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第二章 向日葵/ 闇の中で人々を喰らっておる (向日葵0)

2008年10月23日 01:58

 かつて、参宮学園が弦桐寺と呼ばれていた頃の話である。

 その年の霜月、鬼門岳が噴火した。
 億千万の雷鳴の如し、そう記された大爆発だった。黒き石砂が一昼夜振り続けたという。噴火から既に数ヶ月、年が明けても余震は収まらなかった。
 
 やがて、奇妙な噂が流れ始めた。
 曰く、夜な夜な凶獣が徘徊している、と。
 曰く、近隣の村々からいつの間にか住民が消えている、と。

 そんな中、葛原家の若き当主、葛原貞義のもとに一人の男が訪れたのは如月のことであった。

「では、そなたはこの日本が異界と繋がってしまったというのか」
 四十畳程はあろうかという部屋に男と二人。上座に腰を下ろした貞義の言葉には、明らかな嘲笑が混じっていた。口髭を弄りながら冷ややかに尋ねる。一方の訪ねてきた男はと言えば、頬は削げ目は窪み、その憔悴ぶりは誰の目にも明らかであった。

 全身埃塗れの男は真剣な表情で、ひび割れた唇を開いた。
「鬼門岳は古くより、現世と冥界とを繋ぐ門として知られた霊峰。それが裂けて何事も起こらぬ方がむしろ不思議かと」

「それで、我らに一体何をしろと言うのか」
 横柄とも取れる態度を崩さぬままの貞義に対し、男は畳に擦りつけんばかりに深々と頭を下げた。
「宝玉を拝借致したい」

 ぴくりと左の頬を動かした貞義に対し、男はそのままの姿勢で言葉を継いだ。
「葛原家に伝わる宝玉の噂は、我が地まで届いておられる」

「ただの噂だ」
 貞義の答えはにべも無かった。
 そんなはずは――思わず頭をもたげる男に貞義は不快そうに言い放つ。
「葛原家当主の言葉を信じられぬというか」

 男は慌てて首を振りつつも、貞義の真意を図りかねていた。が、当の貞義は、既に男から興味を失ったかのように立ち上がると男の後方に声をかけた。
「客人は今日は泊まっていかれるそうだ。部屋をご用意してさし上げよ」

   * * * * * * * *

 その夜、床に就いた男は、部屋の外に佇む気配に気付いた。
 黙って傍らの刀に手を伸ばすと、障子の外から声が掛かった。
「先程の話、続きを聞かせてくれぬか」

 当主の貞義の妹、葛原木蘭が立っていた。
 胸の辺りまでかかる豊かな髪は見事なまでに銀色に輝き、肌は陽の下に出たことがないかのように白い。只でさえどこか人ならぬ印象を与える姿だが、揺るぎない瞳と相まって、闇に浮かぶひと振りの鋭利な刀を連想させた。

「そなたは宝玉で何をするつもりか」
 木蘭の問い掛けに咄嗟に男は左右を見渡した。冷え冷えとした板張りの廊下には他に人影は無い。上限の月も雲にその姿を隠しており、濃密な闇が庭先に広がるだけである。

 未婚の娘を夜更けに部屋に招き入れる行為。まかり間違えば如何なる咎となるのか、わからぬ男ではなかった。男は暫く木蘭の瞳を見つめていたが、やがて決心し木蘭を招き入れると口を開いた。

「音に聞こえた夢見の宝玉で、我が命と引き換えに凶獣を封じるつもりであった」
 凶獣、その聞き慣れぬ響きに木蘭が訝しげな表情を浮かべる。年の頃は貞義より十歳は下であろうか。改めて近くで見ると、ふとした表情に少女の面影も残っているが、かといって男と二人で怖じる様子もない。

「闇の中で人々を喰らっておる。自分も凶獣が娘を咥えたまま消える姿を見申した」
 真剣な面持ちで男は続けた。
「草木は枯れ果て人々は飢え、凶獣が徘徊する。地獄絵さながらでござる」
 何が脳裏に浮かんだのか一瞬男の唇が震えたが、直ぐに元に戻った。

「その化け物の数は、どの程度か」
 一頭と答える男に対し、木蘭は訝しげに眉を顰めた。

「たかが一頭、人数を集めて討ち取ることは適わなかったのか」
 もっともな疑問を口にした木蘭に対し、男は静かに答えた。
「我が一族の男は、もはや我が身を含めて片手にて足る数にまで減り申した」

 思わず目を見開いた少女に構わず、男は続けた。
「あれは闇が形を取った魔性の獣。煙と同様、幾ら切り裂いても傷を与えることが出来申さん。総力を挙げて挑んだものの打ち滅ぼせず、恥を忍んで参った次第」

 その言葉の意味する衝撃的な事実に、木蘭は口を真一文字に結んで柳眉を寄せる。
 部屋の僅かな灯りが、その玲瓏たる美貌と老婆のような銀髪に微妙な陰影を与える。

(凶獣が異界のものであれば、この娘もまた夢幻か――)
 男にとって、そう思わずにいられない光景であった。

 不意に木蘭の双眸に強い光が宿った。
「承知した、宝玉をお貸ししよう」
 思わず膝立ちとなる男を制し、木蘭は言葉を続けた。
「とはいえ、葛原家の家宝をみだりに預けるわけには行かぬ。私が参ろう」

 男は木蘭の言葉に息を呑んだ。
「とてもそのような……女人が足を踏み入れるような地ではござらぬ」
 だが、木蘭は僅かに目を細めただけであった。男がなおも何か言いかけようとしたその瞬間、木蘭は立ち上がった。
「十五日までにそちらに伺おう。兄上にはこの話、内密に」

 返事も待たず、銀髪の少女は姿を現したときと同様、音も無く去っていった。

(あれが葛原の鬼娘殿か――)
 男は、いつの間にか顔を出した月を見上げて深く息を吐いた。
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うーん、男らしくないぞ (向日葵1)

2008年10月24日 02:38

 連の組み合わせが決まると、暦はゴールデンウィークである。

 徹が帰り支度をしていると、するするっと荻原有理が寄ってきた。これから部活なのだろう、赤いスポーツバッグが膨らんでいる。
 徹は反射的に教室を見渡して高宮がいないことを確認した。と同時に、そんな反応をした自分に落ち込む。

「ライバルのオギワラユリが、何の用だい」
 徹が自己嫌悪から立ち直ろうとしながら尋ねると、有理は目の前で軽く拝む仕草になった。相変わらず有理の対人距離は、徹よりかなり近い。
「ゴールデンウィーク空いてる?」

(これはもしかして)
 途端に心臓の鼓動が倍になった。
「空いてるよ」
(平静を装うことがこんなに難しいなんて)
 徹は唾を飲み込んで、有理の次の台詞を待った。

「一緒に遊びいかない? ゴールデン・ウィークに仲良くなるのって連の基本なんだけど、やっぱり何組か一緒の方が自然なんだよね」
 有理の誘いに、徹は思わず声が裏返った。
「い、いいけど。みんなの予定合わせるの大変じゃない?」
(だから、二人で出掛けようって)

 徹は必死に電波を送る。そんな真剣な顔つきを不安の表れと誤解したのか、有理は腰に手を当ててると任せろとばかりに胸を張った。
 確かに荻原有理の胸は大きくなかった。
 だが、そんなことはこの際、問題ではない。全くもって問題ではない。

「既にオギワラユリが根回し済だから、大丈夫」
「へ?」
 徹は間の抜けた声を出した。有理は徹の反応など無頓着に続ける。
「みんな、五月三日だったら空いてるって」
(みんな……みんなってことは……みんなってことは)

「リタも?」
「リタちゃんも」
「杉山も?」
「杉山君も」
 声が小さくなっていく徹に、有理が大きく頷いた。

「もしかして、俺に最後に声掛けた?」
「あ、徹君ちょっと暗い顔した。うーん、男らしくないぞ」
「……押忍」

まずは出発だ (向日葵2)

2008年10月25日 03:12

「明るい、男女交際~」
「瓜谷さん何ですか、その歌は」

 結局、五月三日は、徹の連と荻原有理の連、楠ノ瀬麻紀の連の三組で公園に出掛けることにした。
 決まってまず徹がしたことは、服を買いに行くことだった。上から下まで揃えるのは予算的に無理だったので、悩みに悩みシャツを選んだ。家に戻ると、間の悪いことに姉の望とばったり玄関で出くわした。紙袋を抱えた徹を見ると、望は意地の悪い笑いを浮かべて自分の部屋に戻っていったのだった。

 徹はそんなことを思い出しながら、瓜谷と並んで立っている有理を横目で見る。
 有理は待ち合わせの場所に、自転車で現れた。
「遅刻しそうになって焦っちゃった。髪の毛ばさばさ」
 有理は、額の汗をハンカチで軽く押さえて笑った。

「あれ、リタちゃんは?」
 徹が首を横に振ろうとしたところに丁度、濃緑色の外車が静かに止まった。ブロンド女性の運転手が外に出ると後部座席のドアを開ける。そこから赤い髪の少女が黒いロングスカートをふわりと翻して降り立った。
 歓声を上げて迎える徹たちに目で頷くと、今度は運転手に英語で言葉を掛ける。運転手の女性は、気をつけてと言ったのだろうか。一言二言リタに告げると車で去っていった。

「リタちゃん、綺麗!」
 有理が賞賛の声を上げる。リタも、セシルと呼ばれた女性ほどではないが背が高い。赤い髪が太陽の光を受けて輝き、白いシャツに映えていた。洋服が欧米人のためにあることを実感する。
 そうこうするうちに楠ノ瀬麻紀と車椅子に乗った杉山想平もやって来て、全員が揃った。

