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第四章 プリムラ(前編)/ 今でも、夢を見るんだ (プリムラ1) 

2009年01月04日 23:49

「天蓋、よい」
 木蘭は凛とした表情で、傍らの男を制した。
「常人の技では幾ら数を頼んでも凶獣は切れぬ。宇田川殿もそう言っていたではないか」
 天蓋の奥歯がぎりりと音を立てた。
「しかし、一人の援軍も無しとは」

 木蘭は真直ぐ前を見据えている。
 四、五間先にわだかまる暗闇が異界の獣の形を取り始める。聞く者の心を狂わす咆哮が響き渡る。
 十代の後半にしか見えぬ銀髪の少女は、この世ならざらぬ光景にも怖じることなく天蓋に話しかけた。

「お前の命、預けてくれるか」
「無論」
 天蓋の間髪入れぬ返事に木蘭は頷いて続けた。
「我が力、天が授けしものなれば何時か天命を知る日が来よう。そして今、倒すべき凶獣が在り、傍らに宝玉が在る。今日がまごうことなきその日その時」
「――承知」

 天蓋は左肩にかけた長鎖を解くと、暗闇に光る紅い眼に対し低く構える。もはや貞義への怒りも自分達を呼び寄せた宇田川の男への恨みも無い。ただ守るべき少女のことだけを考える。
 木蘭は木箱から仄かに光る宝玉を取り出すと、東の夜空を見上げた。
「いずれにせよ、夜明けまでには全て終わっているだろう」

 凶獣の咆哮がもう一度大地を震わせたのが、戦いの合図となった。

   * * * * * * * *
  

 徹とリタが宇田川から呼び出されたのは、三月一日だった。
 二人とも理由は承知している。それぞれの思いを胸に職員室に足を踏み入れると、宇田川はいつも通りマグカップに入ったコーヒーを飲みながら授業の準備をしていた。

「いい表情だ。今年の管理者に相応しい」
 宇田川はコーヒーを飲み干すと立ち上がり、職員室の奥にある理事長室に二人を通した。
 名前こそ理事長室だが普段は無人であり、木製の大きな茶色の執務机とソファー、そして同じく木製のどっしりした書棚が右奥に置いてあるだけであった。正面の壁には壮年男性の大きな白黒写真が額に入れられて飾ってある。

 宇田川は二人を座らせると、書棚の中段に据え付けられた観音開きの扉に手を掛けた。サッカーボールでも入っていそうな古びた木箱を取り出し、外側に何重にも巻かれた細い鎖を丁寧に解き始める。ソファーからは、微かに埃の匂いがした。

「これが如月の宝玉だ」
 宇田川は箱の蓋を開けると、乳児の頭ほどの球体を二人の前に置いた。微かな傷が至るところにあるが文字や紋様の類は刻まれておらず、単に鉱石を球形に加工しただけに見える。
「新年度までの約一カ月間、君たちが宝玉の管理者だ。聞いているかもしれないが――」
 宇田川は一呼吸置いた。
「この宝玉は春分の夜に、夢見の宝玉に変わる」

 夢見の宝玉。杉山の論文にも出てきた言葉にリタが無表情に頷く。
 リタは年末イギリスに里帰りして新学期直前に戻ってきたが、それ以降、物思いに沈んだり、時に苛立った調子で早口になることがあった。念願のナンバーワンが現実となり春分が近付くにつれて、かなりの重圧を感じているように見受けられた。

「春分、即ち彼岸の中日の夜に、宝玉は君たちが自分の主に相応しいか試すだろう。そして宝玉に認められれば願いは叶う――これが言伝えだ」
 徹は、春分についての自分の僅かな知識を思い返す。
(昼と夜の長さが同じで祝日。今年は三月二十日だった。ならば、どうして如月の宝玉というのだろう)
 自分達を見つめる宇田川の胸に何が去来しているのか、表情からは読み取れない。

「春分の夜には何が起こるんだ?」
 質問する赤い髪の少女の声に戸惑いはなかった。
「何かの、夢を、見る」
 君ならば十分に理解していると思うがな――そう続きそうな宇田川の答だった。
「どんな夢かは君たち次第だ。リスクを取りたくないなら、ここに宝玉を置いておくことを薦める」
 口調こそ穏やかだったが中身は警告そのものだった。徹は胃が収縮する感覚に、視線を外して大きく深呼吸をする。頭上に掲げられた白黒写真にふと目を留め――

