていられる自信がなかった。
 
 私は少年の手を握り締めながらひたすら念じる。
 必ず彼を救うと。必ず、再び彼と陽の光の下で笑い合うと。
 少年の耳に届くことは無いその台詞を、何度も繰り返す。

「――お時間です」
 遠慮がちに後ろから掛けられた声に、私は振り向かず頷く。その間も声に出さず唇だけを動かす。握った手に思いを込める。
「必ず、必ずだ。例え、この身を代償にしようとも」

 最後にもう一度そう呟くと、私は立ち上がった。
 
   * * * * * * * *


「やっぱ新年会でしょ」
 一月十日の昼休み、楠ノ瀬麻紀のこの一言で企画はスタートした。

 リ―たん徹ちゃんナンバーワン祝賀会兼瓜谷先輩麻紀ちゃん残念会、という舌をかみそうな正式名称と、略称の「りたまき会」とが楠ノ瀬によって命名された。
 あっという間に荻原姉妹、杉山想平と桐嶋和人にも声が掛けられ、翌週の金曜日の夜にリタの家で開催されることになった。

「それにしてもリ―たんと徹ちゃんは今年目立ったよねぇ」
 楠ノ瀬麻紀が杉山想平に話しかける。
「体育祭のときの高宮との絡みは緊張しちゃったよ。よく途中で止めなかったよね」
「いや、心の中では五回くらい止めてました」

 先程から始まった「りたまき会」は、瓜谷のプロ顔負けの仕切りで最初から盛り上がっていた。上下関係を意識せずに男女で盛り上がれる連の良さを、徹は改めて実感した。
 テーブルには買ってきたフライドチキンやサラダに混じって、楠ノ瀬麻紀の手料理も所狭しと並ぶ。セシルも色々なオードブルを用意してくれていた。
 友人や教師の噂話に花を咲かせながら、気づくといつしか宝玉の話題に戻っている。

「瓜谷先輩は、宝玉の管理者になったら何をお願いするつもりだったんですか」
 有為の質問に瓜谷はにやりと目を細めた。瓜谷は昨年中に大学の推薦入試を済ませ、今月から自動車教習所に通っていた。
「俺か? 俺は世界平和だ」
「へっ?」
 思わず反応してしまった徹に対し、瓜谷は憐憫の眼差しを向けた。
「まだ藤原はそこまでの境地に達してないか」

「あたしだったら、世界平和って言うより世界征服かな」
 訊かれてもいないのに、当然とばかりに栗色の髪の少女が胸を張る。徹は触らぬ神に祟りなしと呟きながら、急いで楠ノ瀬に話題を振った。

「楠ノ瀬は、何をお願いするつもりだったんだい」
 発言を無視された有為からの視線が痛いが、敢えて顔をそむける。楠ノ瀬は例の如く徹に自分の呼び名を訂正させた後で、意味ありげな視線を送って来た。
「後で二人っきりの時にね」
 徹は訊いた自分が馬鹿だったと、がっくり頭を垂れた。

(藤原先輩、今だから話すんですけど)
 食事が終ってからリビングに場所を変えて小一時間、座の話題が参宮学園の七不思議へと移ったところで、杉山が徹に小声で話しかけてきた。
(瓜谷先輩はリタと連を組むつもりだった、って言ったら驚きますか?)

 思わず徹は車椅子の少年の顔を見る。杉山は眼鏡の弦を中指で押し上げた。
(去年の春の話ですけど僕のクラスメイトが瓜谷先輩に申し込んだとき、何で自分じゃ駄目なのか食い下がったらしいんです。そしたら――)

(そしたら何だよ)
 徹が身を乗り出した。当の瓜谷は向い側のソファーの中心にどっかりと腰を据え、身振り手振りを交えてリタたちに何かを説明している最中でこちらを気にする様子はない。杉山が徹の前に置かれたポテトチップスを取る振りをして、顔を近づけてきた。

(組むならこいつと決めた奴がいるんだ、会ったばっかりだけどな。瓜谷さんがそう答えたらしいんです)

 どくり。

 心臓が音を立てた。
 
 杉山は徹の思考を先回りするかのように続ける。
「もちろん、それだけじゃ誰かわかりませんよね。有為かもしれないし。でも、僕は絶対――」
 杉山の声が遥か遠くに聞こえる。何か話そうにも舌が口に貼り付いて動かなかった。

「誤解しないで欲しいのは楠ノ瀬先輩に対してどうこう言うつもりはないんです。楠ノ瀬先輩も只者じゃないって思いますよ。リタや有為もすっかり懐いてるし、懐深いですよね」
 杉山はなおも話を続けているが、徹は瓜谷の台詞に拘らずにはいられなかった。

(瓜谷先輩の言葉は単なるリタへの興味なのか。それとも……)

「おーい、そこ。何を内緒話してるの」
 不意に荻原有理が二人の間に割って入ってきた。ソーダを片手に二人を下から覗きこむ仕草は、酔っているはずがないと判っていても仄かな色っぽさがある。思わず徹は固まったが、杉山は澄ました顔で答えた。
「いや、有理さんの魅力についてちょっと。ねえ藤原先輩」

 有理は大きな瞳を細めて左手の人差し指を顎に当てた。
「やっぱり?って言いたいとこだけど、徹君はあたしと違って嘘が下手だから」
 そう言って、盛り上がっていた残りのメンバーの方を振り返る。
「リタちゃん、男の子二人でよからぬことを話してるみたいだけど」
 茶目っけたっぷりに口を尖らせる。リタが口を開く前に、楠ノ瀬が軽くウェーブのかかった髪を掻き上げてにやりと笑った。

「ふうん。そんな徹ちゃんには麻紀ちゃんが質問責めしちゃおうかなぁ」
 これまでの数々の責め苦を思い出しながら必死に抵抗する徹を前に、楠ノ瀬は無慈悲に宣言した。
「じゃあ、リ―たんから質問して」

 展開の速さに状況が飲み込めていないリタに、楠ノ瀬は言葉を足した。
「何でもいいから、一人一つずつ徹ちゃんに質問して、徹ちゃんはそれに答えなきゃ駄目っていう罰ゲームなの」
 有為が大はしゃぎで拍手する。

(いつ決まったんだよそれ……)
 徹は遠い目をしたがリタは合点がいったとばかり頷いた。
「なるほど、では……」
 リタが真顔になり全員がぐっと身を乗り出す。セシルもキッチンから聞き耳を立てている気がする。

「――徹は好きな子はいるのか」

 あまりにも直球だった。思わずリタ以外の全員が動きを止める。

(な……最初からこんな質問有りかよ)
 直球も直球、ビーンボールの剛速球だった。いやデッドボールかも知れない。
「い、いや、あの」
 ターコイズ・ブルーの瞳が真正面から徹を射る。如何なる言い訳も許してくれそうにない。徹は目の前が暗くなった。
「いや、その……いないわけじゃあ」