「で、これから呼ぶ時は、藤原とリタちゃんでいいかな」
 瓜谷が皆の前で早速声を掛けてくる。リタと徹が頷くと、瓜谷は徹を見て顔をしかめた。
「おい頼むぜ藤原。ここは『僕のことは徹ちゃんって呼んでくれないんですか』って返すのが基本だろ」
 瓜谷が額にかかった、男にしては長いその髪をかき上げる。年の差こそ一つだが、私服の瓜谷は遊び慣れた大学生にしか見えなかった。

 徹が口を開く前に有理が笑顔で答えた。
「いいんです。徹君は突込みよりもいじられるほうが味が出るから」
(オギワラユリ、そんなこと言うか……)
「そうそう。それに徹ちゃんを『徹ちゃん』って呼ぶのはあたしだけで十分」
(楠ノ瀬……よくわかんないよ、それ)
「なるほど」
(リタ……何にどう納得したんだよ)

「今日は、先輩方ありがとうございます」
 少女たちが徹をからかって話を続ける中、ごく自然に杉山想平が入ってきた。ようやくの助け船に、喜んで徹が応じる。
「礼を言うことじゃないって。一度杉山とも話してみたかったし」
 その言葉に瓜谷と楠ノ瀬も頷いた。

「本当ですか。でも――」
 そう言って杉山はリタを見上げた。メタルフレームの奥の瞳が好奇心に輝いている。
「リタ、君こそ今年の注目株だよ」
 杉山が車椅子から身体を起こし、眼鏡を押し上げる。リタは杉山を真直ぐ捉えながら言葉を返した。
「私のクラスでは、お前が最もナンバーワンに近いという評判だぞ」

 杉山は、途端に顔を輝かせた。
「聞いた? 有理さん、僕に声を掛けられてラッキーでしょ」
 得意げに振り返る。一見、優等生風だが仕草に愛嬌もある。有理にも大分馴染んでいる様子が窺えた。

「うん、ラッキー」
有理も楽しげに返事をすると座が湧き、瓜谷は短く口笛まで吹いた。
「よし、もう自己紹介はいいだろう」
 瓜谷が一同を見廻すと、指を南の方角に向けた。その先には爽やかな五月の空が広がっている。

「まずは出発だ」

――って聞いてる? 徹君 (向日葵3)

2008年10月26日 00:26

 六人は瓜谷を先頭に、歩いて十五分ほどの久我瀬公園へ向かった。
 久我瀬公園は、綺麗な芝生が広がる県立公園である。最初は遊園地や映画の案もあったが、杉山想平が車椅子であることと、楠ノ瀬麻紀がお弁当を作りたいと主張したこともあってピクニックとなった。

 徹には意外だったが、楠ノ瀬の家は母親が料理教室を開いていて、麻紀本人もかなりの腕前とのことだった。
「徹君、幸せねぇ。麻紀ちゃんの手料理はおいしいって評判なんだよ」
「でもあたし、実はお菓子の方が得意なんだ。ケーキとか」
「私も甘いものは好きだ」

 コンビニでペットボトルと紙コップを買い込んで公園に着くと、もう十二時を回っていた。空には雲一つなく、背中に軽く汗が滲む。
「いい天気でよかったな、リタちゃん」
 シャツの袖を捲り上げた瓜谷が、隣のリタに相槌を求める。
 
 瓜谷は、当初の印象ほど背が高いわけではなかった。身長だけであれば高宮の方が高い。だが、形のいい小さな頭と鼻筋の通った顔、引き締まった長い手脚とが相まって、見る者にどこか日本人離れした印象を与える。リタと並んで見劣りしないその姿に、徹は一層その思いを強くした。
 
 一方のリタは瓜谷の容姿など全く無関心な様子で、淡白な返事を返す。
「そうだな、瓜谷の言うとおりだ」
「今日は三十度近くなるんじゃないか」
「ああ、暑いな確かに」
言葉とは裏腹に、リタは汗一つかいていない。瓜谷は苦笑して肩をすくめた。
「リタちゃん、もうちょい話のつながる相槌うってくれよ」

リタは心外だとばかりに瓜谷を一瞥すると、口を開いた。
「わかった。では、日本の五月の平均気温はどのくらいだ?」
「……いや、そんな話の転がし方じゃなくて」

 少し離れた芝生の上では、楠ノ瀬と杉山が楽しそうに話している。徹は有理と、大木の下に座っていた。有理は鹿の子のポロシャツに股上の浅いデニムのブーツカットを穿いている。並んで座ると腰から肌が覗き、徹はそれだけで落ち着かなかった。

「――って聞いてる? 徹君」
「あ、ごめん。何?」
 有理が形のいい眉を寄せていた。

 澄んだ空からは木々の葉を揺らすように微風が吹いており、肌だけでなく耳にも心地が良い。横に座る徹の元には、風に乗って微かに有理の黒髪の匂いが届く。
 艶やかな髪からは、金木犀に似た匂いがした。

「こないだ有為達が迷惑かけたでしょ、学食で」
 有為に「カッコ悪い」と言われた記憶が蘇り、耳が少しだけ熱くなる。
「いや、問題は有為ちゃんっていうより、高宮の馬鹿で」
 慌てて体の前で手を振る徹に、有理は申し訳なさそうな顔になった。

「御免ね。あいつ焼餅焼きで」
 徹はその言葉に引っかかった。嫌な予感に顔を顰めたが、有理は徹の変化に気付かない。
 
「あいつって、有為ちゃんじゃなくて、うちのクラスの高宮?」
 恐る恐るの問い掛けに、有理が首を縦に振る。徹は何かの間違いであって欲しいと祈りながら、話を続けた。ついさっきまでの幸せな気分は、どこかへ消し飛んでしまっていた。

「がっちりしてて、手に拳ダコとかあって――」
 徹の問いかけに、さして嬉しくもなさそうに有理が相槌を打つ。
「そうなの。あいつ、空手の全国大会準優勝だから」

 全国大会準優勝。本来ならさらっと流すような単語では無いのだが、有理の真意が気になる徹は、あえて先を急いだ。
「……その高宮が焼餅焼きで、困っちゃうって?」
 思わず語尾の震えた徹に対し、有理は物憂げな顔で死刑宣告した。

「あたし、つきあってるからってすぐ束縛する奴って、駄目だと思うんだ」

僕たち決めたんです (向日葵4)

2008年10月26日 23:05

「いやあ、楽しかった」

 瓜谷が両脇を見回す。並んでいた徹は杉山の車椅子を押しながら頷いた。夕日が六人の顔を正面から照らす。久我瀬公園から駅へと向かう欅の並木道、今までひとしきり遊んでの帰り道だった。自分たちの影が後方へと長く伸びている。

「でも、ちょっと焼きすぎちゃった。こんなに晴れると思わなかった」
 有理が困ったように自分の両腕を触ると、瓜谷が「俺もお肌が心配」と話を合わせる。楠ノ瀬が声を出して笑った。
「面白い男だな」
 リタが、瓜谷の引き締まって褐色に焼けた肌と、長い茶色の髪をしげしげと眺める。

 今日こうやって来たこと自体は、正解だったと思う。
 聞けば参宮学園の生徒は、こうして毎年ゴールデンウィークに出歩くのだそうだ。確かに、公園には見知った顔が何組か来ていた。
 
 結局、有理とは昼間以降、話の続きをすることはなかった。
 それでいいと思う。何かを期待した自分が愚かだった。傷が浅くて、勘違いが大きくならなくてよかった。
 
 だが、そんな風にしか思えない意気地の無い自分が心底嫌だった。横では、そんな徹の心の内など気付くことなく、有理とリタが楽しげに話を続けている。
 徹が深呼吸をして気持ちを入れ替えようとした、その時だった。

「明日からだね」
 杉山が車椅子からリタに呼びかけた。徹の機先を制した――そう表現するに相応しいタイミングであった。
 リタは杉山の言葉を予想していたらしい。何が、とも聞かずに目で同意する。

「何だ、お前ら駅まで待てないのか。若い奴はせっかちだな」
 瓜谷もからかっているようで、やはりわかっているらしい。徹は有理を盗み見ると、少し寂しげだったが、直ぐに演武前の真剣な顔つきに変わった。

「私達はナンバーワンを狙うことに決めたの。確かに競争相手は多いけど、負けない」
 有理は一呼吸おくと、言葉を続けた。
「私達が一番のライバルだと思うのは、貴方達」

 瓜谷はふてぶてしく薄ら笑いを浮かべ、その言葉を聞いている。リタは、対照的に軽く顎を引いて口を一文字に結んでいる。
「僕達決めたんです。僕達が認めるライバルたちに、正々堂々と宣戦布告しようと」
 杉山が毅然とした態度で有理の後を継いだ。ほっそりとした色白の頬を、少しだけ紅潮させている。

 瓜谷がごりっと頭を掻くと、車椅子を押している徹の横に立った。杉山と、その後ろでどう答えていいか分からず視線を左右に走らせている徹の、それぞれの肩に手を置いた。
 いや、置いただけではない。そのまま大きな手にぐいっと力を込められた。

「いいぜ。勝負したければ気合入れて来い」
 瓜谷は腕に力を込めたまま、入学式でリタに見せたあの笑顔を浮かべていた。
 徹は、とか何とか言って――と誰かが混ぜっ返すことを期待したが、誰も何も言わなかった。楠ノ瀬さえも、ま、しょうがないか、そう呟いただけだった。

 そのまま六人は、胸にそれぞれの思いを抱いたまま駅まで無言で歩いた。徹自身、数え切れないほど自問自答を繰り返したが、結局、思いを口にすることは無かった。
 ほどなく駅に着くとお互い短く挨拶をして、家の方角へと別れていく。