(宇田川先生?)
 写真は徹が生まれる前のものと思われたが、スーツに身を包んで髪を撫で付けた壮年男性は宇田川によく似ていた。
「参宮の初代理事長――私の祖父だ」
 視線に気付いた宇田川が徹の心中の疑問に答える。
「父も既に他界し、今は私が理事長代行の任についている」
 徹はその瞬間、思いもよらなかった可能性が頭に閃いた。そして、それが真実であった場合に意味するものに慄然とした。

「先生、この学園はまさか、宝玉の管理のために立てられ……」
 徹の言葉にも宇田川の表情は変わらなかった。
「説明は以上だ」
 宇田川は立ち上がった。これで終わりだという明確な意思表示だったが、徹は返事をどうしても聞きたかった。ソファーに腰を下ろしたままスーツ姿の男の顔を見上げる。
 宇田川は、数秒の沈黙の後で再び口を開いた。

「私もかつて宝玉の傍らで夢を見た。それ以来――」
その瞳に微かな後悔と郷愁とが浮かんでいた。
「今でも、夢を見るんだ」
 徹は、宇田川の内面の一端を覗いた気がした。
 二人はこれ以上の回答は得られないことを感じ取ると、軽く一礼をして理事長室を出た。

「夢見の宝玉か」
 廊下を歩くリタが呟く。顔色は普段にも増して青白いのに、瞳は熱に浮かされたように爛々と輝いていた。徹は傍らで、昨日の瓜谷との遣り取りを思い出していた。

 お前、ナンバーワンになって気が抜けたんじゃないか――これが昨日の放課後、武道場の裏手に呼び出してきた瓜谷の第一声だった。制服の濃紺色のブレザーを着てズボンのポケットに手を突っ込み、鼻には皮肉っぽい小皺を寄せている。どう返事をしていいものか悩む徹に対し、瓜谷は暫く周囲の木立を見回していた。

「懐かしいぜ。俺も杉山想平の兄貴に、ここに呼び出されたんだ」
 首をかしげた徹に、瓜谷は眉を非対称に崩して顔を顰める。
「おいおい、杉山の兄貴は二年続けてナンバーワンになった学園のスーパースターだったんだぜ。まあ、言ってみれば俺の師匠筋だ」
 瓜谷は芝居がかった調子で嘆息して見せた。
「その反応から察するに、鳴神先輩から何も聞いてないみたいだな」
 瓜谷が菖蒲と自分の関係を知っていることは徹にとって驚きだった。だが目の前の男にとっては、その気になれば情報を集めることなど造作もなかっただろう。

 虫も殺さぬ顔してあの人も人が悪いぜ、まあ俺から説明すれば済む話だけどな――そう瓜谷は肩を竦めると語り始めたのだった。
 瓜谷によれば、人は宝玉の傍らで特定の夢を見るらしかった。夢の種類は人によって異なるものの日々鮮明になり、春分の日を境にして今度は徐々に薄れていくという。

「宝玉の管理者だからといって必ず夢を見るわけじゃない。宝玉に感応した者だけだ。例えば、鳴神先輩とか俺とかな」
 瓜谷は徹の反応を楽しんでいた。緊張を漲らせる徹を前に口の端を吊り上げた。
「ここまで聞いたら、去年俺が何の夢を見たか聞きたくなるだろう?」
 女でも口説くような声だった。徹は瓜谷の話術に嵌まっていることを自覚していたが、好奇心に抗えなかった。餌を欲しがる仔犬さながらの徹に対し、瓜谷は獰猛な笑みを浮かべた。

 化け物の夢だったぜ「徹、今夜は私の家に来ないか」

 徹はそこまで思い出したところで現実に引き戻された。赤い髪の少女と二人、教室まで辿り着いていた。
 徹はリタの誘いに頷きながら、脳裏ではなお瓜谷の言葉が木霊していた。
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誓うよ (プリムラ2)

2009年01月07日 01:29

 その夜、徹はリタの家に泊まった。
 セシルの作った夕食に舌鼓を打ち、リタとカードに興じたが、夜が更けるにつれ二人とも口数が少なくなった。
「夢見の宝玉――」
 リタが低い声で話し始める。
「我が故郷にもその伝説が伝わるネフライトの球体。持ち主に力と幸運をもたらすパワー・ストーンであり、中でも参宮学園に伝わる宝玉は第一級の魔石だ」