「いるの? いないの?」
 歯切れの悪い徹に対し、栗色の髪の少女が鼻息荒く詰め寄る。
「ち、ちなみに、その相手って半年ぐらい前から変わってない?」
 微かに顔を引き攣らせた黒髪の少女が、怪しげな質問をしてくる。
「もちろん、本人に直接伝えるのが先でもいいがな」
 妙に落ち着いた赤い髪の少女のコメントも、どこか誤解がないか非常に気になる。
「藤原、念の為に言っておくが俺には付き合っている相手がいるからな」
 瓜谷は真顔だった。

 徹が途方にくれて天井を見上げていると、
「頂いたお菓子をお持ちしました。お茶は如何でしょうか」
 含み笑い混じりのセシルの声に、桐嶋と杉山からやけくそにも似た歓声が上がった。確か桐嶋は甘いものが苦手のはずだった。

(セシルさん、恩に着ます)
 胸を撫で下ろす徹の耳に、有為の小さな舌打ちが聞こえた。
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そうか、無いか (夢見の宝玉2)

2009年01月27日 19:34

「明日は、何か用事はあるか?」
 リタからそう聞かれたのは二月十三日だった。いつの頃からか徹たちの指定席になった学生食堂の左隅で、二人は宿題を解きながら楠ノ瀬麻紀を待っているところだった。

 シャープペンを持つ手を止めて顔を上げた徹に、リタは眉一つ動かさずに続けた。
「日本では、バレンタイン・デーに女からプレゼントを渡す習慣があるそうだな」
「ん……ああ、明日は特に予定は無いけど」
 答えながら一瞬、荻原有理の顔が浮かんだ。表情に出ないよう細心の注意を払ったが、正直うまくいったかは自信がなかった。

「そうか、無いか」
 リタは一人納得すると、再び国語の教科書に目を落とした。赤い髪が教科書にまで掛かっている。大理石の彫刻のような形のよい耳が顕わになる。徹は無意識に唾を飲みこむと、自分も英語のテキストを読み始めた。

(まいったなぁ)
 誰に言うともなく呟いて目の前の英文に集中しようとしたが、字句が上滑りして頭に入らない。
 Romance has changed in many ways, but
(来年のバレンタインデーは受験だな)
 Romance has changed in many ways, but the vital ingredients are still the same.
(時を超えても変わらないものって――)

「徹――」
「へっ?」
 顔を上げると、驚くほど近くにリタの瞳があった。咄嗟に椅子を後ろに引くと大きな音が食堂に響いた。
 もっと自然な形で話を持って行きたかったのだろう。リタは徹のリアクションに僅かに困惑したようだったが、唇を再度一文字に引くと脚を組み替えた。制服のスカートから白い膝が覗いた。

「明日は、私のために空けて置いてくれ」
 赤い髪の少女の台詞は余りにシンプルだった。徹は頬が火照るのを感じる。
「リタの頼みであれば勿論、構わないよ」
 徹が早口でそれだけ告げると、リタは感謝の言葉を口にした。
 
 だが、その表情は冴えなかった。
 
 いや、正確に言うべきだろう。
 リタの憂いは、徹の返事にかかわらず晴れることが無かったのだった。

あなたに話せていないんでしょう? (夢見の宝玉3)

2009年01月29日 23:07

「ふ、藤原も、態度を決めた方がいいぞ」
 その日の帰り道、聞かれるでもなく語り出した徹に対する桐嶋の答は至極もっともなものであった。
 
 西砂の繁華街は、恋人達の祝祭を盛り上げる飾り付けが至るところに施され、店先には色鮮やかな包装紙のチョコレートが並んでいる。桐嶋はコンビニで買った緑茶を飲みながら、きっとリタちゃんは愛の告白をするつもりなんだ、などと古風な表現をする。  
 小柄な親友を前に反論するでもなく、徹は先ほどの出来事を回想した。
 
 確かに桐嶋の言うとおり考えるのが自然だが、この違和感は何なんだろうか。
 一年近くに亘る付き合いで判ったことと言えば、リタは嘘が苦手だという事実だ。
 これは決して、リタが人を騙すのが下手だということを意味しない。ポーカーフェイスは相当なものであり、心の動きは僅かな仕草に表れるだけである。だがそれ以前に、リタは自分に幾つかの規律を課して生きていることが窺える。その中の一つは明らかに、「信頼する相手に嘘をつかない」というものだった。
 
 そこまで考えたところで、桐嶋が軽く手を上げた。
「じゃあ、また明日な」
 繁華街の人いきれの中、桐嶋の背中はすぐに見えなくなった。徹は鳴神静瑛との稽古に向かおうと交差点を渡ろうとして、足を止めた。
 影を突然縫い付けられたかのように動かなくなってしまった。
 交差点の向こう側、信号を待つ人々に混じって背の高い女が立っていた。

 初めて見たにもかかわらず、それが誰だか判った。これは運命なのだと悟った。
 徹は彼女の名を口の中で転がす。その呟きが雑踏の中で届いたなどとは思わないが、彼女は他の人々を一顧だにすることなく徹に向かって歩いてきた。
 二人は待ち合わせたかのように交差点の中央で出会った。
 
「すぐ判ったわ。これが偶然なのかは知らないけれど」
 綺麗な日本語だった。
「僕もです」
「アナスタシアでいいわ」
 そう言って、リタの母親は娘と同じ色の瞳を徹の正面に合わせた。紫色のカシミアのコートに毛皮のストール、そして黒革のパンプス。大人の女としての圧倒的な存在感があった。

 丁度良かった、貴方に話したいことがあったの――アナスタシアの口元からは歯が覗いたが、徹は彼女が笑ったわけではないことは理解した。
 信号が点滅を始め、周囲が足早になる。
「じゃあ、どこか喫茶店で――」
 言いかけた徹の言葉は途中で遮られた。
「少し歩かない? 徹君」
 リタの母親はもう一度歯を見せた。今度は僅かに微笑んだように見えた。
 そのまま二人は徹がもと来た参宮学園の方へと向かって歩き出した。

 徹はいつしか無意識にリタの母親と歩調を合わせていた。歩幅を合わせ、歩調を合わせ、そして思考を合わせる。規則正しいリズムは徹の思考を適度に刺激した。
(日本、何故、エドワード、宝玉、過去、リタ、運命、宇田川、私のために空けて、夢見、青い瞳、真の年――)
 言葉が唇から今にもこぼれ落ちそうになったその時、アナスタシアが振り向きもせず話しかけてきた。

「リタの弟のことは聞いてる?」
 徹は俯き加減だった視線を紫色のコートへと戻した。
「は、はい、ずっと病気だと」
 アナスタシアは肩越しに繰り返した。
「ずっと病気だ、と」
 次の言葉を促す態度であった。徹は付け足した。
「リタは、エドワードを救うために闘っています」