 きっと徹は、一番情けない顔をしていたに違いなかった。一人、二人去る中で、その場から離れられず立ちつくしている。既に歩き出していた有理が、振り返って溜息をついた。
 ――と思ったら突然駆け寄ってきて、徹の耳元に唇を寄せた。
 徹は一瞬にして固まる。

「有為なんかに負けたら、許さないからね」
 そう囁いて、有理は再び駐輪場へと走り去っていく。
 黒髪からは、やはり金木犀の匂いがした。

 傍らでリタが僅かに口を尖らせたが、徹は有理の後姿をただ眺めていた。

ま、それが普通の反応だよね (向日葵5)

2008年10月29日 00:30

 何で学校には試験があるのだろう。
 何で学期毎に試験があるのだろう。

 学校の数だけ、生徒の数だけ繰り返されたはずの台詞を呟きながら、徹は教室の机に向かっている。早いもので、六人で公園に行ってから三週間。あっという間に一学期の中間試験である。

 転校して自分の成績の居所が分からない徹としては、不安な一週間である。ナンバーワンの連を選抜するのに、成績も重要であることは間違いなかった。互いに学年一位の杉山想平と荻原有理が組むことは、それだけで脅威らしい。

 公園に行って以来、有理とは踏み込んだ会話が出来ていなかった。リタとも、まずは試験に集中しようと、放課後に会うのを止めていた。リタはイギリスでは相当優秀だったらしいが、国語は勿論のこと、日本の文系授業への対応には限界がある。ここは徹が頑張るしかない。

 数学の試験を五分ほど時間を残して解き終え、徹は考える。
 何故、みんなナンバーワンの連を目指すのだろう。

 いや、この表現は正確ではない。
 ナンバーワンを目指している連は、実のところそれほど多くない。学園で百八十組のうち、本気なのは十組もないかもしれない。残りの連は、あわよくば、という程度だろう。

 宝玉を手に入れると、どうなるというのだろうか。
 昨日、ついに疑問に耐え切れず楠ノ瀬麻紀に聞いてしまった。過去二年連続ナンバーワンの瓜谷悠と組んだ、今や「本命」の楠ノ瀬にである。

 そこで徹は初めて知ったのだが、ナンバーワンに選ばれると、翌年度の学園祭と体育祭の一部を自由に決められるということだった。

 参宮学園は夏に学園祭、秋に体育祭がある。学園祭は夏休み前の最終週の土日に開催される。一方、体育祭は十月の体育の日だ。前年度ナンバーワンの連には、学園祭で前夜祭を、また体育祭で午後の種目を自由に企画できる特権が与えられる。

 要は、今年度は瓜谷が学園祭の実行委員長を務め、有理が体育祭の実行委員長を務めるということなのだ。

 翌年のイベントを企画できるのか――そう納得した後で疑問が湧く。
「でも、連に三年生がいた場合は?」
「ああ、そういう意味では、その人は卒業するから何もなし」

 思わず、それって不公平じゃないかと言いかける徹を、楠ノ瀬は制した。
「でもね。夢が叶うらしいよ」
 現実的な楠ノ瀬には、似つかわしくない台詞だった。徹の口を開けた表情を見て、楠ノ瀬は皮肉っぽく鼻に皺を寄せた。

「ま、それが普通の反応だよね。きっと徹ちゃんもナンバーワンになれば分かるよ」
「それって一体――」
「おっと、ライバルに口を滑らしちゃうとこだった。じゃあねぇ、徹ちゃん」
 楠ノ瀬は、思わせぶりな口振りのまま去っていった。

 確かに、好きなイベントを企画するのは面白いに違いない。杉山想平はこのタイプだろう。
 そんな特典がなくても、勝負に勝ちたい奴だっているだろう。これは高宮の馬鹿か。

 でも、リタはそうじゃない。きっと本当に夢を叶えたいんだ。

 そこまで昨日のことを思い出したところで、試験の終わりを告げる鐘が鳴る。これで中間試験も全て終了だった。
 徹は本屋に寄ってから、稽古に行くことにした。

   * * * * * * * * 

 稽古が終わって師である鳴神静瑛の家を出ると、午後九時を回っていた。飯でも食っていけ――そんな誘いに、つい長居してしまった。
 徹は帯を畳んでリュックにしまうと、静瑛の家を出た。引越して、道場から自宅までの距離も随分近くなり、徹はトレーニングの為にジョギングで帰っている。
 
 徹の自宅までは、途中で西砂の繁華街を抜ける必要がある。 徹はトレーニング・スーツ姿で歓楽街を黙々と走っていたが、不意に聞こえてきた悲鳴に立ち止まった。

 同世代の少女の声だった。
 空き缶の転がる音と一緒だった。そして男達の低い声。

 徹は躊躇った。
 繁華街ではよくある光景に違いない。君子危うきに近寄らずだ。いや、そもそも空耳だったか。
 立ち止まって耳を澄ましたが、もう少女の悲鳴は聞こえてこない。

 十秒ほどそうしていただろうか。軽く額の汗を拭い、再び走り出そうとして――
 その時、確かに聞き覚えのある声がした。
 今度は短い悲鳴だった。

 徹は衝動的に走った。その声が誰のものか思い出せないまま走った。塀越しだが、声は近い。キャバクラの脇を曲がり、煙草と酒の匂いのする男達の集団をすり抜ける。

 そして、徹は目指す相手を見つけた。

鬼ごっこはおしまいか? (向日葵6)

2008年10月29日 23:34

 荻原有為は、西砂の雑居ビルの前で高宮たちと別れると、一人で歩き出した。

 試験も終わったことだし、ぱっと行こうぜ――高宮の誘いに乗って、さっきまでカラオケボックスで歌ってきたところだった。有為のクラスメイト二人も一緒である。二人とも高宮のファンだという。

 確かに高宮はハンサムだ。少し自惚れが強過ぎるとは感じるが、有為自身も男は自信家のほうが良いと思う。うじうじしている奴を見ると、イライラする。
 そこで何故か、有為は姉のクラスメイトを思い出した。

 年下の少女に庇ってもらって、耳を赤くしていた男。

(だっさい――)
 有為はそう呟くと、カバンを抱えなおして路地を歩く。高宮は送っていこうと言ったが、代わりにクラスメイトのことを頼んだ。
「あたしなら気にしないで。昔は有理と一緒に合気道も習ってたし」
 だが、いつからか三人の男が後をつけてくることに気が付いた。

 三人とも大学生くらいだろうか。酒でも飲んでいるのか、にやけた笑いを張り付かせて近付いてくる。有為は自然と早足になったが振り切れない。走り出そうか迷っていると、不意に男の手が後ろから有為の腕を取った。

「ねえ、彼女。俺達と遊ばない?」
 有為は黙ったまま、乱暴にその手を払って歩き出す。

「痛え! 骨折れちまったよ」
 ドレッドヘアの男の大袈裟な声に、唇にピアスをつけた男が困ったように肩を竦めた。
「おいおい、どうしてくれるんだよ」
 スキンヘッドの男が自分の前に回り込む。

 決して人通りの少ない道ではないが、サラリーマン達はこの光景が見えないかのように、顔を背けて立ち去っていく。有為は男たちを睨みつけて脇をすり抜けようとしたが、横のピアス男に腕を押さえられた。

「まあ急ぐなって。それとも美人のお友達でも呼ぶか」
 そう言って下卑た声で笑う。
 有為は唇を噛締めると、もう一度男の手を振り払って脇道に入ったが、男達も嬌声をあげながら有為を追いかけて来る。有為は軽く舌打ちすると、路地を曲がり、雑居ビルの間を走り抜けた。

(交番か、せめて、コンビニでもあれば)
 そう思って走るが、こんな時に限って酔客相手の店ばかりで見つからない。大通りに一直線に向かわなかった判断の悪さを呪う間もなく、有為は路地裏に追い詰められてしまった。

 そこは雑居ビルのゴミ置き場だった。
 男達も有為も肩で息をしている。有為の栗色の髪の毛は額に張り付いてしまっていた。一方、男達はこれから起きることを想像して、濁った目を血走らせている。

(屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ屑だ。一人では何も出来ないくせに、昼間は何も出来ないくせに、酒を飲まなければ何も出来ないくせに――)

「いい加減にしてよ、警察呼ぶわよ」
 そう言って睨んだとき、一人がナイフを出すのが見えた。思わず足がすくんだ。
(こいつら慣れてる――)

 途端に声が喉に絡んで、小さくなる。
「た、高宮先輩」
 その声はもはやか細く、路地裏の喧騒に吸い込まれた。

 男達が距離を詰める。一歩下がろうとした有為は何か足を取られ、思わず小さな叫び声を上げた。
 スキンヘッドの男の舌なめずりが目に入り、嫌悪感から無意識に身震いする。カバンを胸の前に抱く。

「鬼ごっこはおしまいか?」
 男達は既にズボンの前が怒張していた。ドレッドヘアの男が、これ見よがしに指で車のキーを回す。
「彼女、俺達と遊びに行こうぜ」
 反射的に有為は、男の手を払いのけた。

「何すんだ、このガキ!」
「いいから、さっさと積んじまえ!」
 群がる男達に有為が悲鳴を上げたその瞬間、トレーニング・スーツの徹が飛び込んできた。

   * * * * * * * *
 
 相手は三人。一人はナイフを持っている。
 咄嗟にそれだけ確認すると、徹はナイフを持った男へ疾った。

「な、何だこの野郎!」
 薄汚れた長髪を振り乱し、ピアス男は徹にナイフを向ける。
 先ほどの稽古の通り、無意識に体が動いた。

 自分の左腕でナイフを持った男の右手を制しながら、掌でナイフを押さえる。その手の上に自分の右掌も重ね、身体を開きながら男の手首の関節をねじりきる。
 ぶちり。
 徹の耳に、聞こえるはずのない音が響いた。