 徹はソファーに並んでもたれながら、英語交じりの話に耳を傾ける。床暖房が効いた室内は外の寒さを全く感じさせず、曇った高窓の内側についた水滴だけが季節を思い出させる。部屋の隅では加湿器が微かな音を立てていた。

「我が家系はドルイドとして歴史に名を刻んだ一族の末裔。だが、代々男が短命で、子を残すまでに長じることは無かった」
 リタは不意に話題を変えた。瓜谷の話にも似て前後の脈絡が無いが、リタのこうした話し方には馴れている。一つ一つの意味を問うことなく徹は説明の続きを待った。

「私も母も、人と異なる能力を持って生を受けた。母には人に見えぬものが見え、徹も知っているとおり私は触れることでその在り様を知る。だが一族の能力の代償なのか、母の叔父は十六歳でその生涯を終え、母の兄も二十歳までの命だったという」
 外は風が強いのか、堅牢な造りの洋館にもかかわらず老婆が咽び泣くような音が時折聞こえてくる。

「母は参宮に夢見の宝玉があることを知り、宝玉に願うことで自分の兄を救えないかと考えた」
 リタはそこで手元の紅茶を口にした。現実感の無い話が、一年近く共に過ごした少女から語られている。
 徹は、宇田川の疲れたような声を思い出した。
(今でも、夢を見るんだ)
 リタは喉を潤すと言葉を続けた。

「結論を先に言えば、母をしても叶わぬ望みだった。母達が見たのはどちらも銀髪の女の夢だったが、それだけでは不十分らしかった」
 少女は言葉を紡ぎながら目を薄く閉じている。
「……私には二つ下の弟のエドワードがいる。数か月前に倒れて意識を失ったままだ」

 徹は、十一月に楠ノ瀬のシュガークラフトを見に行った時のことを思い出した。あの時リタは急遽帰国していた。当時リタは多くを語らなかったが、よほどのことがあったのだろうと薄々察してはいた。

「今年は春分と満月が重なる、真の年。何が起こるか私にも母にも想像は出来ないが、宝玉の能力が最も高まることは疑いようの無い事実。だから――」
 口調こそ平静を装っていたが、膝の上の両手は強く握りしめられていた。呑み込んだ言葉に込められた思いが痛いほど伝わってくる。

 弟が昏睡状態であることなど聞く必要は無かった。
 声を掛けられた時から判っていたのだ。この誇り高き少女がどれほどの覚悟で日本に来たのかを。
 徹は、リタに連の申し込みを受けた日のことを思い出し――お互い悔いの無い一年を過ごそう――その言葉の重みを噛み締める。
 あの時強く惹かれたのは、自分の心がリタの覚悟に共鳴したのだ。自分を必要としてくれる者に巡り合って歓喜したのだ。

 徹は、なおも話を続けようとするリタを遮った。
「僕らは連だ。だから――」
 徹は短く告げた。
「誓うよ。全力を尽くそう」

   * * * * * * * *
 
 徹は、春分の夜までリタの家に泊り込むことになった。
 共に宝玉と相対する以上、同じ部屋で寝泊まりすべきだ――リタの提案は相変わらずシンプルであった。両親にどう説明すべきか悩んだが、姉の望が「あたしが適当に説明しとくから」と言って実際それで済んでしまった。これまで優等生だったからな――徹は何とも複雑な気分を抱いた。 

 翌日には客間からリタの寝室にもう一つベッドを運び込んだ。本棚とクロゼットそして木の机と椅子。少女の居室としては殺風景な部類であったが、カーテンだけが野薔薇の模様をあしらった柄で部屋の主の好みを感じさせた。
 
(こんな子が宝玉と対峙できるのだろうか)
 それにしても徹は心配でならなかった。リタがただの少女でないことは十分承知しているが、その姿は嵐に立ち向かう、か細い若木に思えた。
 ベッドに腰掛けたリタは先程から深呼吸を繰り返している。呼吸に合わせてその薄い胸が上下していた。
(私は、触れることでその在り様を知る)
 徹はリタから聞いた言葉を思い出す。

「……今から宝玉に触れるぞ」
 リタの言葉に、徹は目の前に出された右手を取った。宝玉が本当に強い力を持つ魔石であれば自分を媒介として徹にも実感出来るはずだ。それが事前のリタの説明だった。 
リタは息を止めて、空いている左手で宝玉に触れ――