 アナスタシアの歩調は僅かも崩れることは無かった。徹の説明は予測の範囲内だったらしい。アナスタシアは、
「エドワードを救うために、か」
 再び徹の言葉を繰り返すと静かに振り向いた。そこには慈悲と悔恨と憐憫と――幾多の感情が交じり合った大人の微笑があった。

 徹は居心地の悪さを感じ始めた。この世界が全て虚構だった。そんな妄想が頭をよぎる。自分は西砂の繁華街を歩いていたのではなかったのだろうか。二月だというのに脇の下を冷たい汗が流れ落ちる。
 この会話を続けてはいけない、何かをやり直す必要がある。
 居心地の悪さは既に焦燥感へと変わっていたが、リタの母親は容赦が無かった。

「エドワードは既にこの世を去った――としたらどうする?」
 徹は頭を殴られた気がした。だがアナスタシアは回復の時間を与えてくれなかった。
「例えば一カ月半前、去年の暮れにね」
 
 いつの間にか参宮学園へと戻る道を逸れ、二人は古い教会の前に辿り着いていた。ひっそり佇むその姿は周囲よりも一段と暗く、建物の形にぽっかりと穴が開いているかのように見える。アナスタシアの輪郭は夕闇に滲み、ターコイズブルーの瞳だけが瞬いていた。

「……エドワードが死んだことは誰のせいでもない。それは運命」
 そう言って空を見上げたリタの母親の髪も赤かった。
(ならば何故、リタは)
 徹が疑問を口にする前に、アナスタシアが答えてくれた。
「あの子は、弟を救えなかったのは自分のせいだと思っているわ。何度も自分を責めた。そしていつの間にか妄想に捕われてしまったのよ」

 続く声が一段と低くなる。
「弟はまだ死んでいない、という妄想にね」

 徹はこめかみに痛みを覚えた。確かな手ごたえを求めてリュックの肩紐を無意識に握り直したが、徹のささやかな抵抗をあざ笑うかの如く足元は歪みだした。
「隆介は三学期にリタが日本に戻ることに反対したわ、もう意味がないって。私が構わないって言ったの。日本に行くことで気持ちが整理できるなら、とね」
 そこで言葉を一度切ると、リタの母親は吐息を漏らした。
「でもリタはまだ現実を直視できてない。あの子は、あなたに話せていないんでしょう?」
 頷くしかなかった。

「ねえ、十五年前に私と隆介が宝玉の管理者になったのを知ってる?」
 徹は先程から訊きたいことばかりだったが、それでも徐々に話が結論に近付いている事を実感する。話の腰を折ったら二度と続きが聞けない気がして、アナスタシアが話すのを待った。

「誤解しているかもしれないけれど、私達は真実に辿り着いたのよ」
 どうやって、そして何故それでは成功しなかったのか。
だが、もうすぐ核心だ。聞き逃してはならない。徹は身構えた。

「あなたは宝玉に食べられてしまうわ。だからリタをイギリスに連れ戻しに来たの」
 リタとよく似た口元だったが、ルージュの引かれた唇から覗いたものは牙に見えた。
「宝玉は祈る者の心を用いて願いを叶える。その代償は記憶喪失や昏睡だけれど、これは祈る者の力と願いの大きさ次第。普通の願いなら心配いらないわ。でも万が一死者を蘇らそうなどと考えた場合――」

 後は自明とばかり、アナスタシアはそこで説明を終えた。徹は耳にした全てを否定したかったが、そうするには余りにも真実の重みが有り過ぎた。徹は代わりに腹に力を込めた。
「僕は……宝玉に食べられたとしても、リタの夢を叶えます」
 
 自分の言葉に酔うつもりは無かった。だが、答えるとしたらこの言葉しかあり得なかった。
 ターコイズ・ブルーの瞳と徹の視線とが絡み合う。と、アナスタシアが真珠の歯を見せると再び背を向けた。ふわり、夜の闇に赤い髪がなびく。
 ピンヒールの立てる足音が、ついて来るなと伝えていた。

 そのまま遠ざかるかと思った足音が止まり、リタの母親がストールの肩越しに彫りの深い横顔を向けた。
「今まで有難う、徹君。でもリタには春分の日をイギリスで過ごさせるつもりよ」

あの言葉は嘘か (夢見の宝玉4)

2009年02月01日 02:16

 翌日の放課後リタが徹の席にやってきた。
「では、行こうか」
 普段と変わらぬ口調で徹を誘う。連れて行かれたのは東校舎の裏手であった。

「私は明日イギリスに帰国することになった」
 リタは徹の反応を見定めるようにそこで言葉を切った。太陽は既に傾き、少女は西日を背に立っていた。
「どうやら母から聞いたようだな」
 徹の無言の返事を肯定と受け取った赤い髪の少女は、頷くと再び口を開いた。
「では、弟のエドワードのこともだな」
 徹は迷ったが、先に表情に出てしまったようだった。

「呆れたろう」
 その声に苦いものが混じっていた。徹は急いで否定しようとして息を呑んだ。
 リタが自分から視線を逸らしていた。
(リ……リタ?)

 如何なる場所であれ如何なる者に対してであれ、時に切っ先鋭く、時に激しい情熱をもって相手を正面から見詰めてきたターコイズ・ブルーの瞳が、その輝きを失っていた。唇は冷ややかに歪み己を嘲る笑みが張り付いている。
 目の前の少女は老成した、だが驚くほど醜い表情をしていた。

「だ、駄目だ、そんな顔をしちゃ……」
 徹の言葉を打ち消すようにリタが低い笑い声を立てた。聞いたこともない声だった。思わず立ちすくむ徹に、更なる一言が突き刺さる。
「きっと私の帰国に何の感慨も湧くまい」

 その瞬間、心の中で何かが弾けた。
 徹は、自分でも思ってもいなかった感情の迸りに突き動かされていた。

「ふざけるな! あの言葉は嘘か!」
 リタの肩を鷲掴みにする。目の前の顔が驚きと痛みに歪んだのにも構わず、徹は指に力を込める。呆然とする赤い髪の少女を前に、徹は怒りよりも悔しさが突き上げてきた。

「悔いの無い一年を過ごそう――そう誓ったじゃないか。悔いは本当に無いのか」
 出会ってからの出来事が走馬灯のように駆け巡る。もはや自分でも止められなくなっていた。
「リタの弟が生きているのかは知らない。誰の言うことが本当かもわからない。でも、自分にとって大事なことが何かなら答えられる。リタを……」
 徹は、続く言葉に心の全てを乗せた。
「僕にとっては、リタを信じることが一番大事だ!」
 最後は咆えんばかりであった。

 そのまま徹は唇を痙攣させて立っていたが、不意に目の前の少女が俯いてしゃくり上げている事に気付いた。
 冬空の下、リタは濃紺のブレザーの薄い肩を震わせながら必死に何かに耐えていた。豊かな赤い髪が俯いた顔を隠すように流れ落ち、腿の前に置かれた両手は固く握り締められている。