 唸り声を立てて男が右肩から横転する。それを見届ける間もなく、スキンヘッドに向かった。呆然と立つ、その懐に低く飛び込む。
 ずくっつ。
 徹は左肘をスキンヘッドの鳩尾に入れ、続けて左拳を顎に撃つ。仰け反る相手の後ろに回り、両手で肩を後ろに引き倒す。背中をアスファルトに打ちつけたスキンヘッドは、そのまま失神した。

 あと一人。
 ようやく自分の置かれた状況を認識したドレッドヘアの男は、全身を震わせていた。
 怒りか、それとも恐怖なのか。

「て、てめぇ」
 頭一つ高いその顔は歪み、声は裏返っている。だが、徹は男にそれ以上の時間を与えなかった。腰を落として襲い掛かる徹に、男は泣くような奇声を発しながら、警棒に似た武器を振りかざしてきた。

 ざん。
 ドレッドヘアを巻き込む竜巻のように、徹は両腕を上げて背後に入る。

 左腕を下ろしながら男のこめかみを押さえる。右腕は相手が振り下ろした警棒を追いかけながら、上から被せる。ソシアル・ダンスのように二人の動きが同調したその直後、ドレッドの首をぐりっと捻った。
 警棒を振り下ろす勢いを加速させられた男は、潰されるように崩れ落ちた。
 
 この間、二十秒余り。
 もう、立っているのは有為と徹だけだった。
 有為はカバンを両腕で胸に抱いたまま、白い顔で唇を震わせている。
 
 徹は黙って、目の前に手を差し出した。

二度とこの子に手を出したら許さない (向日葵7)

2008年10月30日 22:55

 二人は夜の街を無言で歩いている。

 あの後、徹は地面に転がっている男達から、自動車免許を取り上げた。
「コピーを取ってから近所のコンビニに預けとく。二度とこの子に手を出したら許さない」
 徹の言葉に、男達は血走った目で睨みつめるだけだった。

 コンビニでコピーを取ると、三枚の免許証を落し物だといって、レジのアルバイトに預けた。ついでに買った缶コーヒーを持って、外に出る。
 そのまま二人で歩くうちに、いつしか景色は繁華街から住宅街へと変わった。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っている。車通りも無く、家路へと急ぐ自転車が何台か追い越していくだけである。曇っていて星は見えず、湿気を帯びた風が微かに夏草の匂いを運んできた。

 有為は徹を振り返ろうともせず、肩を怒らせて大股で歩いている。制服のリボン・タイが左に大きく曲がったままなのにも、気付いていない。
 
 徹自身も、何と声を掛けてよいかわからず一歩遅れてついていった。送って欲しいと言われたわけではないが、このまま一人で帰すわけにもいかない。何か言葉をかけようかとも思うが、かといって何と言っていいかもわからない。

 徹は、途中から面倒なことを考えるのをやめにした。ただ有為の後を歩きながら、時に夜空を見上げ、時に有為の背中を眺める。
 二人は結局、一言も喋らないまま有為の家の前まで辿り着いた。
 
 荻原――その家の表札を確かめて徹は安堵した。
 あとはこのコピーを渡せば終わりだ。
 だが、有為は門の前で足を止めると、そのまま動かない。自宅の門灯に照らされた有為の後姿は、癇癪を起こしている子供のようだった。

「何で……」
 有為が不意に振り返ると口を開いた。今日会ってから最初の言葉だった。
 「何で、学校では弱い振りして……」

 咎める口調であった。何か返事をしようものなら、堰を切ったように疑問と怒りとが噴き出すに違いなかった。徹は一瞬迷った後、有為の問いに答える代わりに男達の免許証のコピーを差し出した。

「お父さんに相談するといい。それと」
 ――膝、消毒しなよ。
 それだけ言うと、コーヒー缶と一緒に有為に押し付ける。

 いつ擦りむいたのか、有為の右膝から血が滲んでいる。有為が指で軽くなぞり、その感触に顔を顰めながら顔を上げた時には、既に徹は走り出していた。

 有為の手に、免許証のコピーと缶コーヒーが残った。

俺は司会だ (向日葵8)

2008年11月01日 20:20

「ふ、藤原。凄いじゃないか」
 ざわつく朝の職員室前、桐嶋が相変わらず太い眉毛をハの字ににして話しかけてくる。その尖った頬骨の上の目尻には、友人の意外な実力を知って素直に喜ぶ笑い皺が浮かんでいる。
 中間テストの翌週、職員室前の廊下には各学年の上位二十位が貼り出されていた。
 
 徹は学年五位だった。前の学校でも同じくらいの順位をキープしていたことを思うと順当といえるが、やはり嬉しい。
 学年一位は荻原有理だった。
 何事も一位とそれ以下では全く違う、徹はそう思っている。さすがに強敵だと思う。
 だが徹は、我が事のように嬉しかった。

「で、桐嶋は何位だよ」
 このぐらいのリスクある突っ込みが出来る程度には、桐嶋とも馴染んだ。
「き、聞くな」
 二人はお互いの脇腹を軽く殴り合いながら、廊下を歩く。

 一年生の学年一位は、二位の杉山想平を僅差で抑えて荻原有為だった。
(やる時はやるんだ)
 徹は、試験最終日の夜を思い出した。その翌日、有為は徹の教室に来て
「一応、お礼を言っておくから。貸しだなんて間違っても思わないで」
 睨むように言って、足早に去っていった。

 こういうときは、まず、ありがとうと言うんじゃないだろうか。徹は呆気に取られ、そして可笑しくなった。
 有為らしい。強情で我侭で、それでいてどこか姉の有理に似ていて。
 知らずに徹は廊下の前で思い出し笑いを浮かべた。

 リタも十四位に名前が載っていた。国語や日本史にハンディがあることを考えると、大健闘である。
「よし、次は学園祭だ」

 中間試験が終わると、学園祭の準備が始まる。
 参宮学園の創立記念日は七月十七日。昔、この日に誰が何をしたのかなど、気に留める生徒はいない。重要なのは、その週の土日は学園祭だという事実だ。

「生徒の生徒による生徒のための学園祭」であり、一年で最大のイベントである。今年は瓜谷が実行委員長となり、瓜谷と今年の連を組んでいる楠ノ瀬麻紀が副委員長となった。

 実行委員会は、七つの連がくじで選ばれる。徹たちも偶然くじで選ばれ、委員として作業を行うことになった。
「やっぱり徹ちゃんとは、運命の糸が繋がってるのかなあ」
 隣の席からの聞こえよがしの独り言は、無視することにした。

 実行委員会以外の連が、他の連と組んで展示や活動を行う一方、実行委員会は昼間は裏方として徹し、その代わり前夜祭で弾ける。
 前夜祭は実行委員長の企画で学園祭を盛り上げ、後夜祭は学園祭最高のチームを実行委員会が表彰するのが恒例だった。

   * * * * * * * *

「俺は、前夜祭で仮装パーティーを行おうと思う」
 放課後、三年の教室で実行委員会の打ち合わせの席上、瓜谷がいつもの調子で宣言した。春先より更に日焼けした褐色の肌に、白い歯が目立つ。

「面白そう!」
 徹の隣の二年生が、すかさず声を上げる。徹たちは空いている席にばらばらと腰を下ろし、壇上では瓜谷が、徹たちの反応を楽しむように教卓に片肘をついていた。

 徹はリタの方を盗み見た。リタは、瓜谷の真意を見極めるかのように前方を見つめており、その顔からは賛意も拒否も読み取れない。
 次に楠ノ瀬麻紀を見ようとして、楠ノ瀬本人と目が合った。人の反応を気にするよりも、徹ちゃん自身はどう思ってるの――そう顔に書いてあって、徹の耳が赤くなる。

「徹ちゃんって分かり易いよね」
 意地の悪い声を出す楠ノ瀬に、恨みがましい視線を投げ掛けた後、徹は前を向いた。

「仮装パーティーって、仮面舞踏会みたいなのか?」
 実行委員の三年生が手を上げる。
「ハロウィーンみたいなのですか?」
 今度は一年生だった。黒板を背にした瓜谷は、乗ってきたなとばかりに歯を見せた。

「楠ノ瀬とも相談したんだが、生徒全員でカーニバルみたいなのをしよう。仮装させた生徒を二組に分けて、俺らがそれぞれのチームリーダーになって真っ向勝負をしようぜ」
「仮装っていっても、怪しいマスクを被るようなのじゃなくて、カッコいいやつだから」
 楠ノ瀬が補足する。

「早速、実行委員会を二チームに分けるぞ。くじ引きとジャンケンでどっちがいいか?」
 瓜谷は話が強引なくらい早かった。それでいて、くじ引きかジャンケンか選ばせるあたりがうまい。

 結局くじ引きでチームを分けた。プリティー・チームは楠ノ瀬麻紀を含めて女子だけで五人、ファイヤー・チームは徹とリタを含む五人になった。ほかに照明と音楽、会場運営で五人の計十五人である。
 瓜谷は「俺は司会だ」ということだった。

盆踊りでも没問題 (向日葵9)

2008年11月03日 21:19

「私はあなたがとっても大好き。その顔、その声、その瞳。ハート・マークでもう最高! 夢見る恋に身悶えしながら、だけど何故だか不安なの。ううん、あなたと一緒なら、どんなことでもオッケーよ!」

 梅雨も明けようという、学園祭前日の七月十六日。徹達は放課後の音楽教室で、前夜祭の最後の追い込みに入っていた。
 プリティー・チームが必死になって、歌詞にあわせて振付を揃える。