「っつふあっああああ」
 歯を食いしばる少女の唇から高い喘ぎ声が漏れ、全身が感電したかのようにびくりと跳ねる。徹と繋いだ右手が思い切り握り締められる。少女のものとは思えない力に顔を顰めた直後、徹の全身に衝撃波の奔流が襲った。

 肉体的な痛みすら伴う圧倒的な力だった。
徹の腕が総毛立つ。毛細血管から大動脈を通って心臓へ波動が逆流し、直後にその波が身体から消え去っていく。
 リタはといえば首筋が粟立ち、両肩で大きく息をしていた。

「……確かに感じた。確かにこの宝玉には何かがある」
 赤い髪の少女は歯の根が合わないほど震えていた。
 これが宝玉か、これが夢見の宝玉か――独り言を繰り返す。広い額に玉の汗が浮き出ている。 
 宝玉の中に人知を超えた力が存在することは疑いようがなかった。同時に徹は、それが清浄な力ではないことを直感的に感じた。
 果たして春分の夜に何が起こるのか。胸に不安が過る。

「それでは休むとするか」
 リタの口調にも、どこか翳りが感じられた。

十一月十八日だ (プリムラ3)

2009年01月08日 23:17

 どこからか聞こえてくる
 部屋の外ではなくもっと近く
 リタのベッドではなくもっと近く
 どこからか聞こえてくる
 耳元ではなくもっと近く
 ふと気付くと目の前に黒い闇がある
 これがリタの言っていた「何か」なのか
 お前は何者だ――影に話しかける
 だが、獣の唸り声が言葉をかき消す
 そして不意に黒い闇が消える
  
 どこからか聞こえてくる
 部屋の外ではなくもっと近く
 耳元ではなくもっと近く
 凛とした少女の唱句
 抜き身の刀にも似たその姿
 お前は何者だ――影に話しかける
 銀髪の少女は確かに私が見えている
 そして答えることなく私の前から消える

   * * * * * * * *

 目を覚ますと、薄明かりの中でリタがベッドに身を起こしていた。枕元の時計は午前六時を指していた。
「何を見た?」
 リタが早口で問う。
「け……獣の唸り声と黒い影を見た」
 答える徹にリタは矢継ぎ早に質問を続ける。
「他には?」
「いや、影が形を取る前に夢から醒めた」

 リタは興奮を隠し切れないようだった。
「いいぞ徹。私は母の時と同様、木蘭と名乗る女の夢を見た。徹と私が異なる夢を見ているのであれば我々にはチャンスがあるぞ」
 リタは勢い込んで徹の両手を取ったが、その途端に手を引っ込めた。
 リタは目を凝らしベッドに身を起こす徹の姿を見ていた。その表情から興奮が消え去り、代わって青白い顔に暗い影が差していく。

「……徹、着替えたほうがいい」
 言われて初めて、身体がぐっしょりと冷たい汗に濡れていることに気付いた。
「心配しないでいいよ、夢を見ただけだから」
 だがそう言いながら徹は、夢で聞いた獣の声が耳から離れなかった。
 
 その夜以降、徹はうなされるようになった。

 起きている間も精気を取られているようで全身がだるい。鳴神流の稽古からリタの家に戻る頃には、疲労困憊して動けないほどであった。稽古を休むことも考えたが、非日常に半身を置くからこそ、起きている間は確かな手ごたえが欲しかった。
 
(あやちゃんも当時やつれていたけど、あれはもしかして――)

 夜を重ねるにつれ、夢の中の影は明確な輪郭を取り始めていた。影の方も徹のことを認識しているようで、唸り声に凶暴さが増し始めた。
 リタの家に泊まり込んで、二週間が過ぎようとしていた。

   * * * * * * * *
 
「徹、もっと朝食をしっかり取った方がいい」

 暦の上では三月も中旬に差し掛かっていたが、春の兆しは一向に感じられない。ぐずついた天気が幾日も続いていた。
 その日の朝、徹は明らかに消耗していた。全身が鉛のように重い。リタも体調が悪いようだが徹の方がその傾向が顕著だった。

「そんなにひどい顔をしているかい?」
 二人で食べるには広すぎるダイニング・テーブルに向かい合って座りながら徹は、努めてさり気なく訊いた。
「春分まであと一週間だな」
 リタは徹の質問に答えず紅茶を口にすると、外を眺めた。外は相変わらず雲が厚く覆っていたが、庭では寒さを撥ね退けるように黄色やピンクの小さな花々が咲いている。