 目の前の光景に徹の激情は潮が引くように消え去り、代わりに後悔と焦燥感とが身体を埋め尽くしていった。
 本来は支えてやらねばいけないのに、衝動に任せて身勝手な感情をぶつけてしまった。
 何と愚かなことをしてしまったのか。
 徹はよろめくように後退りしながら髪を掻き毟った。

「徹、徹……」
 どれくらい、そうしていただろうか。
 ふと自分を呼ぶ掠れた声に両手を髪の毛から離すと、目の前の少女は顔を上げていた。
(あ……)
 少女の頬には涙の跡があったが既に眉間の縦皺は消えていた。
 背筋を伸ばし凛と立つ、誇り高いリタ=グレンゴールドの姿がそこにあった。

「徹、お前はやはり最高のパートナーだ」
 少女は唇を閉じたまま静かに微笑んだ。西日を背にしたリタの眩さに、徹は息が止まる。
 リタが一歩踏み出し、枯葉が足元で小さな音を立てた。

「母とエジンバラできちんと話し合って、春分の夜までに戻ってくる。必ず戻ってくるから」
 もう、手を伸ばせばその細い腰を引き寄せることの出来る距離であった。
 赤い髪の少女は、動けないでいる徹の顔に両手を伸ばすと、ほっそりとした白い指先で頬に触れた。
 そのままどこか愛おしげに眼を細める。
「……だから、待っていてくれ」
 徹は、その囁きより前に少女の手の冷たさを感じた。



(これってキスされるより……強烈かもなあ)
 いけないと知りつつ教室から二人を追ってしまった有理は、陰で小さく呟くとスポーツバッグを抱えて背中を向けた。

ここから先の未来は私にもわからない (夢見の宝玉5)

2009年02月03日 00:02

 徹が宇田川から呼び出されたのは、三月一日の朝だった。

 理事長室に通されると、あれほどまでにリタが熱望したものがソファーの前に置かれていた。
 宇田川が銀の鎖を丁寧に解いて、箱の中から球体を差し出す。宇田川は仕立ての良いグレーのスーツに身を包み、前屈みとなったワイシャツの袖口からは刺繍されたイニシャルと黒いカフスボタンが覗いていた。

「今日から一ヶ月間、本来であれば君とリタ=グレンゴールドが宝玉の管理者に任命されるはずだった。だが、既にリタはこの学校にいない」
 宇田川は口を閉じると、彼の地のリタとその母親にも言い聞かせるかのように視線を左右に動かした。

「この宝玉は春分の夜に、傍らにいる者が自分の主に相応しいかを試す――」
 ここで宇田川は、徹を値踏みするかのように目を細めた。
「今年は真の年でしかも役者が揃い過ぎている。危険だ」

「でも、僕はもう心を決めています」
  徹は間髪入れず答えたが、宇田川はなおも続けた。
「ならば、老婆心からもう少し言わせてくれ。君の技だけでは宝玉を活性化できない。それは過去に鳴神菖蒲が証明済みだ」
 改めて口にされると重い一言だったがこれは想定内だった。特段の反応を見せぬ徹に対して宇田川は両手をテーブルの上で組み直すと身を乗り出した。

「そしてもう一点。宝玉は海外では無力だ。イギリスに運んだとしても役に立たない」
 今度は思わず宇田川の顔を見る。徹の考えは既に見抜かれていた。宇田川は徹から視線を逸らさぬままで立ち上がった。
「幸運を祈る」
 その目は真剣だった。

 宇田川が去った後も徹はそのままソファーに沈み込んだまま考え込んでいたが、予鈴ともに理事長室を出た。
「あやちゃんでも駄目だったんだよなあ」
 誰に聞かせるでもなく口にする。手にした木箱の重さがこれからの厳しい道のりを実感させる。徹は、春分までの日数を頭の中で数えた。
 エジンバラに戻ったリタとは連絡を取り合っていたが、具体策があるようには見えなかった。宝玉の危険を熟知するリタの母親が、そう簡単に日本に戻ることを許すとは思えなかった。

「……となると、やれることは全部試すしかない」
 徹は腹を決めた。そのためのパスポートも準備済である。大したバイトをしてこなかったため十分な貯金はなかったが、姉の望に頭を下げるつもりだった。自分をからかってばかりで煩わしい姉の存在も、こんな時にはありがたかった。

 学園に藤原徹の四日間の欠席届が提出されたのは、それから間もなくであった。

   * * * * * * * *


 暗闇が形を取り始める。
 絶望が全身を支配するのを必死に堪える。

 頭は三頭の狼、体躯は雄牛で前脚は虎。
 そう古書に記された凶獣が月影に姿を現す。
 その圧倒的な肉の重み。

 徹は背筋を伸ばし、肩幅に両足を開く。
 二拍子を二つに分け、更に二つに刻む。
 凶獣の三本の尾が風を巻き上げる。
 吹き付けたと思う間もなく頬が割れる。
 徹は目を庇いながら凶獣に近づく。

 凶獣が吼えた。
 聞く者の肌の下に無数の蟲を這わせる声。
 暗い三対の眼が徹を射抜く。
 昨日はここで萎えた。
 今日は構わず足を前に踏み出す。

 夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが無い。
 夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが無い。
 夢で死ぬはずが無い。夢で死ぬはずが

 全身が風で切り刻まれた。
 堪え切れず徹は叫び声を上げた。
 ――そして徹は目を覚ました。



「おそらく、藤原先輩は過去を追体験しているんでしょう」
 春分の日を迎えて徹の家では、徹が見た夢の整理が行われていた。
 杉山想平がメモを取る手を休めて、徹、荻原有理、有為、そして桐嶋和人の顔を順番に見回す。

 宝玉を預かって三週間、杉山の発案で何度となく宝玉の謎に関する打ち合わせが行われていた。これは遊びじゃなくて危険なんだ。そんな言葉を口ごもりながら協力を辞退しようとした徹を一喝したのは、楠ノ瀬麻紀と荻原有為だった。
 仲間たちの自分への献身的な協力に、今更ながらに頭が下がる思いだった。

「残されたのは今晩限り。後はぶっつけ本番ってわけね」
 徹のベッドに腰掛けていた有為が、投げやりな口調で伸びをする。部屋に来た当初は、何だか怪しいとベッドの下を覗き込んでは徹を冷や冷やさせ、その反応に喜んでいた有為だった。
 だが、既に議論も半日近くなり顔には疲労の色が隠せない。

「で、でも出来る事は全部やった」
 桐嶋がやんわりと否定する。相変わらずいい奴だ、徹はそう思いながら心では別のことを考えていた。
「徹君、今、気持ちは空港だったでしょ」
 有理の指摘に、有為が露骨に嫌な顔をした。
 徹は肯定する代わりに壁の時計にもう一度目をやる。針は既に午後六時を廻っていた。
「大丈夫だって、徹君が直接説得したんだから。リタちゃんは必ず来る」
 有理の切れ長の大きな瞳で顔を近づけられると、いつものことだが落ち着かなくなる。そんな徹に有為はもう一度露骨に顔を顰めた。