「そこで倉知と楠ノ瀬が投げキッス。だから倉知、もっとオーバーアクションだって」
 瓜谷の指導の下、少女達が制服のスカートを翻しながら踊る姿を、徹はぼんやり眺めていた。

 最初に見たときは、楠ノ瀬の妙に色っぽい仕草や他の子たちの恥ずかしげな表情に釘付けになったが、何十回ともなると感覚が麻痺してしまう。さっきまでファイヤー・チームの振付で絞られ、正直、他人を気にしている余裕もない。

「よし、次はもう一回ファイヤー・チームいこうぜ」
 瓜谷がシャツを腕まくりして、こちらを振り向く。
 やっと開放された楠ノ瀬たちが上気した顔で腰を下ろし、代わりに徹やリタが立ち上がる。

 ファイヤー・チームは攻撃的で燃え立つダンスをしようということで、激しい振付になった。

 舞踊の嗜みがあると自己申告したリタがベースの動きを考え、徹が細かな修正を加えた。二人でああだこうだと言っているうちに、いつの間にかリタと徹がメインダンサーとなってしまった。
 足を上げる仕草が多く、さすがにスカートではまずいということで、リタも練習時はトレーニングスーツを着ている。

「俺は世界で最高のナイスガイ。容姿端麗、頭脳明晰。心も熱いぜ燃えてるぜ。喧嘩売られりゃいつでも買うが、だけどバトルはダンスが一番! いいぜお前が望むなら、盆踊りでも没問題!」

(この歌詞、誰が考えたんだよ)
 囁く徹に、リタが視線を右へと動かした。
(楠ノ瀬麻紀だ。彼女らしい内容だな)
(っていうか、意味わかんなくないか?)
(徹、瓜谷が見てるぞ)

「お、リタちゃんと藤原、元気だねえ、よっしゃ、もう一セットいってみよう」
 瓜谷が長い髪をかき上げて笑顔で――徹の目には肉食獣の笑顔に見えたが――歯を見せた。
「……鬼コーチ」
 座っていた楠ノ瀬がぼそっと呟いた。

   * * * * * * * *
 
 学園祭当日、気象庁は例年より早い梅雨明け宣言を出した。

「あの、友達とはぐれちゃって」
「うちの子がやってる、クベゴンを追うって展示はどこでしょうか?」
「すいません、落し物で黒いポーチ届いてないですか」

 実行委員が当日もこんなに忙しいとは思わなかった。
 徹は目の下に隈を作りながら、本部テントで来訪者の応対をしていた。 父兄と思われる大人たちから、なぜか幼稚園児まで。老若男女がひっきりなしにやって来る。

「あーあ。他の展示やイベントを見に行きたいなあ」
 来訪客の波の切れ間に小声でぼやくと、一緒にファイヤー・チームで踊る一年生が、そうですよねえ、と調子を合わせた。

「藤原先輩は、どこを見に行きたいですか」
「やっぱり、荻原有理の推理劇かなぁ」
 徹の言葉に一年生は、我が意を得たりとばかりに大きく頷く。

「俺は、高宮さんのバンドを聴きに行きたいです」
 一緒に本部に詰めているもう一人の一年生が、話に加わった。
 そういえば、有為と高宮の馬鹿はバンドだった。きっとあの子のボーカルは目立つに違いない。

「トイレ借りれる?」
「どこかでお金をくずせる所、ないですか?」
「ママどこ……」

 再び徹達は喧騒に巻き込まれると、そのまま夕方まで休む暇もなく働いた。
 校舎が長く影を伸ばす頃になって、ようやく一息ついた徹たちは着替えて舞台裏に勢ぞろいしたのだった。
 
 舞台の袖に用意された巨大なスピーカーからはダンス・ミュージックが繰り返し流されており、会場内は既に徹たちの登場を待ちきれない様子である。舞台の前に並べられた椅子は他校の生徒たちや父兄達が訪れていることもあって満席になっており、後ろには立ち見の姿もちらほら見られる。
 徹たちの緊張感は、否応なしに高まっていた。

「みんなカッコいいぜ」
 舞台裏では、ウィザードの仮装をした瓜谷悠が、最後の打ち合わせを終えて実行委員会のメンバーを見渡していた。手足の長い瓜谷に、西洋風の黒い衣装はあつらえたかのように似合っていた。
 瓜谷先輩、ホストみたいだよね――横で楠ノ瀬が徹に、意味不明な発言の同意を求めてくる。

 プリティー・チームは色とりどりのワンピースに着替え、髪を揃いのリボンで結っていた。一方のファイヤー・チームは、リタを含めて全員がダークスーツにネクタイである。バックダンサーの三人は仮面を被り、メインのリタと徹だけが仮面の代わりに帽子を被っている。

「真夏にマントとは、気合入るぜ」
 瓜谷は汗を拭った。にやり、太い笑いを浮かべると腹に力を込める。
「いくぜ、レッツゴー!」

 瓜谷を先頭に、メンバー全員がステージへと駆け出した。

さすが去年のナンバーワン (向日葵10)

2008年11月05日 00:49

 笑っていた者が、一人二人と口をつぐむ。魅入られ、瞬きさえ出来ない者たちが立ちつくす。
「……糞ったれが」
 参宮学園の前夜祭。ステージを眺めていた高宮武は、両腕が総毛立ち睾丸が硬く縮まっていくのを感じていた。

 思わず横に立つ荻原有為を見て、愕然とする。傍らの少女は魂を抜かれたかのようだった。心の内に芽生えかけた敗北感を、怒りに任せて否定する。
 有為の手を乱暴に引っ張ると、高宮はステージに向き直った。

 音楽は確かに流れている。しかも訳の分らぬ歌付きでだ。
 だが、その場を支配するのは緊張に満ちた静寂だった。
 ダークスーツに身を固めたリタと徹。それは、ダンスの枠を超えていた。
 
 己の右耳をかすめて、天に突き上げられる右脚。
 裂帛の呼気と共に繰り出される、五連の正拳。
 ネクタイが風に舞い、黒いジャケットが翻る。その姿は、華麗といえばこの上なく華麗。
 だが、何故、上げた足の指がぴたりと相手の眉間を指しているのか。何故、拳の中指の節が突き出されているのか。

「ふざけんな。肋骨でも折るつもりかよ」
 高宮は呻いた。

 リタが徹の腰に左手を添えたまま右腕を水鳥の首のように擡げ、三本の指を嘴のように動かす。
 知らぬ者が見れば、白鳥をイメージするかも知れない。だが人を倒す技術を学んだ者ならば、こめかみを指で撃ち抜く残像が焼きつく動きであった。

 判らぬ者はただ陶然とし、判る者は慄然とする――そんな舞であった。

「どう、有理さん」
 再び振付パートに戻って踊り始めた徹たちを眺める荻原有理に、杉山想平が尋ねる。二人とも浴衣に着替えている。夏の衣装ならこれよね、と有理が決めた。

 杉山が後ろを振り返ると、有理の表情が変わっていた。美少女然とした外見に似合わず、時に凛々しい表情を浮かべる有理だが、今日はまさに勝負を挑まれた者のそれだった。
「リタちゃんは只者じゃないと思ってた。でもあれ、素人が出来る動きじゃないよね」
 そして口には出さないが、有理は徹こそ驚異的と感じていた。

 春に道場で徹を見たときから、気になるものを感じてはいた。リタと組むに至って、ライバルになると確信した。だが徹のどこか優しげな姿に、これまで自分が油断していたことを痛感した。
 このままでは徹にポイントを取られてしまう――有理はそう認めざるを得なかった。

 杉山は、それ以上言うなとばかりに眼鏡を指で押し上げた。
「僕は気にしないで。有理さん、あの中に入りたいんでしょ。きっとこの構成だと、もう一度ダンスバトルはあるし」

「え?」
 有理は、自分の気持ちに初めて気付いたように問い返した。だが、その瞬間、杉山の指摘が正鵠を得ていることを確信する。

(確かに、杉山君の言うとおりだけど……)
 杉山は、有理の背中を言葉で押してやった。
「ここで有理さんが出ると、僕らの連に取ってもプラスだって」

 杉山は、人差し指と親指で丸を作ってみせた。その白い頬に笑窪が浮かぶ。
「乱入は本当ならNGだろうけど、有理さんが入れば絶対盛り上がるから彼らも文句は言わない。ビジネスでいえばウィン・ウィンだよ」

 有理は少しだけ考え込んだが、不意に目を輝かせた。
「決めた。杉山君、一緒に行こう!」
「え、僕も?」 

 目を丸くする杉山の額を、有理は指で軽く押した。
「杉山君、わかってるようで駄目だよね。合気道部のオギワラユリだけで行ったら、ただの異種格闘技戦だよ」

 その台詞に杉山も苦笑する。有理は片目をつむり両手を合わせる。
「ね、お願い」
「ん……まあでも、僕も実はこういうの嫌いじゃないし」

 杉山はもう一度、メタルフレームを指で押し上げた。レンズの奥の瞳が細くなる。
「よおっし。行くよ!」
 有理が車椅子を勢いよく押して、ステージへ向かって走り出した。

 舞台に浴衣姿の有理と杉山が駆け上がったところで、大歓声が湧き上がる。杉山が車椅子で器用に一回転してみせると、拍手が鳴り止まなかった。

「リタ。悪いけどおいしいとこ貰っていくよ」
 杉山が横で踊るリタに話しかける。

(容姿端麗、頭脳明晰)
「お前たちが舞台に上がることは、計算済だ」
 リタが前回し蹴りを華麗に決めながら答える。

(心も熱いぜ燃えてるぜ)
「うわ、リタちゃん意外に感じ悪い。徹君、今の聞いた?」
 有理が浴衣姿のままで、団扇を片手に器用にリズムを刻む。舞台に立っているとよく判るが、有理たちが登場して以降、観客の視線は更に熱を増していた。