「あれはプリムラ・ジュリアンだ。決して華やかではないが冬の寒さに凛と咲く」
 冬の寒さに凛と咲く――徹がリタの言葉を口の中で反芻しながら外を眺めていると、空から粉雪がちらつき始めた。
 二人は、傘を差して学校へと向かった。

 リタは入学してからしばらくセシルの運転する車で通っていたが、夏前には徒歩通学するようになっていた。今日もセシルの申し出に首を振ると、リタは白い息を吐きながら歩き出す。
 並ぶでもなく徹はリタの赤い傘の後をついて行った。

 リタが背を向けたまま、話しかけてきた。
「徹を初めて見たのも雪の日だった。あの時は積もっていた」
 徹には、一年前のことが酷く遠い出来事のように感じられる。
「そういえば、転入手続きの日に見たって言ってたね」

「あの時も徹は、緑色のマフラーをしていた」
 徹は、道場の裏手の老木の下で子猫を助けたことを思い出す。あれが全ての始まりだったのだろう。
「これ一本しかもっていないんだ」
 首に巻いた毛糸のマフラーを指で弄りながら答える。

「女の子からプレゼントされたりはしないのか?」
 リタらしくない台詞に、徹は少しだけ頬を緩めた。
「手編みをかい? 最近は流行らないらしいよ」
「そうかもしれないな」

 そこで会話が途切れた。横断歩道に差し掛かり二人並んで信号を待っていると、何の前触れも無くリタが徹の頬に白い手を置いた。
 少女の手は冷たかった。
「徹、後悔していないか」
 嘘を付けば判る――澄んだターコイズ・ブルーの瞳がそう告げている。徹は精一杯の笑顔を作った。

「リタには感謝してる」
 リタが微かに眉を上げる。徹は注意深く言葉を選んだ。
「きっと人には二つのタイプがあるんだ。他人を生かす人間と、他人に生かされて輝く人間と」
 頬に置かれたリタの手をそっと元に戻し、話題を変えた。
「リタは背が伸びたね」

「背?」
 リタが徹の台詞を聞き返すことなど珍しい。
「ああ、背も伸びたし大人っぽくなった。まあ、会った時から十分大人びてたけど」
 最後は苦笑めいてくる。
「十四歳になったしな」
 リタは淡々と答える。ふと徹は思いついたことを口にした。
「そういえばリタの誕生日は、いつなんだ?」
「十一月十八日だ」

 聞いてはみたものの、過ぎ去ってしまった日付を聞く愚かさを後悔し徹は黙り込む。
 信号が変わり、徹とリタは再び歩き始める。
 不意にリタが口を開いた。

「……ミッキーマウスと同じだ」
 リタが赤い傘を翻して徹に振り向く。傘と同じ色の髪が大きく揺れる。リタは少しだけ誇らしげに目を細めると、再び口を開いた。
「十一月十八日はミッキーマウスの誕生日だ」

 その顔は確かに十四歳の少女だった。

でも届かないんだよな (プリムラ4)

2009年01月11日 00:11

 放課後、徹は自分を呼ぶ声に振り返った。
 教室には荻原有理と、いつ来たのか有為も立っている。後ろには楠ノ瀬麻紀と桐嶋和人、そして杉山想平までいた。
「何だい、みんな揃って」
「あんたこそ毎晩リタの家で何やってんのよ」
 有為は肩を怒らせ両足を開いて立っていた。形のよい眉が釣り上がっている。
 だが、毎晩澱んだ悪夢に悩まされている徹にとっては、少女の怒りは清冽なものに感じられた。

「どうしてそんなこと知っているのさ」
 驚く徹に、楠ノ瀬があきれた様子で額に指を当てた。
「……徹ちゃん、毎日同伴出勤して今更の反応だと思うけど」
 徹が口を開きかけると、それを制するように有為が噛み付く。
「学園中の噂なんだから」
「じ、事情があることくらいわかってる。でも、ど、どうしてそんなに衰弱するんだよ」
 桐嶋が垂れ下がった太い眉を寄せる。

「あんた、まさか……」
 不潔なものを見る有為の目つきに、徹は慌てて全身で否定した。
「ま、まさかって、な、何がだよ」
「うるさい。誤魔化さないで答えなさいよ」
 栗色の髪の少女は既に戦闘態勢に入ってしまっている。自分たちが周囲の注目を集めていることなどお構いなしだった。なだめるように楠ノ瀬が有為のブレザーの肩に手を置いた。