 徹は僅か正味二日だった初めての海外旅行を思い返していた。エジンバラ中心部の小高い丘の上で身を切るような寒さの中、三人で見た夕暮れは本当に美しかった。

「本当は、二月にあなたと会ったときからこの光景が私には見えていたの。でもね、ここから先の未来は私にもわからない」
 リタの母親の声が脳裏に蘇る。驚くほど若々しく見えるアナスタシアだったが、その声は年相応に疲れた響きがあった。
「母上、私は宿命に打ち克つため日本に戻りたい」
 結局、アナスタシアからは娘の言葉への明確な返事はなかった。 

 その時、徹の回想を破って玄関のチャイムが鳴った。階下で暫く母親が対応している気配がした後、階段を誰かが昇ってくる足音がする。徹が腰を浮かすのと部屋のドアが開くのはほぼ同時だった。
「済まない、機体トラブルがあって遅れた」
「リタ!」「リタちゃん!」
 徹たちの声が揃う。

 そこには、待ち焦がれた赤い髪の少女が紺色のダッフルコートを着て立っていた。
 ターコイズ・ブルーの瞳も聡明さに溢れた額も、全て徹の記憶のままであった。

「待たせたな」
 リタは、微かに照れた笑顔を見せた。

聞きたいですか、先生 (夢見の宝玉6)

2009年02月05日 00:04

 その日の午後十一時三十分。予報では未明には雨が降り出すはずであった。
 学園内の鬱蒼とした林の中で宇田川は、煙草を手にしたまま一人待っていた。
 
 煙草を吸うのは何年振りだろうか。吸いたいなどという気持ちが自分に欠片でも残っていたことに驚きだった。この一事をとっても、どれだけ自分が神経質になっているかが判る。
 だが、それも当然のことと言えた。彼女からの電話は自分が十年以上待ち望んでいた内容であった。例え捨て駒の役であったとしても、宇田川には何の悔いもない。彼女のためになれれば十分であった。

(ねえ隆介、私達は連の絆だけに拘り過ぎていたのかもね。でも今の彼らは周囲の仲間たちの全てを力に変えて運命に挑もうとしているわ)
 昨日のアナスタシアの電話を反芻する。

 アナスタシア=ハート。ドルイドの血を引く祭司一族の末裔であり、人には見えぬものが見える女。宇田川が高校時代をともに過ごしたかけがえの無い友人であり、そして当時の宝玉の管理者――
 宇田川は十五年前のことを思い出して一瞬激しく後悔し、直ぐに思い返した。過去があるから今がある、そう自分に言い聞かせた。

 再び刺すような北風が吹き、宇田川はコートの襟を立てる。ここでどれだけ待つことになるのか宇田川には見当もつかなかった。
「場合によっては雪になるか」
 そう宇田川が独りごちたところで―― 

「今晩は、宇田川先生」
 突然の声に、慌てて煙草の火を消した。
 足元に置いたキャンプ用のランタンを点けて振り返ると、数年前に参宮学園を卒業した教え子が、小柄な身体を灰色のダブルのコートに身を包んで立っていた。巫女を想像させる白い肌と後ろで束ねた長い黒髪は、体育祭で会った時と変わりなかった。

「先生、夜中にどうされたんですか」
 夢見るような口調だった。距離があるにもかかわらず、女の方角からは動物園の檻でしか嗅いだことのない獣臭が漂ってきた。

 宇田川はランタンを掲げて素早く辺りを見回したが他の者の気配は無かった。満月とはいえ夜空には雨雲が広がっており、暗い林の中にぼんやりと浮かび上がるのは、女の白い顔だけである。予想外の人物に宇田川は動揺しつつも、気取られないよう細心の注意を払いながら隠し持ったスタンガンを握り締めた。
 
 自分は高宮武をおびき出す撒き餌ではなかったのか。
 腋の下を冷たい汗が流れ落ちる。

「鳴神君か、久しぶりだね」
 宇田川は、買い物帰りにでも会ったように自然な素振りで挨拶してみた。鳴神菖蒲も挨拶を返してきたが、歩み寄るにつれ鼻腔を突き刺す獣臭は強まった。
「鳴神君はどうしてここに?」
 ランタンを置くと、そろり、宇田川は切り出してみた。菖蒲が小首を傾げてもう一度笑みを浮かべたが、口の中は深紅に染まっていた。
「聞きたいですか、先生」

 怖い。

 特段おかしなところのない台詞だったが、宇田川の全身に鳥肌がたった。
 逃げ出したい、それが偽らざる気持ちであった。コートの内側でスタンガンを持つ手が汗で滑る。
 高宮は、凶獣はどこにいるのか。

「ところで、高宮君には会わなかったかい」
 その途端、後ろの林から何かが飛び立つ羽音が響いた。
 宇田川が思わず振り返って目を凝らしたが、暗い闇の奥に潜むものは見えない。大きく息を吐いて再び前を向くと、蝋のように白い菖蒲の顔があった。

 その目が細まっていた。
「ああ、彼なら」

 ここにいます。
 
 そう言って菖蒲が唇を舐めた。
 その口が裂けていく。顎関節が外れ、腐りかけの肉が重みに耐えかねてずり落ちるように首の付け根からぶら下がる。
 赤ん坊でも丸飲みできそうに開いた口の中、ぬらぬらと唾液に濡れた――
 
 高宮の顔が覗いた。
 安らかな寝顔だった
 
 もう耐え切れなかった。宇田川は衝動的にコートの中からスタンガンを前方の女へと突き出した。同時に放電音が響き渡る。
 だが、口の中に高宮の顔を宿した菖蒲は、笑顔のまま宇田川の右手首を振り払った。
宇田川が弾き飛ばされたスタンガンを慌てて拾い上げようとしたが、菖蒲はブーツの足で踏みつけた。それほど力を入れたように見えなかったが、電気剃刀ほどの大きさの器具は音を立てて壊れた。

「先生、突然ひどいじゃないですか」
 強烈な獣臭に思わず宇田川が顔を背けた。
 菖蒲の目は黄色く濁っていた。宇田川の首に手を回すとゆっくり顔を近づける。
 
 喰われる。
 頭では判っていた。
 だが、宇田川は蛇に魅入られた蛙のように動くことが出来なくなっていた。危機的状況に直面しながらも、菖蒲の口の中に見える高宮の閉じた瞼はあまりに安らかで、倒錯した羨望すら抱かせた。

 宇田川は自らの運命を菖蒲に委ねかけ――
 
 視界の端に、誰かが駆けて来る気配を確認した。
 再び眼を凝らして見ると、そこには待ちに待った二人の姿があった。宇田川の胸の中にささやかな、だが暖かな明かりが点る。