(喧嘩売られりゃいつでも買うが)
「オギワラユリが舞台に上がることを予想したのは、瓜谷先輩だよ」
 徹が肩で息をしながら、裏拳を撃つ。

(だけどバトルはダンスが一番!)
「うーん。さすが去年のナンバーワン」
 そう杉山が言ったところで、瓜谷がマイクを握った。

「よーし会場全員で炎の踊りだ、いくぜ!」
 瓜谷が絶叫する。
 呼応するように舞台の上の徹が、リタが、足を跳ね上げる。楠ノ瀬が、プリティー・チームが両腕を広げる。会場全員が拳を空に突上げる。

 大歓声と、背筋を貫く興奮。
 徹はその時、全身が電撃に撃たれたのを感じた。
 
 瓜谷悠は、確かに会場に魔法をかけた。
 一夜限りの魔法を。
 けれど解けてなお、心のどこかに痕跡を刻む魔法を――
 
 結局、前夜祭はその後二度アンコールに応えて曲を流した後、瓜谷が「委員長の強権を発動」して無理やり解散となったのであった。

ちょっとジェラシー (向日葵11)

2008年11月07日 00:13

 翌日、徹は筋肉痛に悩まされながら、本部テントで引き続き来訪客の対応をしていた。相変わらず問い合わせが後を絶たず、人の波が途切れて一息ついた時には、既に昼食の時間をだいぶ過ぎていた。
 
 屋台で何か食べよう。そう考えて机の中の食券を探していた徹の前に、今日何度も耳にしたフレーズが聞こえた。
「すいません。たこ焼きのお店教えてもらえません?」
 顔を上げると荻原有理の顔が目に入った。徹は慌てて弾かれたように立ち上がる。

「徹君、反応激しすぎ。みんな見てるよ」
 有理がくすぐったい顔で耳打ちする。一緒に本部詰めをしていた一年生達が小声で囁き合っている。徹は逃げるように有理と本部テントを出た。

「昨日はお疲れ。カッコよかったよ」
 学園祭の期間中は生徒も私服登校である。今日の有理は身体にぴったりしたTシャツと、ふくらはぎまでの丈のパンツを穿いていた。腰の高さと細さが普段よりも際立つ。すれ違う生徒達は、有理を見ると振り返った。

「よくわからないけど、でも凄く気持ちよかった」
 徹は正直な感想を口にする。身体のどこかに、虚脱感に似た感覚が残っていた。有理も大きく頷いた。
「去年より盛り上がったと思う。あんな練習をみんなでやってたかと思うと、ちょっとジェラシー」

 有理は誰の練習する姿を想像して、誰に対して嫉妬したというのだろう。
 高宮はいいのかよ――言葉が喉元まで出掛かるのを、飲み込む。

 学園祭の校舎は父兄や他校の生徒も多く、廊下はひどく混み合っていた。互いの肩や手の甲が軽く触れ合う度に、徹の鼓動は早くなる。誰かと話しこんでいる赤い髪の少女も遠くに見かけたが、追わないことにした。

 たこ焼き屋で店番の三年生に取次ぎを頼むと、額に汗を浮かべた桐嶋が白いエプロン姿で出てきた。太いハの字眉毛と目尻の笑い皺が、不思議にエプロンと似合っている。

「お、荻原さん。来てくれて嬉しいよ」
「俺には感謝の言葉は無しかよ」
 からかう口調の徹に、桐嶋の笑い皺が一層深くなった。
「ふ、藤原がいなければ、もっと嬉しかったよ」
「抜かせ」

 桐嶋は、ここは奢るといって食券を受け取らず、二人は余った食券で綿飴を買って校庭の木陰で食べることにした。

「よいしょっと」
 有理が小さく声を出して腰を下ろし、照れたように口に手を当てる。徹も口真似をしながら並んで座ると、口をとがらせて脇腹を肘で小突いてきた。

(やっぱり可愛いよな)
 しみじみと実感し、同時に胸の奥に痛みを覚える。この感情が何か、判らないわけではなかった。だが徹は湧き出てくる感情を敢えて無視して、有理に話しかけた。

「オギワラユリは、推理劇やってるんだろ」
「うん。杉山君の脚本がすごいの。逆転に次ぐ逆転」
 有理は、見た人は皆驚いていたと身振り手振りで力説した。得意げな杉山の顔が目に浮かぶ。

「で、誰が犯人?」
「それを言っちゃあ、面白くないんだって」
 有理は顔の前で手を振る。

「徹君、ミステリー読まないでしょ」
「読むけど、後書きから読む」
「それじゃあ、ストーリーを読む前に犯人が分かっちゃうじゃない」
 有理は一しきり声を立てて笑った。

 西校舎から出てくる後輩たちが、有理に気づいて手を振って来るのに、有理も手を振り返して答える。と、今度は、同じ学年の男たちが通りすがりに囃し立てていく。
 さすがに有理と二人では、相当目立ってしまうようだった。

 有理も苦笑しながら、再びよいしょとばかりに立ち上がる。慌てて立ち上がりかけた徹に対し、有理は首を横に振った。

「とにかく、昨日はカッコよかった。そのことを『ライバル』に伝えたくて」
「へ?」
「あたし、これから劇の最終公演なの」

 隠しきれない失望の色が浮かんだ徹に、有理は
「徹君、これあげる」
 食べていた綿飴を徹に差し出した。
「じゃ、お互いガンバろ」
 そのまま徹を振り返ることなく艶やかな黒髪が遠ざかっていく。

 迎えた後夜祭、今年のベスト・チームは有理と杉山を中心にした推理劇「ミステリー・スクール」だった。

何か不満でもあるの (向日葵12)

2008年11月09日 02:31

 夏休みが来た。
 新学期に会おう。そう言ってリタはエジンバラに戻って行った。
 徹はと言えば、毎日のようにコーラを水で割って飲んでいた。

「貧乏くさいから、やめなって」
 姉の望には何度も言われるが、やめられない。コーラの味は好きだが、少し甘すぎる。水割りがベストだ。さすがに他人の前で「調合」を始める度胸はなく、自宅でだけの密かな楽しみである。

 その日の夜も、ぼんやりとコーラを飲んでいると電話が鳴った。徹が出ると、意外なことに荻原有為だった。

「もしもし、有理じゃなくてがっかりした?」
 それが有為の第一声だった。妙に自信満々の栗色の外巻きの髪と細い手足とが目に浮かぶ。可愛さと皮肉っぽさとが同居する声に、徹は何とも落ち着かない気分になった。

「有為ちゃん、電話番号どうやって調べたんだ?」
 有為は小馬鹿にしたかのように、大袈裟に溜息をつく。
「それが最初の台詞なわけ」
 今度は髪の毛を不快そうにかき上げる姿が、まざまざと浮かんだ。げんなりしかけた徹は、話を先に進めることにした。

「で、何の用だい」
 そこまで言いかけて、徹は急に五月の夜を思い出す。
「もしかして……まさか」

「何考えてるか直ぐ分かるわよ。大丈夫、危ないことなんか起きてない」
 年上に対してぞんざいな喋り方だ。だが、とにかく安心した。胸を撫で下ろす徹に、有為は言葉を続ける。

「こないだ助けてもらった借りを、返そうかと思って」
 これは予想外の台詞だった。
「でも、それなら有為ちゃんが確か、貸しだなんて間違っても思わないでとか……」
 
 電話越しに、有為が一気に険悪になるのがわかった。さっきから自分がエスパーにでもなった気分になる。
「折角こっちが気にしてあげてるのに、何か文句あるの?」
 声が低い。空気が冷たい。徹は地雷を踏んでしまったらしい。徹は見えないことがわかっていてなお、必死で首を横に振る。

 焦る徹を知ってか知らずか、面倒くさそうな口調のまま有為は徹に問いかけてきた。
「で、泳げるの?」
「へ?」
「泳げるのって聞いてるの。あたし今度、有理とプールに行くんだけど――」

   * * * * * * * *

 参宮学園の男子生徒に、夏休みの最高の過ごし方についてアンケートを取ったらどうなるか。「荻原姉妹とプール」は、二位に圧倒的な差をつけてトップに輝くだろう。ちなみに最高の肝試しの方は、「高宮武との炎天下の待ち合わせに遅刻」で決まりだ。

 くだらぬことを想像しながら、待ち合わせの五分前に徹は駅の南口についた。
 約束したバスターミナルで見回すが、まだ二人の気配はない。地面から水蒸気が立ち昇る、まるで亜熱帯の暑さだった。タオルで額を拭うと、徹は手にしたペットボトルをごくりと飲んだ。

 遅い。
 暑い、遅い。
 いつの間にか、待ち合わせの時刻をかなり過ぎている。
 徹は北口にも念のため行ってみたが、見当たらなかった。Tシャツが汗で背中に貼り付く。時間を間違えたのではないかと思い始めたその時だった。

 大きな麦藁帽子を被った有為が、道の向こうで手を振っているのに気づいた。
 白っぽい麻のワンピースから細く長い手足が覗く。栗色の髪の毛が麦藁帽子の下で揺れている。周囲の男たちが、一斉に有為と徹を見比べた。

(さすがに目立つな)
 文句なしの美少女ぶりに改めて感心すると同時に、これだけ遅れても走ろうとしない有為に、徹は苦笑いした。

 信号を渡って、ようやく有為が徹のもとに着く。待たせてごめんの一言もなく、有為は顎をしゃくった。
「ほら、行くわよ」
「有理は?」
 周囲を見回す徹に、有為は麦藁帽子であおぐ仕草をしながら当たり前のように答えた。