「有為ちゃんは走りすぎ。でも、徹ちゃんも勘違いしてない? これは学園のイベントに過ぎないんだから」
 軽くウェーブの掛かった茶色い髪の下、いつもならば小悪魔の表情を浮かべるはずの顔は真剣だった。
 こんな楠ノ瀬は初めてだった。
「事情は想像つかなくはないけど、命なんて懸けちゃ駄目だよ」
「楠ノ瀬……」

 楠ノ瀬は、その呼び方を訂正することなく続けた。
「宝玉がどれほど大事か知らないけど、そんなの無くても世界は変わらない。でも徹ちゃんに何かあったら、ここにいるみんなの世界は変わっちゃうんだよ」
 徹を除く全員が頷く。
「でも」
 徹は反射的に言葉を挟んだ。それを聞いた有為が再び徹を遮ろうとしたが、

「有為、黙って」
 それまでじっと聞いていた有理が妹を一喝した。有為が気圧されて押し黙る。
「徹君、あたしたち徹君を信じていいんでしょ」
 喧嘩腰の妹とは対照的に有理の瞳は涼やかだった。頷いた徹に、満足げに大きな瞳を細める。見る者が手を伸ばしたくなる艶やかな黒髪からは、金木犀に似た匂いがした。
「やるからには悔いが残らないようにね」

 徹は衝撃を受けた。
 リタの台詞と一緒だ――
(徹、お互い悔いの無い一年を過ごそう)
 単なる偶然とは片付けられなかった。さらりと放たれた一言だったが、紛れもなく強い信頼の証だった。
 
 徹の衝撃をよそに、有理は用事が済んだとばかりに晴れ晴れとした表情で赤いスポーツバッグを抱え、教室を出て行った。
 残された者たちはしばらくお互い顔を見合わせていたが、
「ま、有理ちゃんにああ言われたらしょうがないか。行こう」
 そう言って楠ノ瀬が、頷く杉山の車椅子を押して去っていく。

 勢いを削がれた格好の有為と桐嶋は、何とも収まりがつかないようであったが、
「馬鹿!」
 捨て台詞と共に有為も走って行く。制服の赤いチェック柄のスカートが勢いよく翻った。
 一人残された桐嶋は何か言いたげにしていたが、
「ふ、藤原、たまには一緒に帰るか」
 諦めた口調で足元のカバンを抱えた。

   * * * * * * * *
   
 春分の二日前、杉山想平は頭を抱えて唸りながら自宅で机に向かっていた。
 参宮学園に入学して約一年、調べた限り今年の春分の夜に何かが起こるのは間違いなかった。しかもそれは危険な「何か」だった。
 先日見た徹の姿が脳裏に蘇る。その頬はこけ、憔悴しきっていた。自分が答えを見つけないと徹の命にかかわる気さえした。

「ああ、糞っ」
 背もたれに思い切り体重を預けると、両手で伸びをする。机の上に飾った写真立てに視線を移すと、そこには体育祭の後で有理と自分が笑う姿があった。 

(……それにしても、有理さんは凄いな)
 杉山は感想とも愚痴ともつかぬ独り言を漏らした。
 あの状態の徹を見たら普通は止めるだろう。実際、有為は切れかけていた。だが有理は違った。
 杉山は有理の覚悟を決めた微笑を思い出し、そして心の片隅が小さく疼いた。

 もうすぐ有理と組んだ連も終わる。

 美人でスポーツ万能、しかも裏表ない性格。非の打ちどころのない少女であることは、誰もが同意するところだった。
(でも、一番可愛いところはそこじゃないんだよな)
 ふとした拍子に現れる、茶目っけたっぷりの仕草。
(杉山君はロマンチックな場所だって言うけど、ここは女の人の幽霊が出るって有名なんだよ)
 含み笑いとともに――自分では気付いていないだろうが――腰の後ろで手を組んで相手の顔を覗き込む癖。流れ落ちる艶やかな黒髪。

「手が届きそうで、でも届かないんだよな」
 無意識に声に出してしまったことに気づき、急いで杉山は頭を振った。
 今は宝玉に集中すべき時だ、有理さんのことなんかを考える時間じゃない。
 再び杉山は頭を整理するために、書き散らしていたノートに向かおうとして――

(……女の幽霊だと?)
 杉山は天啓に打たれたかのように絶句し、
 そして有理に感謝した。
 後はやるべきことは明らかだった。杉山は震える手で電話をかける。相手はワン・コールで直ぐに出た。
「お願いします、藤原先輩の親友と見込んでの頼みなんです」