(アナスタシア、確かに彼らは辿り着いたよ。当時の僕らより優秀だったようだ)
 宇田川は、続く徹の叫びを夢の中で聞いていた。

戦えるわけがない (夢見の宝玉7)

2009年02月07日 01:52

「あやちゃん、やめろ!」
 徹が絶叫するのと、リタが躊躇いもなくカードを投じるのが同時だった。
 二枚のカードが吸い込まれるように菖蒲の顔へと迫る。だが菖蒲は宇田川の首から手を離すと、顔の前で手を左右に振った。それだけで二枚のカードが四枚の紙片に変じて足元に落ちる。
 いつ出したのか、菖蒲の手には扇が握られていた。

 長い黒髪は妖しく乱れ、灰色のダブルのコートには赤黒い染みが点々と飛び散っている。足元では宇田川がぐったりと気を失って倒れている。
 悪夢としか言いようのない光景であった。

「どうして……」
 相手が凶獣であれば、手足が折られようとも這って闘い続けるつもりだった。小便を漏らしながらでも殴り続けるつもりだった。だが、菖蒲に振うべき拳は持っていなかった。

「お前、凶獣に喰われたか」
 問い掛けるリタの声には憐れむ響きがあった。返事の代わりに菖蒲の濡れた唇が、顎の骨でも抜かれたかのようにどこまでも伸びていく。
 その中に何かが覗いた気がした。

 有り得ない。これは何かの間違いだ。
 必死に言い聞かせる徹を嘲笑うように、菖蒲が足元に転がっていたランタンを拾い上げると腕の高さまで持ち上げる。目を凝らした徹の喉が奇妙な音を立てた。

 照らされた菖蒲の口の中に覗いたものは、嘗ての徹の同級生、高宮武の顔であった。

 菖蒲と高宮の上下二対の眼が徹にそれぞれ焦点を合わせる。
「どうしたあ、藤原ぁ」
 その声を聞いた瞬間だった。
「凶獣よ、地獄へ戻れ!」
 リタが両腕を大きく前方に振り出す。炎を纏った六枚のカードが菖蒲と高宮目掛けて飛翔した。

 ごぐおうおううるう。
 菖蒲の口の中の高宮が吠えた。
 操り人形のように不自然な動きで菖蒲の右足が二度跳ね上がるや否や、四枚のカードが弾き飛ばされる。残る二枚が菖蒲の手にした扇で真っ二つに裂かれて落ちる。カードは地面に落ちると、音を立てて瞬時に燃え尽きた。

「二人ともやめてくれ」
 徹は絶叫した。どこまでが現実でどこからが幻覚か判らないまま、リタに、そして菖蒲に懇願する。
「徹、お前の姉弟子は憑依されている」
 既にリタは指の間に次のカードを挟んでおり、胸の前で両腕を交差させていた。ターコイズ・ブルーの瞳には、徹が見たことがない冷徹な光を宿している。

 咄嗟に徹はリタの正面に立ち塞がり必死の形相で両手を広げた。何か言おうとしたその瞬間、耳元に吹きかけられた息と、続く強烈な異臭に徹の首筋が粟立つ。
 振り向くと目と鼻の距離に黒髪の女が立っていた。

「徹、危ない!」「ど、どうやってこの距離を」
 リタと徹の声が重なる。
 徹は飛び退りながら唖然とし、そして思い出した。

 相手は鳴神の師範代だった。

 自分が帯と扇しか扱えないのに対し、最も難度の高い鈴までも自在に使いこなす宗家鳴神。しかも、幼いころから姉以上に自分を可愛がってくれた人――
 く、くくく、くく、くくくく。
 女の声には狂気が混じっている。

(駄目だ、勝てるわけが……いや戦えるわけがない)
 力が一気に抜けて両膝から地面に付く。
(僕はどうしたら――あやちゃんは凶獣に――勝てない――まさかこんな)

 絶望に身体が蝕まれていく。強烈な吐き気がせり上がって来る。
 徹が敗北の言葉を口にしかけたその時だった。

「地震・雷・火事・親父……怖いもんは何もないっと」
 校舎の方角からどこか能天気な歌声が聞こえてきた。それに呼応するかのように、林に響き渡っていた狂気に満ちた笑い声がぴたりと止む。

 落ち着いた足取りで、茶色のムートンジャケットを着た男が闇の中から姿を見せる。まさか、あり得ない――徹が何度も目を擦るうちに、男は見間違えようのない距離まで近付いてきた。

 瓜谷悠だった。

 瓜谷は何の気負いもなく飄々と歩み寄ると、徹の頭をいきなり殴った。
「なっ……?」
 後ろで赤い髪の少女が思わず声を上げる。
「ったく、いつも世話が焼けるぜこの男は」
 瓜谷は男にしては長い髪を掻き上げると鼻筋の通った顔を顰めて見せた。その均整のとれた体駆は、生命感に満ち溢れている。
「う、瓜谷さん!」

 瓜谷は、異界の獣臭を吹き飛ばす一陣の烈風であった。ジーンズを穿いた長い脚で今度は徹の尻を蹴とばしてくる。
 何が起こったのか、何故瓜谷がここにいるのか。呆然とする徹を前に瓜谷はくしゃりと笑って見せた。
「何驚いてるんだ。俺は一昨年、去年と宝玉の管理者だぜ。このぐらい当然だろ」

 それに――
 
 瓜谷が皮肉っぽく口の端を吊り上げる。
 続く言葉とともに、雲に隠れていた満月が姿を現わす。

「俺も鳴神だ」

おい藤原ぁ、聞いたか (夢見の宝玉8)

2009年02月09日 01:35

 徹は衝撃に一瞬、時が止まった気がした。
 自分が今何をしているかも忘れ、穴のあくほど目の前の男の顔を見る。瓜谷は狙い通りの反応をしている徹に満足げだった。

「お前、爺さんに直接習ってるからって一子相伝か何かだと勘違いしてるだろ。漫画の見過ぎだぜ」
 瓜谷は意地悪そうに顎をしゃくる。その方向には、徹とは対照的に眉一つ動かさないでいるくリタの姿があった。
「リタちゃんは、とっくに気付いてたぜ」

 紺色のダッフルコート姿の少女は無言のまま、瓜谷の言葉を肯定していた。異様な光景、そして明らかになる事実の数々に、徹は圧倒され言葉を失っていた。

 リタと共に宝玉の紡ぎ出す悪夢に迷い込み、宇田川と狂気に侵された菖蒲、更には菖蒲の口の中に高宮を見た。危うく自分は邪悪な闇に溺れかけるところだった。
 それが今、瓜谷の出現と同時に、黒い駒で埋め尽くされていた盤面が鮮やかに裏返っていく――

 徹はへたり込んだままで二人を眺めていたが、ジーンズの尻から地面の冷たさが伝わってくるにつれ、ようやく頭が働き始めた。

(それにしても……凄い人だ)
 ムートンジャケットに両手を突っ込んだまま歯を見せている男を前に、徹は素直にそう思う。同時に、瓜谷の言葉が意味するものが心に重くのしかかってきた。
 