「有理は都合が悪くなったって」
「へ?」
 徹は思わず問い返した。よく言えば優しげ、姉の望の口を借りれば「あたしに似てる割には締まりがない」徹の顔が、当惑したまま固まる。

「それ口癖? 思考停止が見え見えだから気をつけた方がよくない?」
(余計なお世話だ――じゃなくて)
「じゃあ今日は……」
「あたしと二人だと、何か不満でもあるの」

そうかも知れない (向日葵13)

2008年11月10日 23:06

 市民プールは家族連れやら中高生の集団やらで、大混雑だった。三百円の入場券を買って、徹と有為は両脇の男女更衣室に分かれる。
 
 徹は混乱していた。
 一体この展開は何なんだろう。
 
 一応カメラを持ってきたのだが、さすがに二人っきりで写真は――いや、そもそも変態とか言われたらどうしよう。迷った結果、カメラはロッカーに突っ込んでおくことにした。僅かに未練を残しながら、更衣室の外に出る。
 当然のように有為はまだいない。徹はぼんやりと周囲を眺めながら有為を待った。
 
 そして数分後、出てきた有為を見て徹は絶句した。
 
 駅で会ったときは、美少女だと感じる余裕はあった。
 しかし、これは何だ。

 有為は黒のビキニを着けて、少し怒ったように徹の前に立っていた。
 ほっそりとした首元から鎖骨が覗き、腰の位置は高く、足は伸びやかに踝へと続く。
 これはもう反則だ。ルール違反だ。
 試合前にテクニカル・ノックアウト成立。 

「何よ、文句ある」
 有為は、いつもにも増して無愛想な口調だった。

「可愛い……文句無い」
 思わず徹は本音を漏らしてしまう。本来の有為ならば、勝ち誇った表情を浮かべるはずだった。
 だが、代わりに浮かんだ表情は、徹がどきりするほど無防備な笑顔だった。

   * * * * * * * *

 蝉の鳴き声がシャワーのようだ。

 徹はプールサイドで有為と並んで横になっていた。
 いくら若くっても顔を焼くのはちょっとね。そう言って有為は白いバスタオルを頭から被っている。

 小学生の頃、蝉は流れ星みたいだと誰かに話した。蝉の一生について教えてもらったばかりの頃だった。蝉は暗い土の中で何年も過ごす。種類によっては十年以上も過ごす。
 そして夏の夜に地上に出ると、僅か数日で命を燃やし尽くすべく鳴き続ける。流れ星が地平に落ちる瞬間、光芒を放つかのように――

 そう、昼間でも星は流れている。

 こんなことを話したら有為は呆れるだろうか。有理だったら何と言うだろうか。
 リタだったら、静かに頷くのだろうか。
 徹はサングラス越しに流れる入道雲を眺めながら、そんなことを考えている。

「有理のこと好きなの?」
 有為がいきなり話しかけてきた。咄嗟にどう答えていいか分からず、徹は傍らを見たが、有為はバスタオルを被ったままで表情が見えない。

「有理のこと好きなの?」
 もう一度有為が尋ねる。
 そのまま何秒かが過ぎた。有為は身動ぎもしない。徹も何も訊かない。
 そして、徹は答えた。
「そうかも知れない」
「有理は高宮先輩とつきあってるよ」
「ああ、知ってる」

 お互いの顔を合わせないままの会話は、そこで唐突に終わった。

 有為はその後プールに入る気配はなく、徹だけ競泳用プールで何本か泳ぐと、夕方どちらからともなく立ち上がって帰ることにした。
 
 行きは辛辣で饒舌だった有為も帰りは言葉少なで、駅までの道は殆ど会話が無かった。徹から微妙な距離を置いて、外巻きにはねた生乾きの栗色の髪が揺れている。

 周囲の視線を集めているのは相変わらずだった。だが、プールに向かう道すがらお互いの間に感じた秘かな緊張感と期待感――誤解を恐れずに言えばそれは幾ばくかの共犯意識だった――は、どこかに影を潜めてしまっていた。
 駅まであと僅か。このままではいけないと思う焦りから、自分でも思ってもいなかった言葉が口をついて出た。

「写真撮ろうか」
 その唐突さに有為が軽く瞳を見開く。
「最初は三人で撮ろうかと思って。プールサイドには持って行かなかったんだけど……もちろん嫌なら無理には――」

 カメラを取り出しながら説明を始めたものの、話すほど言い訳めくのが自分でも分かる。しどろもどろになっていく。
 目の前で眉根を寄せている、この少女の表情は嫌悪感なのかそれとも逡巡なのか。
 
 とにかく謝ろう。そう思って徹が口を開きかけたその瞬間、
「いいよ」
 有為が返事をした。

「すいません、シャッターお願いできますか」
 徹の反応を待たず、有為は隣を歩いていた子連れの主婦に徹のカメラを差し出すと、徹の腕を自分の腕と組ませた。
 
 肘に有為の身体の柔らかさを感じる。
(有理の匂いとは違う)
 当たり前の事実に、今更ながらに気付く。

「はい、じゃあ笑って」
 主婦の合図とともに、有為が軽く自分の腕を引き寄せるのを感じた。
 
 シャッターを押してくれた主婦に礼を言って徹がカメラを受け取ると、有為は既に歩き出すところだった。二、三歩いた後、思い出したように振り返る。
 その顔はいつの間にか、プールに行く前の有為に戻っていた。

「あのさ、有理も誘ってるって言ったのは、嘘だから」
「へ?」
 有為は、徹の間の抜けた問いかけには答えない。
「じゃあね」 
 そのまま有為は夕暮れの駅に消えた。

もう許して下さい (向日葵14)

2008年11月13日 00:01

 夏休みもお盆も過ぎると、友人やら宿題やら、色々と学校のことが気になり始める。
 リタから手紙が来たのは、そんな頃だった。八月二十日に帰る。そう書かれた文面を受け取ってカレンダーを見ると、既に八月二十一日だった。徹は電話をしてみることにした。

「徹か、元気か」
 久しぶりのリタの声は相変わらずハスキーだったが、徹の電話を喜ぶ響きがあった。
「手紙ありがとう。エジンバラはどうだった?」
「久し振りに母と弟と会った。日本の夏は暑いな。エジンバラでは夜はカーディガンを羽織っていた」

 ひとしきりイギリスの話で盛り上がったが、なおも話し足りない気分だった。リタも同様らしく、
「徹、今週中に一度家に来ないか」
 そう誘ってきた。
「そのつもりで電話した。楠ノ瀬や桐嶋にも声を掛けてみるよ」

 楠ノ瀬麻紀もすっかり退屈していたらしく、二つ返事で了解した。桐嶋とは連絡が取れず、楠ノ瀬に瓜谷の都合を尋ねたところ、夏季講習で勉強漬けとの返事が返ってきた。
 結局、楠ノ瀬と二人でリタの家に行くことになった。

「イギリスにもスイカはあるのかなぁ」
「こういうのは、みんなで食べるに限るって」
 当日、楠ノ瀬と相談してリタの家にスイカを持っていくことにした。

 楠ノ瀬は、待ち合わせ場所にギンガムチェックのワンピースで来た。
「もしかして、あたしがいつもおへそ出してるとでも思ってたでしょ」
 久し振りの会話も楠ノ瀬の先制攻撃からだった。

 楠ノ瀬は夏休みに入って髪を少し短くしていた。ウエーブのかかった茶色の髪は、歩くたびに首の辺りで左右に揺れている。ふわふわして割と似合って――

「徹ちゃんこそ、その相変わらずぼさぼさの髪、何とかしたら?」
 自分が髪を眺めていたことが、どうしてわかったのだろうか。
もはや、自分に内心の自由は無いのかもしれない。楠ノ瀬の前では変なことを考えるのはやめようと誓いながら、曖昧に返事をする。が、楠ノ瀬はなおも攻撃の手を緩めない。

「そういえば徹ちゃん日焼けしたよね、プール?」
 徹は虚を突かれて、一瞬言葉に詰まった。楠ノ瀬の目が光る。
「女の子とでしょ?」

 いつもの小悪魔の表情で徹を見る。特段美人ではないと思う。だが、濃く縁どられた長い睫毛で目を細められると、どうにも落ち着かない。小柄なくせに、出るところが出ているのも手強い。
「どうしてさ」
 徹は精一杯リカバリーした。

「顔に書いてある」
「……えっと」
「っていうのは嘘」
「……」
「リーたんには黙っててあげるね」
 徹は答えられないが、なおも楠ノ瀬は続ける。
「もちろん、有理ちゃんにもね」
「…………」
「あれぇ、有理ちゃんじゃない子と行ったんだぁ」
「……楠ノ瀬さん、もう許して下さい」

計算は合っています (向日葵15)

2008年11月15日 01:09

 リタは少し会わないうちに、背が伸びていた。ノースリーブのブラウスから覗く肌は、相変わらず抜けるように白い。どこか機嫌が悪そうなので理由を聞くと、留守の間、管理人の庭の手入れに不手際があったことが原因のようだった。
 
 三人は再会を祝して、セシルの出してくれたアイスティーで乾杯する。
「あ、ちゃんとアールグレイ。さすがイギリス」
 楠ノ瀬のはしゃぐ声に、セシルが満足げに頷く。

 三人は夏休みの話題で盛り上がった。リタはエジンバラの土産話を、徹はお盆に母の実家に帰ったことを話した。
「五十歳近いおばさんが『由紀ちゃ』なんだよ。カルチャーショックっていうか何ていうか」
「いいじゃん、そういうのって」
 楠ノ瀬が羨ましげな表情を見せる。