 相手の返事は、訊く前からわかっていた。

これは徹には秘密だ (プリムラ5)

2009年01月12日 23:44

 春分の夕方、リタの家に荻原有理と有為、楠ノ瀬麻紀が訪ねて来た。
「寒い寒い。今夜は冷え込むって言ってたけど、大当たり」
 デパートの食料品売り場の袋を抱えた楠ノ瀬麻紀が震えながら入ってくる。荻原有為が白いコートを脱ぎながら、寒い、一言そう口にした。

 雪の精のような愛くるしい格好に――雪の精がミニスカートを穿いているかは別として――似合わぬ不貞腐れた表情で、ケーキの箱を抱えている。続いて有理がフェイク・ファーの付いたダウンジャケットを脱ぎながら、大きなスポーツバッグを足元に置いた。そのまま少女達は連れ立って廊下の奥へと進むと、食卓に並んだセシルの手料理の数々に歓声を上げた。
 一頻り騒いだ後、頬を紅潮させた一同が食卓につく頃には午後七時を回っていた。

「今日は豪華だよね」
 目の前に座った楠ノ瀬麻紀の言葉に、徹は同意する。
「うん、セシルさんは本当に料理が上手だ」
 有為が溜息をつく。
「違うって。これだけ美女が揃って凄い眺めだよね、って意味なの」
 栗色の髪の少女の呆れた口調に楠ノ瀬が苦笑した。
「有為ちゃんこそ読み過ぎ。でも、確かに徹ちゃん大人気だね」

 徹の左右には荻原有為と楠ノ瀬が並び、前には有理とリタが座っている。
 そう言えば桐嶋や杉山はどこにいったのだろうか。少女達を眺めながら、徹はふと考える。
「徹ちゃん、表情に出てる」
 脇腹を楠ノ瀬が肘で突付いた。有為がもう一度溜息をついて見せた後、表情を戻した。
「桐嶋先輩たちから伝言」
 二人で何を企んでいるんだか――有為の口調には、自分が蚊帳の外に置かれていることを不満がる響きがあった。
「俺達も援護射撃するから、頑張れって」
 
 その言葉に一同が黙り込み、今晩訪れる何かに思いを巡らす。
 運命の時は刻々と近付いていた。
「頂いたケーキを切ってきました」
 絶妙のタイミングでセシルが現れて再び食卓は歓声に包まれたが、それも長くは続かなかった。

 楠ノ瀬麻紀は夕食が終わると家に帰ったが、有理と有為はリタの家に泊ることになった。
 今日は泊まるつもりで来た、そう宣言した姉妹はセシルに向かって頭を下げた。思わぬ展開にリタと一悶着があったものの、「何があっても朝までリタたちの寝室に入らない」ことを条件に、姉妹の粘り勝ちとなった。

 そして午後十時を過ぎ、有理と有為は風呂上りの濡れた髪のまま黙々とストレッチをしている。徹は離れてテレビのニュースを眺めていた。
 一方、リタはテーブルの片隅で日記を付けていた。幼い頃からの習慣で歯を磨くようなものだ。徹は、最初に泊った夜にリタがそんな説明をしていたのを思い出す。

 リタは日記を書き終わると紅茶を片手に高窓から夜空を見上げていたが、おもむろに口を開いた。
「セシル、話がある。来てくれるか」
 リタはセシルの返事を待たず、自分の寝室に向かって歩いていった。

   * * * * * * * *

 セシルが部屋に入ると、どこから話すべきか――そう呟いて少女がセシルに向き直った。 
「セシル、宝玉に関する母の説明を覚えているか」
 リタの言葉にセシルが頷く。
 春分の夜に男女が祈りを捧げると、あるものを用いて宝玉が願いを叶える。それがリタたちが日本に来る前に聞いた内容だった。だが、宝玉を起動させるための「あるもの」が何なのかは、不明なままだった。

「宝玉が何をエネルギーに変えているのか、幾夜も夢を見るに及んでようやく判った」
 セシルが思わず唾を飲み込む。リタはゆっくり言葉を区切った。
「人の心を喰らって、力に変えるのだ――」
 地の底から響くような声だった。意味が判らず見つめ返すセシルに対し、リタは言い換えた。
「宝玉は、願う者の記憶を糧にして願いを叶えるらしい」