 果たして自分はリタに相応しかったのだろうか。リタは瓜谷と組むべきではなかったのだろうか。
 いけないと判っていても消極的な思いが頭を擡げる。

 だが瓜谷はそんな徹の心の動きも全てお見通しのようだった。赤い髪の少女に近付くと、親しげにその肩を抱く。 
「リタちゃん、俺を選ばなかったのを後悔してるか?」
 からかうような瓜谷に対し、リタが愚問とばかりに言下に否定した。
「徹は最高のパートナーだ」
 
 単に事実を告げるだけの、照れも気負いもない口調だった。肩に置かれた手をさりげなく、だが明確な意思を持って瓜谷の方へ押し遣る。
 かちり。
 その瞬間、自分の中で何かのスイッチが入った。突然心臓が脈打ち始める。

「おい藤原ぁ、聞いたか」
 瓜谷は片目を瞑ってみせた。
 気障な仕草の中に溢れんばかりの親しみが込められていた。
「お前、男なら奮い立たてよ」
 瓜谷の言葉を聞くまでもなかった。

 入学式でのリタと瓜谷の強烈な印象を残した遣り取り。そして、瓜谷を鳴神と知ってなお徹を選んだリタの思い。全てを知った後の興奮が徹の中で音を立てて渦巻く。
(徹は最高のパートナーだ)
 全身に力が湧き上がった。先ほどまでの寒さなど微塵も感じなかった。
 指に力をこめ、丹田に気を注ぎ込むと一気に立ち上がる。
 赤い髪の少女が小さく、だが心からの笑顔を見せると駆け寄ってきた。

「やれやれ」
 呆れたような、だがなおも親しみの込められた口調で瓜谷が呟くと、首をごきりと鳴らしてポケットから手を出した。
「さ……て。で、次はあちらさんだが」
 とぼけた調子で声を掛けてきた瓜谷に、菖蒲の存在を思い出して徹は慌てて振りかえると――

 言葉を絶する光景がそこにはあった。
 両手両膝を地面についた小柄な女の口から、巨大な狼にも似た獣の半身が出てきていた。

 昆虫の脱皮。
 脈絡も無くその言葉が浮かぶ。
 身長百五十センチほどしかない菖蒲のどこに入っていたというのであろうか、既に三つの頭が顔を出し、虎の前脚と黒い毛に覆われた雄牛の胴体とが外に出ようともがいている。菖蒲の口は飴細工のように広がり、両の瞳からは歓喜とも苦痛ともつかぬ涙が流れ落ちている。

 異様な、そして淫靡な光景であった。
「二人とも慌てんなよ。あれは鳴神先輩が自分の意思で吐き出してんだ」
 瓜谷が落ち着いた声で制する。
「だいたい、いつまでもあんな化け物に身体を売り渡したままの人じゃないんだよ」
 後半は自分に言い聞かせるようであった。

 その間も菖蒲は獣を吐き続ける。凶獣を覆う剛毛は羊水に浸かっていたかの如く皮膚に貼り付き、大の男でも抱え切れぬ体躯の下にある鋼の筋肉を容易に想像させた。
 にもかかわらず女の口元で胴体が風船のように縊れる様は、異様さを取り越して滑稽ですらあった。

 そうこうするうち菖蒲は三本の鞭のような尾まで吐き終わると、続けて胎盤にも似た黒い肉塊を吐いて倒れ込んだ。地面に落ちるや否や肉塊は煙を上げて溶け始め、獣臭に肉の焦げる匂いが混じる。
 その匂いに捕食本能を刺激されたのか、凶獣が太い前脚に力を込めて身体を起こそうとする。

 じゅふるぶふずじゅぶしゅくじゅ。

 尖った口の端には緋色の泡が幾つも浮かんでいた。左右の頭部は未だ眠りから覚めておらず、中央だけが紅い眼球を爛々と輝かせている。
 見る者の心を狂わせかねない光景だった。
 だがこれこそ徹が夢で何度も見た、待ち望んでいた相手だった。

「これ使え。夢で見ただろ」
 いつ横に立ったのか、瓜谷が宝玉の箱に巻かれていた銀の鎖を徹に押し付けてきた。
 瓜谷は何かを確かめるかのように徹の全身に視線を這わせていたが、じゃあ俺は帰るぜ――不意にそう言って口の端を上げた。

 思わず一歩前に出かけた徹だったが直ぐにその足を戻した。言われるまでもなく、これがルールだと判っていた。
「ありがとうございました」
 頭を下げる徹を前に、端正な男の顔がくしゃりと笑みで歪んだ。
「ま、今回の主演男優はお前だからな」

 そのまま瓜谷は凶獣の横を平然とすり抜けると菖蒲を背負う。凶獣は瓜谷が見えないかのように徹たちに牙を剥き出すだけであった。
(一人で背負込みすぎなんですよ。先輩は)
 低い声とともに菖蒲を背負った瓜谷が遠ざかっていく。凶獣が徹とリタに対してがちんがちんと歯を鳴らしながら、立ち上がろうとしている。

 びしっと決めろよ――
 暗闇に消えた広い背中から、最後にそんな台詞が聞こえた気がした。

約束だからね (夢見の宝玉9)

2009年02月11日 03:56

 徹は瓜谷が去るのを見届けると、手渡された銀鎖を右手に巻きつけて凶獣に歩み寄った。初めて握るにもかかわらず、この為にあつらえたかのように手に馴染む。
 七、八歩離れた後ろでは宝玉を両手に抱えたリタが詠唱の準備を始めていた。
 
「徹、少しでいい。時間を稼いでくれ」
 リタが声をかけたその瞬間、凶獣の左右の頭部の目が開いた。紅い眼球が裏返った状態のままで、徹たちを威嚇するように立ち上がった。

 ごぉくるくうるるるう

 大地を震わす咆哮に、眠りに就いていた鳥たちが一斉に飛び立つ。凶獣の眼球が音をたてて回転する。
 一対、二対、そして三対の紅い眼が全て徹を捉えたその瞬間、凶獣が襲いかかってきた。女の胴回り程もある太い前脚が徹の頭蓋を砕かんと迫った。

 徹は腹の底から吠えた。
 足裏からの内転運動を身体の中で倍加させ、一気に肩口まで持っていく。右手に持った鎖がリタの持つ宝玉と呼応して鈍い光を放つ。呼気と同時に銀鎖を前方に投じると力を注ぎ込む。

 ずくっつ。
 鎖が白銀の槍に形を変えて、凶獣の腹を貫いていた。

 ごぉくうおうるうるるるうう
 凶獣が胴を捩じると同時に鎖がぶつりと抜け、その勢いで徹は近くの木に叩きつけられた。

 貫いた瞬間こそ確かに手応えがあったものの、凶獣の傷口は見る見るうちに塞がれていく。駆け寄ろうとする赤い髪の少女を制し徹は立ち上がりかけたが、途中で激しく咳込んだ。口に当てた手に鮮血が飛び散っていた。