 普段は人をからかうことの多い楠ノ瀬だが、自分がいいと感じるものには心から共感を示す素直さもある。リタも楠ノ瀬と比較的波長が合うようだった。

「徹の母上はどんな人だ」
 リタの問いかけに、いや、母上なんて――と慌てて手を振ってから、徹はふと尋ねる。
「それより、リタのお母さんこそどんな人なんだ」
 リタの表情が、すっと柔らかくなった。

「母も一度日本に来ている。十五年前にここで学んだそうだ」
 思わぬ展開に、徹と楠ノ瀬は顔を見合わせた。
「参宮学園で? 凄い偶然じゃない!」
 楠ノ瀬の声も普段より高くなる。

(いや、これは偶然っていうよりもむしろ――)
「当時母は十八歳だったが、ナンバーワンの連になったと聞かされた」
「もしかしてリーたんのお母さんは今、三十三歳? 若いなあ」
 リタは誇らしげな表情を浮かべた。雀斑の僅かに浮いた頬に赤みが差す。

「母は参宮学園を卒業した直後に父と出会い、大恋愛の末に私を生んだそうだ」
「へえ、情熱的。リーたんもクールなようで、実はその血を色濃く引いちゃったりして」
 楠ノ瀬はしきりに徹に目配せしてくるが、徹は無視を決め込む。一方のリタは母親の話となると止まらなくなるらしく、次から次へとエピソードを披露し続ける。

 徹は、リタの意外な一面を見た気がした。
(やっぱり女の子はこの手の話で盛り上がるよな……あれ?)
 だが心のどこかで、何かが引っかかる。

(リタのお母さんが 十五年前に参宮学園を卒業してから結婚して……)
 激しく首を横に振る徹の後ろに、セシルが音もなく立った。

「計算は合っています」
「ひっつ」 
 またも考えていることを読まれた徹は、小さな悲鳴を漏らしてしまった。

「リタ様は、アナスタシア様とエドガー様の子です」
(いや、だって)
 セシルは、何を今更という顔で言葉を続けた。
「リタ様は、十三歳でいらっしゃいますから」
 思わず徹と楠ノ瀬の声が揃った。
「十三歳!」 

 その後、どんな話をしたのか徹は覚えていない。楠ノ瀬がリタを質問攻めにし、その一つ一つにリタが律儀に応え、時にセシルが咳払いでたしなめ――
 いつしか長い夏の日は暮れていた。

 徹たちは夕食の誘いを固辞して、リタの家を去った。

 考えてみると、リタは欧米人にしては然程大人っぽく感じなかった。外国では飛び級の制度もあると聞く。
(でも、十三歳かよ)
 徹は、自分を庇って高宮の前に仁王立ちになったリタの姿を思い出して、溜息をつく。
(いつかあの借りは返そう)
 徹は歩きながら両の拳に力を込めた。

 一つ前の交差点で楠ノ瀬と別れ、徹は自分の家に向かって一人歩いた。
 先程の夕立のせいか、夜風が肌に気持ちいい。
 少しだけ遠回りして帰ることにして――思いもよらぬ運命の悪戯が徹を待ち構えていた。

 高宮武と荻原有理が並んで歩いていた。

ずるい。ずるいよ (向日葵16)

2008年11月16日 23:46

「何だ、藤原かよ」
 鉛色のTシャツに膝下までのカーゴパンツ姿の高宮は、機嫌が良さそうだった。相変わらずの短い茶髪に両耳のピアス。サンダルを履いた足が徹より一回り大きい。

「一人で秀才君は、塾帰りか」
「徹君に何絡んでるのよ」
 徹が口を開く前に、有理が高宮の厚い胸を叩く。高宮は面長の顔ににやけた笑いを浮かべ、強引に有理の肩を引き寄せた。その手慣れた仕草が、心のどこかを苛立たせる。

 徹は眼を逸らしたまで二人の脇をすり抜けようとすると、不意に高宮が足を出した。思わずよろけて、濡れたアスファルトに手を付く。

「藤原どうした。転んだのか?」
 とぼけた高宮の言葉に徹が無言で立ち上がりかけたその時、乾いた音がした。徹が見上げると、有理が高宮の頬を張っていた。

 有理の黒い瞳は怒りに燃えていたが、高宮は怯まなかった。むしろ威嚇するかのように、太い首から上を有理に近づける。
「俺はこいつが気に食わないんだ」
「ふざけないで」
 毅然とした態度であった。だが徹は、有理の薄黄色のTシャツが高宮と同じブランドであることに気付いていた。

(いいんだ、高宮のいうことが正しい)
(俺と高宮の相性は最悪なんだ)
 徹は心の中で呟きながら、二人を眺めていた。

 高宮は何か言いかけて、不意に下唇を舐めた。徹に向き直ると、どこか馴れ馴れしい調子で声を掛けてきた。
「藤原ぁ、お前、有理に惚れてるだろ」
 獲物を見つけた蛇の目だった。薄い唇が歪んでいる。
「残念だったな。今まで俺達が何してたか教えてやろ――ぐはっ」

 がつっ
 有理が、高宮の脛を思い切り蹴飛ばした音だった。
 有理が大股で徹に近付き、その右腕を取る。有理の艶やかな黒髪からは、いつもの金木犀に似た匂いに混じってシャンプーの匂いが微かに漂ってきた気がした。

「徹君、行こう」 
 有理は徹の右腕を引っ張ると強引に歩き出す。高宮を振り返りもしない。
「藤原ぁ、俺の質問には答えないのかよ、お前その女に惚れてるだろ」
 嘲る声が後から浴びせられた。
 ひゃはははは。
 高宮は追いかけて来なかったが、その嘲笑が徹の胸を刺した。

 徹は、黒髪の少女に引っ張られながら夜の街を抜けた。

(そういえば、五月に有為と歩いた道だ)
 その時は何が咲いているかなど気にも留めなかった道沿いの家には、徹の肩ほどもある向日葵が並んでいる。夜の向日葵がフライング・モービルの影絵のようだった。

「――あたし、男の趣味悪いよね」
 徹の右手を握ったまま、ぽつり、背中越しに有理が口を開いた。もはや握る手に力は入っておらず、歩みも遅くなっている。

「中学のとき大失恋したんだ。一つ上の先輩を好きになって、お約束みたいに先輩の卒業式で告白して」
 有理は夜空を見上げながら話していた。
 距離を置いて設置された古びた街灯以外に、辺りを照らすものはない。少女の声は徹に届くか届かないかで、周囲の暗がりに溶けていく。

「自信あったんだと思う。それが、弱くて守ってあげたくなる子がいいって、断られて」
 道端からは、秋の虫の音が聞こえてくる。蝉の季節も終わりだ――そんなことを頭の片隅で考えながら、有理の言葉に耳を傾ける。

「トラウマだったんだね。高宮に、俺が守ってやるって言われたときは、あたし恋してるって思って」
 有理は、うわ恥ずかしい、などと言いながら足元の何かを蹴ろうとする。軽くバランスを崩して徹の手を引っ張ると、有理は不意に手を繋いだままであることに気付き、小さな声を漏らしてその手を放した。

 徹は黙って次の言葉を待っている。

「徹君、何か喋らないの」
 有理は無言の反応に口を尖らした。が、徹には話すべき言葉が見つからない。
「何で自分のことって、うまくいかないんだろうね」
 有理は、今度は足元の小石を蹴ることに成功した。小さな音を立てて暗がりに石が消えていく。

 夜は人を正直にする――誰の言葉だったろうか。
 今日の有理はいつもと違う。昼間の有理はどう言ったらいいのか、奢りも媚も無い自然体の魅力に溢れているが、今の有理は危なっかしい。

「ねえ徹君、聞いてる?」
 再度の問いかけに、徹はつい、心の隅に引っかかっていたことを口にしてしまった。
「なあ、さっきのは本当なのか?」
 有理が小首を傾げる。
「高宮が、今まで俺達が何してたか教えてやろうか、って」

 言った途端、強い後悔の念に襲われる。
 有理が溜息をついた。手を自分の腰の後ろに組んだまま徹に向き直り、寂しげな笑顔を浮かべる。
 徹は、今更ながらに自分の気持ちに気付いた。

 街灯に照らされた黒髪の少女は、本当に綺麗だった。

「クイズ。この中で一つだけ本当のことがあるから。一.荻原有理は高宮にホテルに誘われたけど何もしなかった。二.荻原有理はもう高宮武のことを好きじゃない。三.あたしの……」
 有理が唾を飲み込んだのがわかった。
「三.荻原有理の特技は嘘を付くこと」

 いつしか有理の家のすぐ近くまで辿り着いていた。
 有理は泣き笑いのような表情を浮かべ、徹の返事を待っている。五月の有為の癇癪を起した表情と、今の有理とが心の中で二重写しになる。

 徹は夜空を仰いで深呼吸した。こんな展開になるなんて、今朝起きたときは想像もしていなかった。
 徹はもう一度深呼吸すると真直ぐ有理を見た。
「オギワラユリ、俺と付き合ってくれ」

 有理が呆然とした表情になり、すぐに顔が歪んだ。
「徹君、ずるい。ずるいよ」

 そう、自分はずるい。
 質問に答えないのがずるくて、相手の弱みにつけ込んで告白するのがずるくて、言いっ放しでここから立ち去ろうとするところが、救いようが無くずるい。

 おやすみ――そう言って徹は有理に背を向けた。
 自分でも最低だと思った。耳元には、高宮の声がこびり付いている。

 そしてまたコーラの水割りを飲む日が続き、徹の夏休みは終わった。

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