 聞いたセシルの顔からが血の気が引いた。
「と、いうことは……」
「本人は、何を願ったのか忘れてしまうらしい」
 一瞬、ターコイズ・ブルーの瞳に皮肉な陰りが混じった。

(母上は、ここまで知って私を送り出したのだろうか)

 が、再び表情を引き締める。

「正確には、本人の精神力や願う内容によって、失う記憶の量も異なるようだ。我が一族の能力を持ってすれば、おそらく数年分で済むであろう」 
 そこまで話したところで少女の顔が曇った。
「だが、徹は我らとは異なる。しかも徹は、私のために奇跡を願おうとしている」

 セシルは次にリタが何を言い出すか予想がついた。それはセシルには受け入れがたい内容であった。
「徹は必ずエドワードの無事を願ってくれる。だから私は徹の記憶が失われないよう宝玉に願う。無論、これは徹には秘密だ」
 リタは、セシルの一縷の希望を打ち砕くように凛とした表情で宣言した。
 それではリタ様の記憶は――セシルはその言葉を飲み込む。いかなる時も有能な秘書然とした振舞いを崩さぬセシルだったが、理知的な面立ちの裏側では激しい葛藤が渦を巻いていた。

 セシルは、主人の選択が最適解であることを直感的に理解していた。もし、記憶が失われる事実を徹に教えれば、徹は当然のようにリタの記憶が失われないよう祈るであろう。だが、この誇り高き少女はそれを知ってなお自分の弟の無事を願うことなど自らに許すはずがない。それこそリタ=グレンゴールドの死を意味する。

 話は済んだとばかりに、リタはベッドから立ち上がった。
「では、徹を呼んできてくれるか」

私を忘れないでくれ (プリムラ6)

2009年01月15日 00:55

 三十分後、スウェットの上下に着替えた徹は寝室をノックした。
 ドアを開けた少女の姿に徹は慌てて目を逸らす。もう三週間も隣のベッドで休んでいるが、今だに正視できなかった。
 寝室の薄明かりに浮かぶほっそりしたシルクのパジャマ姿は、名工の手による精妙なガラス細工を思わせた。

「徹、いよいよだな」
「ああ。エドワードが元気になるように、僕も心から祈る」
 徹の返事にリタの青い瞳が揺れた。
「……本当にいいのか?」
 徹は大きく頷いた。リタが日本に来たのも徹と組んだのも全ては今日の為に――全てはエドワードを救う為だけに――あったことを知っている。リタは徹をじっと見詰めていたが、小さく何かをつぶやくと自分のベッドに腰を下ろした。

「わかった。ところで徹、今日は先に寝てくれないか」
 いつもにも増して真剣な表情だった。眠る直前まで一人で瞑想でもするのだろうか。徹は理由を訊かず自分のベッドに潜り込むことにした。
 首元まで一気に毛布を引っ張り上げると、反対側を向いて目を閉じる。
 リタが立ったまま照明を消した。

 間もなく徹のベッドに近づく衣擦れの音が聞こえてきた。それっきり動く気配もなく部屋は静まり返っている。

 数分が過ぎただろうか。徹がふと薄目を開けるとパジャマ姿のリタが、寝ている徹のベッドの前に思い詰めた表情で身動ぎもせず立っていた。慌てて再び瞳を閉じると、再び近付く気配とともに少女の髪が自分の頬をくすぐるのを感じた。

 徹が緊張と混乱に身を固くしていると、
「……長いようで短かったな」
 その台詞とともに同じベッドの中に静かにリタが滑り込んでくる。そのまま頭を徹の胸に乗せてきた。自分の身体に置かれた少女の体温に、思わず声を上げてしまいそうになる。
 腰がリタの身体に当たらないようにずらそうとしたが、体重を預けられてうまくいかなかった。

(ああもう、どうにでもなれ)
 そう思った瞬間、リタがもう一度囁いた。
「私を忘れないでくれ――」
 掠れた低い声が耳朶を打つ。そのまま嗚咽を漏らすように少女が身体を震わせた。パジャマ越しに触れあう徹に、リタの痛みにも似た思いが沁み渡っていく。

(リタ……何故泣いて)
 運命の夜を迎えてなお、自分は何か重要なことを見落としているのではないか。
 捉えどころのない不安感に苛まれながら、徹は少女の頭に手を添えるのが精一杯だった。
 赤い髪の少女も、もはや動こうとしない。
 
 そして、いつしか二人の寝息が重なった。

第四章 プリムラ(後編)に進む

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