 凶獣は三本の尾を地面に叩きつけては暴れ狂っていたが、腹に穿たれた穴が消えるや再び徹へと突進した。
 徹は背後に身を投げ出す。徹がもたれていた幹に凶獣が激突し鈍い音と共に木が傾く。肋骨の痛みに徹は思わず呻き声を漏らすと、一瞬凶獣から視線を逸らす。
 直後、倒れ込んだ状態で再び見上げた空には、視界を覆わんばかりの凶獣の姿があった。

(あ……)
 既に凶獣の前脚は、自分の頭目がけて振り下ろされ始めている。両肩を地面につけたままでは右手の銀鎖を投げ放つ術もない。
 赤い髪の少女の残像が脳裏に浮かんだその時だった。
 
 ざぐりざぐり。
 ざぐりざぐりざぐりざぐり。

 凶獣の喉にそして鼻に、リタの放った六枚のカードが炎とともに突き刺さった。
 凶獣の前脚の狙いが逸れて徹のすぐ横の地面を穿つ。
 一拍遅れて起き上がった徹を見向きもせず、凶獣は憤怒の雄叫びと共に今度はリタへと突進した。

(まずい!)
 徹は全力を振り絞って鎖を頭上に掲げた。
 リタは、迫る凶獣を前にしてなお怯むことなく詠唱を続けている。
 抱えた宝玉の輝きが急速に増していく。赤い髪が静電気の渦に巻き込まれたかのように、前後左右に広がりながら逆立つ。
 徹は凶獣の巨大な後ろ姿目がけて鎖を投げ放った。

(頼む、届けえ!)
 凶獣の牙が少女の赤い髪に届かんとする瞬間、徹の思いを乗せた銀鎖が雄牛程もある胴体に巻きつく。
 
 と同時に、凶獣の動きが止まった。

 己に巻かれた鎖から力が全て吸い取られている、とでもいうのだろうか。
 凶獣は一歩も進むことが出来なくなっていた。
 顎さえ閉じられず、滴り落ちた唾液がリタの足元に染みを作っている。瞳孔だけが拡大と収縮を繰り返している。

 一方、動くことが出来ずにいるのは徹も同様であった。
 凶獣の持つ力なのか、宝玉の力なのか、自分の意志では指一本上げられぬまま鎖を通じて体内に巨大な力が充満していく。
 強烈な吐き気が喉元までせりあがる。眼球が盛り上がり転がり落ちる恐怖感に駆られる。
 だが徹は自分に注ぎ込まれる全てを受け入れた上で、リタの弟のイメージを強く脳裏に浮かべた。

「汝が器を持って――」
 リタの詠唱は終盤に差し掛かっていた。
 ぐしゅすじゅずじむぃじざあガカキあぁクゅゥイねうュ
 凶獣の唸り声に金属音が混じり始めた。鎖に縛られた凶獣の筋繊維が音を立てて千切れ、千切れた先から白い煙となって夜空に立ち昇っていく。

「魔障を切り放ち給え!」
 リタの声が直接脳裏に響く。宝玉が爆発したかのように閃光を放つ。
 徹たちの背後で武道場の窓が高い音を立てて次々に割れた。

「うおぉぉおお!」
 宝玉の白い光に包まれたまま、徹は声の限りに絶叫した。

 タのむ、葛ハら、リタの弟ヲ、きょウ獣、エドわード、天ガい、こン睡から、木ラん、

 鎖を通じてイメージが奔流のように流れ込む。
 皮膚の下で蟲でも這うかのように、両腕の血管が指先から肩口まで一気に膨れ上がっていく。
 このまま全身が破裂するかと徹が思った瞬間――

 凶獣が消滅した。

 文字通り、銀鎖に縛られていた肉体が忽然と消え去っていた。
 両腕から突如手応えが失われ、徹は無様に肩から倒れ込む。宝玉から光が消え、周囲が元の闇へと暗転し――
 
 再び林は静寂に包まれた。
(リ、リタ……)
 どこにいるのか判らぬまま、徹は少女の名前を呼ぶ。
 
 もう動けなかった。

 目を開けているはずにもかかわらず、網膜には何も映っていなかった。
 だが、徹はこれで全てが終わったことを理解していた。 
(リタ、僕は悔いはないよ)

 空からは、いつしか雪が降り出していた。

   * * * * * * * *



(……ねえ、徹君)

「徹君、あたしとの約束まだ覚えてる?」
 振り向くと有理が廊下をこちらに歩いて来るところだった。肩の辺りで切り揃えた黒髪が窓からの夕陽に照らされている。

「も、勿論だって」
 実のところ宝玉のことで頭が一杯で、有理との約束を考える余裕はなかった。後ろめたい気持ちを隠すように徹は笑顔を作る。瓜谷を真似して歯を覗かせる。
 だが有理は眉を顰めて身を引いて見せた。

「……今の顔、ちょっといやらしかった」
「なっ――」
 徹は動揺で耳まで赤くなる。
 その激しすぎる反応に、黒髪の少女は慌てて首を振った。

「う、嘘だから。徹君」
 徹の表情を窺うように上目遣いになる。徹は軽く睨むと人差し指で有理の額を弾いた。

「あ痛っ、ひどい」
 少女は悲鳴を上げるとそのまま暫く不満げに額をさすっていたが、その表情がふっと柔らかくなった。
 でもよかった――有理がそう呟いて二階の廊下から外を眺める。
「あたし、この季節好きじゃないんだ。三年生の先輩は来なくなって学園も寂しい感じだよね」
 夕陽に照らされて眼を細めたまま話しかけてきた。それに寒いしな、徹が相槌を打つと有理はくすりと笑いながら両手を胸の前で組んで伸びをした。

「早く春が来ないかなあ」
 今度は両腕を頭の上に上げてもう一度伸びをして見せる。ブレザーの間から覗いた腰の細さにどきりとして、徹は慌てて視線を逸らす。
 有理は再び小さく笑った。

「――春になる前に言ってね」
「へっ?」
「だから、あたしにして欲しいこと」
 有理は、舞台の上で踊るようにふわりと背を向けた。艶やかな黒髪から金木犀の匂いが届く。
 約束だからね――
 少女の言葉が何故か反響して聞こえた。いつの間にか周囲の照明が落ちて有理の姿も消えている。
(そうだ、考えなくちゃな)
 暗がりで呟いたその瞬間、仲間がどこかで自分を呼ぶ声に気付いた。

 どうやら夢から覚める時間だった。

 徹は有理を見習って伸びをしてみた。
 大きく息を吸って四肢を伸ばし、新鮮な空気を全身に充満させる。

   * * * * * * * * *


 そして徹が再び目を開けたのは、春分の夜から四日目のことであった。

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